陸奥新報随想 1
二千二年一月十九日(土)
垣間見た名人の素顔 山川学而
弘前大学の正門前に以前瀬川書店という本屋さんがあり、その店の一角にMONという小さな喫茶室があった。書店は夫が、MONは奥さんがやっていたが、昭和三十九年その店を始めた時、夫婦ともに学生と同じくらいの歳だったので、学生達は友だちの家に遊びに行くような感覚でよく遊びに来た。彼らは夫の方をマアチャン、奥さんを節チャンと呼んだ。今はその店はなくなり、マアチャンは数年前に亡くなった。
MONが出来てから数年たったころのこと、一人の白髪のやせぎすの老人が時々やって来て、『週刊朝日』を買ったあとMONに立ち寄り、いつもミルクを飲んで帰って行った。その間ほとんど口も聞かないし、名前も言わないので、だれもその人がどういう人か知らなかった。
同じころコーヒーのセールスに回ってくる人が時々益子からコーヒー・セットを仕入れて持ってきて、喫茶店などに売っていた。そのなかに気に入ったのがあったので節チャンも一セット買った。灰色に透明釉をかけた厚手の生地に、縁のところだけ緑色の釉薬を重ねたもので、益子らしい素朴な味があった。
だが、お客に出して使っているうちに縁の緑色のところが欠けてきたので、出すのをやめてカウンターのうしろの棚に飾っておいた。
ある日例の老人がそれを見て「そのカップは…?」とたずねたので、節チャンが、
「これ益子焼で、私好きなんだけど、縁が欠けるのがいたわしいくて、使うのをやめたんです」と言った。
それを聞いた老人が「ちょっと見せて」と言って、そのカップを手にとってしげしげと見、何を思ったか
「これ、しばらく預かって行っていいべが?」と聞いた。
「どうぞ」と言うと、そのカップ4つか5つ持って帰って行った。
しばらくすると老人はそのカップを持ってまたやって来た。そして、取り出したカップを見ると、おどろいたことに、欠けていたところが全部きれいに直っていた。釉薬も生地も、前と全く同じで、どこを直したのかまったく分からなくなっていた。ただの粘土や木製品ならともかく、陶器でこのように修理することは余程の技術がないとできないことは素人にも容易に想像できた。私もあとで見せてもらったが、色も形もみごとに前と同じで、つなぎ目がどこかも分からず、釉薬の溶け具合もまったく同じだった。
老人は喜ぶ節チャンの顔を見ながら、いつものように黙ってミルクを飲んで、何も言わずに帰って行ったという。その後も時々ふらっとやって来て、ミルクを飲んで、名も告げずに帰って行った。
それが陶芸の大家として知られる高橋一智さんだと節チャンが知ったのは、高橋さんが亡くなったことが新聞に写真入りで載った時だった。一智さんと言えば、津軽出身で日本の民芸運動に深くかかわった人で、浜田庄治氏が「私の友人」と呼んでいたが、一智の方では浜田氏を「師匠」と呼んでいたと言われる。いずれにしても、民芸運動の中でも大きな役割を果たした陶芸家である。このあたりでは知らない人はいない。
その話を聞いて、私は高橋老人の心がよく分かったと思った。老人は節チャンが「縁が欠けるのがいたわしくて」というのを聞いて、陶器を大事にしている人の心を感じたのである。陶芸に一生をかけた人として、陶器をそんなに大事にしてくれる人がいることがうれしかったのである。
高橋一智さんともなれば、その作品は茶碗一つ何万円で売買される。欠けたコーヒー・カップを直して幾らになるかなどという野暮ったい考えは師の頭には毛ほどもなかった。うまく直して素人に自慢しようなどと考えるはずもない。ただ、そんなに大事にしているものなら、何とかしてあげたいと思っただけなのである。欲得ずくのまったくない、あったかい気持ちだけだったと思う。