遊びと文化』山川学而

第一回  おもしろさの秘密(その1)

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3 「隠す」ということの意味


社会人としての人間は、自分の名前と顔を人々に知ってもらい、自分のいいところを認めてもらおうとする。そこでは人は自分のいいところをできるだけあらわにして、目立たせたいと思っている。その反面、人は不必要に自分の心やプライバシーを知られることを好まない。そういうところはできるだけ隠そうとする。人間の生活は、現すことと隠すことから成り立っているといってもいい。

 人間はつねに何かを隠している。それが習慣になってしまって、ほとんど無意識に隠している。また、隠さなければ重大な結果になることも少なくない。
 人間の生活を考えてみれば、隠すということが人間にとってどれほど大きな、重要な問題であるかが分かるはずである。家の中には他人に知られたくないことがたくさんある。政治家は世間に知られたくないことをいっぱい持っている。男は女にしられたくない、女は男にしられたくないことがある。商売をやれば商売の秘密がある。などなど。プライバシーなどというのも結局は個人的なことを隠すことである。

 家というものの機能の一つは家族のプライバシーを他人の目から隠すことである。その家族の間でさえ隠すことが必要なこともある。たとえばトイレの存在がそれを示している。自分の利益からばかり隠すとは限らないものがある。エチケットとして隠すとか、道徳的な配慮から隠す場合もある。
 人間は服を着るのも、一つには「隠す」目的からである。服は寒さを防ぐなどの効用もあるが、一番大きな目的は裸を隠すということである。そればかりでなく、体の一部を隠さないことが犯罪になることもある。家の中では裸に近いかっこうでいる人も、外に出る時は服をきる。勤めに出るのできちんとしなければいけないとか、恋人に会うのできれいにしていかなければとか、いろいろなことを考えて服を着る。だが、その時服を着る人の心理の中に「隠す」という意識もはたらいているはずである。服装をきちんとすることによって、仕事上の競争相手には自分の弱みを隠そうとするだろうし、上司には二日酔いで頭が少しぼんやりしていることを隠そうとするだろう。きれいになろうとする女性は、自分の体型や肌色の欠点や傷痕やしみなどを隠そうとする意識が必ずはたらく。
 サラリーマンの制服と言われる紺の背広は、個性を隠す効果がある。みんな一律に同じ色の、同じスタイルの服を着ることで、一人一人の個性が見えにくくなる。職場によっては個性が強く出すぎるのは仕事の邪魔になる。もう帰りたい、ビールが飲みたい、あの客は嫌いだから相手にしたくない、あの美人とねんごろになりたい、などという欲求や願望を隠すのにきちんとした背広は大いに役に立つ。topへ
 キリスト教の牧師さんや仏教の坊さんなどが黒い服を着るのは、人間的なものを隠す効果がある。その人たちも異性に対する欲望や時には金銭的な欲望もないはずはないが、そんなものはないかのように振る舞う必要がある。
 人に隠したいところがない人はいない。家の中や遊びの場では見せられるものでも、仕事の間は隠しておきたいこともある。家族にだけはみせられるものや、夫婦の間でしか見せられないものものある。人前で見せると下品だと思われるような欲望は隠しておきたい。自分の弱みも隠したい。

 ふだん無意識にやっているが、よーく自分の生活を振り返って観察してみると、自分がいかに多く、毎日何かを隠そうとしているかを発見しておどろかない人はいないだろう。それは他人同士の間だけにかぎらない。夫婦の間にも、親子の間にもある。またそれは善意から出ることも悪意から出ることもある。
 相手の心をきずつけまいとして隠すのは善意であり、相手に隠すことによって相手をおとしめたり、そこから何かの利益をえようとするのは悪意である。
 男と女がおたがいに自分のいいところを見せ、欠点をかくし、相手の気を引こうとする恋のかけひきのようなものは一種の遊びだということもできるだろう。
 犯罪とその捜査も言わば隠しっこ、かくれんぼである。それがあるからミステリーや推理小説がおもしろくなる。人は推理小説は推理がおもしろいのだと思っているだろう。そのとおりであが、推理が成り立つためには犯人と刑事の隠しっこ、隠れんぼがなければならない。そこで多くの人は、隠しっこや隠れんぼは推理をおもしろくするための道具だと思っている。だが、私はその発想を逆転させてみたい。読者は隠しっこや隠れんぼそのもののおもしろさをたのしんでいる。少なくとも、その点を軽く見て、推理のおもしろさだけを追求したのでは本当のおもしろいミステリーは書けない、と私は思う。
 
 日常生活ではほとんど無意識に「隠す」という行為をしているが、隠すことは人間の社会生活にとってなくてはならない習性である。そして、それはイナイイナイバアに見られるように、「認識」というものにかかわる現象である。
 またその習性は人間だけのものではない。動物もよく隠れるし、また物を隠す動物も少なくない。ある種の動物が餌を地面の中に埋めて保存したり、魚が岩の下にかくれたりなど、その例はいくらでもある。とすれば、隠す、隠れるというのは生きるものの生得的な習性なのかもしれない。そして、それがいろいろの遊びに現れるのである。
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