シリーズ 西欧絵画を斬る
フランス印象派篇
山川学而

西欧絵画もくじへピエロの館表紙へ


マネの闘いとモネの栄光

1 マネとモネ click here
2 マネとスキャンダル click here
3 『オランピア』の運命 click here
4 ナポレオン3世とマネ click here
5 アカデミーの価値観とのたたかいclick here
6 古さと新しさclick here
7 マネの時事的テーマ click here
8 ゾラの離反 click here
9 カメラと印象派 click here
10 社会的背景 click here
11 《美は対象に依存せず》click here

1 マネとモネ

 一九二二年モネ(Claude Monet 1840-1926)の『睡蓮』などの作品が政府に買い上げられ、オランジュリー美術館に特設室を用意して飾られることになり、印象派の栄光は頂点に達したように思われる。モネは印象派のうちもっとも幸せな生涯を送った画家だったかもしれない。
 彼らが「官選展」であるサロンに反逆し、「落選展」すなわち第一回印象派展を開いてから半世紀以上たっていた。モネは印象派の象徴的な存在になった。印象派という名前のもとになった『印象 日の出』をかいたのもモネだったし、もっとも印象派らしい美の世界を創造したのもモネだった。。
 しかしその間、世間の偏見とたたかいながら印象派グループの存在を世に認めさせた立役者はマネ(Edouard Manet 1832-83) だった。それがマネが印象派の父と呼ばれたゆえんである。
 しかし、技法的な問題に限って見れば、マネの絵はまだ十分革新的と言えるものではなかった。題材についてはかなり思い切った、大胆な選択をしているものの、まだ時に寓話性を含んだテーマを入れたり、風景画にあまり描かなかったなどの点では、十分印象派的だったとは言えない。

 モネははじめから「新しい」感覚の持ち主だった。
『印象 日の出』が非難されたのも、マネに対してのように「不道徳性」や「低俗さ」のゆえにではなく、保守派に理解できない新しさのゆえだった。
 技法の面で真の新しさによって二十世紀への道を開いた立役者はモネとセザンヌだったと断言していい。その二人のうちセザンヌは、二十世紀のキュービズムに直接つながる新しさがあった。その意味ではモネはセザンヌに一歩ゆずらなければならないが、しかしモネは、十九世紀前半までの古い絵画に「引導をわたす」という役割を果たした。その意味ではモネは最大の貢献をした。

 モネより八歳年上のマネの絵は、ある意味でモネのそれより二つの点で古いということができる。その一つは、印象派の絵は物の形や輪郭をはっきりと描かないのが特徴だが、マネはまだ形と輪郭にこだわっていた。
 もう一つは、マネがあまり風景らしい風景を描いていないことである。印象派以前の画家は室内で制作し、野外で風景を描いたりはしなかった。印象派は野外の明るい光のなかで描き、しかもその光そのものを捉えようとした。人物や人間のドラマよりも、明るい光の中で向かい合った野外の景色に関心を向けた。たとえばセザンヌは、太陽の光のもとで人物が一人もいない風景をたくさん描いているし、ほかの多くの印象派の絵は人物を描くときも風景の中の一部として、時には点のような小さな存在として描き、肖像画を別にすれば、人物の細部の描写にこだわらなかった。

2 マネとスキャンダル topへ

 一八六三年官選展である「サロン」が開かれたとき、その選にもれた作品だけを集めて展示する「落選展」がひらかれ、そのなかにあったマネの『草上の昼食』が大変なスキャンダルになった。

 森のなかの空き地。草むらに二人の背広の男と一人の全裸の女がすわっている。その三人の姿勢と三角形の構図は、マルカントニオ・ライモンディの版画『パリスの審判』の一部をそっくり模倣したものである。
 『パリスの審判』はギリシア神話から題材を取ったエッチングで、多数の裸の男女や雲のうえを走る馬車などを描いている。それは神話なので、裸の男女(神)は不自然に見えないが、マネの絵で当世風のは背広を着た普通の男たちがピクニックのランチを食べていて、女だけが裸でいる。モデルは当時流行した高級娼婦だという。卑猥な連想を呼び起こしかねない。見ようによっては、男女のふしだらな関係を想像させる余地は十分ある。当時の中産階級の世界ではそういう光景が実際に見られたのかもしれない。
 
 裸婦の描き方も古典的なものとはかなり違う。神話的雰囲気もなければ、幻想的でも空想的でもない。アングルの裸婦のような理想化された女性美もない。裸婦の筋肉の凹凸の描写の仕方は平凡な女を見たままに描いたように見える。その意味では写実的である。この絵だけ見たら、マネはリアリズムを指向していたと思う人があったとしても不思議ではない。その点では新しさがある。
 ヨーロッパの絵画の歴史を振り返って見れば、ギリシア時代のビーナスや、ポンペイの遺跡から発掘されて近代ヨーロッパの絵画に大きな影響を与えたという壁画や彫刻の多くは、人間ではなく裸の女神を描いていた。当然理想化されている。ルネサンス時代の女性にもその名残がある。
 ルネサンス時代に人間性が回復したと言っても、そこで描かれた人間性はキリスト教の戒律と共存できる限度内のものだった。
 ルネサンス以後のバロックやロココの絵画もその流れをくんでいた。やや低俗化したとはいえ、貴族社会の上品さを保っていて、不道徳ではなかった。十九世紀になっても新古典主義として、理想化された女性美を描くというかたちで尾を引いていた。そのことはアングルの一連の裸婦を見れば一目瞭然である。

 マネの≪草上の昼食≫の女性は、卑猥でないにしても、身近な人間をリアルに描いたというだけで古典派の目から見れば低俗と見えたはずである。いずれにしても、この絵がスキャンダルになったことで、マネのは革新派の旗手としての名声を得ることになった。
 印象派の初期に自然主義者の作家ゾラが絶大な支持を与えたという事実はこのような点に関係がある。保守派からスキャンダルと見なされる革新性が、ゾラの目には政治や社会問題にまでおよぶ革新運動の萌芽と映ったのかもしれない。

3 『オランピア』の運命 topへ
  
 『草上の昼食』よりさらに大きな非難を浴びた作品に『オランピア』がある。この名前は英語読みすれば「オリンピア」というギリシアを連想させる名前だが、高級娼婦を描いたもので、批評家たちの間ではスキャンダルとして非難された。

 ベッドに大きな枕を重ね、裸婦が横たわっている。その構図はゴヤの『裸のマハ』を連想させる。『オランピア』と『マハ』とでは体の向きが左右逆であるが、上体を少し上げた角度や、体を少し正面に向けて起こしているところなどはよく似ている。ゴヤのほうが肌の色もきれいで、表情もゆたかであるのに対して、マネのほうはより平凡な女という感じである。批評家たちは「みにくい黄色い腹」とか「個性的でない顔」「不自然なポーズ」などと、さんざんの悪評を浴びせた。

 伝統的な絵画の裸婦と違う点は、理想化された女性美でないということである。マネの『オランピア』はたしかに「上品さ」はない。マネと比べれば、ゴヤの『マハ』でさえまだずっと上品に見える。それでも『マハ』を所有していたゴドイは、人がくるとそれを隠し、かわりに『衣装を着たマハ』をかけていたという。一八一五年には『裸のマハ』が裁判ざたにさえなっている。
 時代が違うといっても、マネの『草上の昼食』が堂々と美術展に陳列されたのだから、ごうごうたる非難の的になったのは当然だったかもしれない。
 要するに当時の批評家たちの目には『オランピア』は「美的に理想化されていない」ということだった。理想化されていない裸婦を描くことがマネの戦いだったのである。それに「オランピア」という名前をつけたことにもマネの思いがこもっているのかもしれない。

 マネを尊敬していたセザンヌは後に自らも『モデルヌ・オランピア』(新オリンピアというほどの意か?)という作品をかいているが、そこでは裸婦は向こうを向いてベッドに横たわり、手前にはまだ服を着たままの男がベンチにすわって女のほうを見ている。あきらかに売春を連想させ、マネのそれよりさらに不道徳に見えるその絵をセザンヌを何と思って描いたのだろう。おそらくはマネのたたかいへの、遅ればせながらの声援の気持ちをこめていたのではないだろうか。

 セザンヌは後にマネの『オランピア』について、「われわれのルネサンスはここにはじまった」と言ったという。また一八九〇年にはモネ、ルノワール、ドガ、セザンヌなどが中心になって、この作品の買い取りのための基金集めをし、政府に寄贈した。寄贈された『オランピア』は最初リュクサンブール美術館におさめられ、十七年たった一九〇七年、ルーヴルにおさめられた。そのときモネが美術相あてに、この作品をルーブルに入れてくれるようにと、切々と訴えた手紙が残されている。それは印象派の人々のこの作品とマネへの思い入れを物語るエピソードである。

4 ナポレオン三世とマネ topへ

 もう一つ物議をかもしたマネの絵がある。『皇帝マクシミリアンの処刑』である。マネをふくめて印象派の絵には政治的、社会的意図をもってかいたものはきわめて少ないが、これはマネの作品で唯一強い政治的意図をもっているかのように見え、また政府筋からもそのように見なされて物議をかもした作品である。
 そのテーマには彼はかなりのこだわりを持っていたと見え、最初リトグラフでかき、その後油絵でほとんど同じ構図で描いている。だが、彼自身は政府を批判するつもりはなかったと言っているから、どこまで「政治的意図」があったかは不明である。

 ナポレオン三世はメキシコに二万四千人の軍隊を送ってこれを平定し、オーストリア皇帝の弟だったマクシミリアン大公をメキシコ皇帝の地位にすえた。しかし、一年後、アメリカの援助を受けた共和主義者の軍が攻めてくると、フランス軍をひきあげてしまう。皇帝は降伏して、二人の将軍とともに銃殺された。彼らはナポレオン三世の野心の犠牲になったように見える事件である。
 マネの絵では六人の兵士が三人の男の胸元に銃口を突きつけて発射した瞬間を描いている。その兵士が着ている制服は、リトグラフではメキシコ軍のそれだったが、油絵ではフランス軍のそれに変えている。そんなところに政治的意図が滲んでいるようにみえ、当局はサロンへの出品も差し止め、リトグラフのほうは販売禁止にした。(そのとき政府の措置を猛烈に批判し、マネを弁護したのはゾラだった)

 マネは共和主義者だったというから、皇帝批判の意図を持っていたとしてもおかしくはないが、彼自身はそんなつもりはなかったと言っている。その言葉が真実だとすれば、彼は単なる歴史的事実としてのドラマを描いたにすぎないとも考えられる。露骨にナポレオン三世を批判するつもりだったとすれば、サロンに出品しようとはしなかったのではないか。少なくとも、サロンへの出品が差し止められるほど「政治的」「批判的」な絵をかいたつもりはなかったのかもしれない。だが、実際には政府当局から厳しい目で見られることになった。

 彼はサロンにはつねに出品しようとしていたから、反逆しつつも自分の絵が公的に認められることを求めつづけた人である。そして最後にはレジオン・ドヌール勲章を受賞している。

 彼は古い理想や幻想をかなぐり捨てることによって、日常の身の回りに出現しつつあった新しい世界を見たままに描こうとしたにすぎなかったのかもしれない。そのためいろいろの因習の殻を打ち破り、新しい絵画を創造したいと、たえず積極的に挑戦していたらしいことが伺われるのである。

5 アカデミーの価値観とのたたかい topへ

 印象派以前にはまず第一に題材やテーマが重要視された。それはつまり歴史上や、宗教上の事件で、人々がよく知っていることを描くことである。風景画や静物は低く見られていた。
 一六六八年美術史家フェリビアンのアカデミー講演で、絵画の価値を描く題材によって次のようにランクづけしたという。

第一位 歴史画。宗教の歴史,古代の歴史などに取材したもの
第二位 肖像画,風俗画
第三位 静物,風景画

 これが十八世紀フランスの王立絵画・彫刻アカデミーによって公認された価値観だったのである。風景や静物は背景としてか、小道具もしくはわき役として以外にはあまり描かれなかった。十九世紀になってもそれは尾をひいていた。

 宗教や歴史のできごとを描こうとすれば、そこに登場する人物の一人一人がだれであるかがはっきりと分かるように描く必要がある。肖像画ではもちろん、一目見ただけでだれを描いたかが分からなければ意味がない。こういう価値観のもとでは印象派のような絵は絶対に生まれない。
「何を描くか」──歴史上の「事柄」「事件」をテーマにする絵画では、いつ、だれが、どこで、何をしたか、など英語で五つのWと言われるようなことをはっきり分かるように描かなければならない。描かれている人物や物体の一つ一つがディテールまでしっかりとした輪郭を持って描かれなければならない。そういう絵画とモネやセザンヌの描き方とは絶対に両立しない。(キュービズムについても同じことが言える)
 
 それはいわゆる写実でもない。描かれているのが「何であるか」すぐに分かるように、そしていかにも「それらしく」描かれていなければならなかった。「それらしく」というのは、人々が「そうだろう」と思っているように、人々が持っているイメージと矛盾しないように描くことである。想像は事実とかけ離れ、事実はまたしばしば人々の想像をこえるのが普通だが、神話や歴史を描くときは、人々の想像と矛盾してはならない。
 視線の方向や手の表情や姿勢などもすべて何を意味するか人々が納得するように「説明」できるのでなければならない。そして、人々が「なるほどこれはヴィーナスだ」「なるほどナポレオンだ」などと納得するように描く必要がある。それは画家が見たことをそのまま描くことでなく、人々の心の中にあるイメージを引き出すことである。

 たとえばダビド(1748-1825) は馬でアルプス越えをするナポレオンの勇壮な姿を描いている。(『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』)馬はまさにひと跳びでアルプスの峰を跳びこすかと思われるほどの躍動感にあふれている。だが、実際には、ナポレオンは馬ではなくラバでアルプスを越えたのである。その姿は勇壮でもなく、ただひたすら苦難に耐えつつ、とぼとぼと越えたにちがいない。しかし、人々の心にあるナポレオンはどうしてもラバでなく馬に乗っていなければならなかった。   
 ダビドはこの絵をいかにもリアルに描いていて、馬の筋肉の盛りあがりや風になびく尾やたてがみの一本一本の毛などを克明に描いている。血わき肉おどる英雄の姿そのものである。しかしそれは写実でもなければ事実でもない。ただそれは民衆の心に生きているナポレオンであるという意味においてのみ真実なのである。

 歴史上のできごとや寓話などを描くのが絵画の役割だとする価値観は、風景画とも両立しにくい。できごとには人物が不可欠だが、風景画には人物はかならずしも必要ない。事実セザンヌの風景画の多くは人物も動物も登場しない世界である。人物や動物がいない舞台にドラマやエピソードは生まれない。そういう絵が古い価値観と両立しなのはこれまた当然だった。
 その上風景を描く画家の多くは野外に出て、自分の目で見た自然を描こうとする。伝統的な絵画には、肖像画をのぞいて「目で見て描く」という観念はあまりなかった。直接目で見たものより、心の中にあるイメージを描こうとするから、描く対象に対する姿勢が基本的に違っていた。

6 古さと新しさ topへ
 
 そういう価値観からすれば、モネの絵のように、テーマや物語性などというものはほとんどない、形や輪郭もはっきりしない「何が描かれているかよく分からない」絵も同様、はじめから認められるはずはなかったのである。
 印象派の絵を見た人が「この絵には印象しかないではないか」と言ったというが、その言葉の裏には「漠然とした印象は描かれているが、個々の物体や人物はよく分からない、特にディテールは完全に無視されている」という意味が含まれていたと考えられる。それこそモネが目指したものなのだが、まったく異なる価値観を持つ人々には「なにもない」と映ったのである。

 モネやセザンヌは形や輪郭のはっきりしない絵をかいたが、マネはしばしば形も輪郭もはっきりした絵をかいている点でまだ古さを残していた。しかし、だからといって、保守派から容認されたわけではなく、むしろそのテーマゆえに排斥された。

 そのテーマは神話や宗教の物語から取ってきたものではなく、理想化も美化もされない日常を描いたものだった。たとえて言えば、アルプス越えするナポレオンを描くのに、馬ではなくラバに乗ったナポレオンを描くようなことをしたのである。それは事実ではあるが、民衆の心にあるナポレオンの真実の姿ではない。事実はしばしば民衆の夢を打ち砕く。マネが保守派のひんしゅくを買った理由がそこにある。
 もし彼がモネのように「何を描いたかよく分からない」作品をかいていたら、たとえ(モネのように)「下手な絵だ」として嘲笑されたとしても、政治がらみのトラブルに巻き込まれることはなかっただろう。
 マネはしばしば物議をかもし、絵のできばえよりも悪評によって名をあげ、たたかう印象派のリーダー的存在になったと言うことができる。

7 マネの「時事的」テーマ topへ
         
 アカデミーによる絵画の価値のランキングでは、宗教的題材などの歴史を描いたものが一位におかれたことは前にのべた。マネはそれは認めなかったが、彼自身の時代の、コンテンポラリーな歴史的事件には興味を持った。
 たとえば『アラバマ号とキアサージュ号の海戦』(1872)という作品がある。一八六四年アメリカ南北戦争中有名になった北軍のキアサージュ号と南軍のアラバマ号との戦いを描いたもので、サロンにも出品し、入選している。
 その構成といい、水の描き方といい、ほとんど青系と黒だけの色の使い方といい、すばらしい作品である。その作品をかくのにマネは、キアサージュ号がフランスを訪れたとき、停泊中のその船をスケッチし、新聞にのった海戦の写真も利用した。その画法はリアリズムそのものと言ってもいいようなものである。
 彼がどうしてそういう絵を描いたかさだかでないが、さきの皇帝の処刑と同様、現代における「歴史的事件」に関心があったのではないかと想像される。しかし、そこで注意すべき点は、この絵には人間の姿がほとんど描かれていないことである。二、三それらしい小さな姿はあるが、はっきりと識別できない。ただ二つの軍艦が激突するようすがあるだけである。
 マネの関心はあくまでも事件に寓話や理想を含めることではなく、現実のドラマを描くことであったように見える。ある意味でリアリズムであったが、社会問題や政治問題に首を突っ込むというような形でのリアリズムではなく、過去の絵画に氾濫していた理想化されたイメージを排し、身近なできごとを描いたという意味でリアルだったのである。

8 ゾラの離反 topへ

マネは新しく出現した市民社会、都市生活、そこに生きる人物像など、身近な対象を理想化したり美化したりしないままで描いたところに、リアリズムを指向しているように見える一面を持っていた。ゾラがマネのたたかいを熱烈に支持したのはそのためだったと思われる。彼はマネのたたかいに自分の味方をみたと思っていた。彼は当時印象派を自分と同じ「自然主義」という名で呼んだのもそのためである。それはゾラの誤解だった。ゾラは誤解によって印象派を自分の同志と考え、支持したのである。
 実際には、マネは作品をとおして社会問題を追及するほど強い批判的精神の持ち主ではなかった。ただ、身近な市民生活を描くだけで激しい抵抗をうけるほど、保守的勢力が強かったということである。
 マネは最後にはアカデミーからも容認され、レジオン・ドヌールを受賞する。それまで長い戦いいだったが、その間に時代が変わったのである。

 マネは実は『草上の昼食』をかく前、その「習作」をかいているが、そこには裸の女性はいない。平凡ではあるが、そのほうが絵としてはむしろよかったようにも見える。だが、本作品でそこにあえて一人の裸婦をかき込んだところにマネの戦う姿勢が読み取れるような気がするのである。

 一般に印象派と言えば、モネに代表されるような斑点画法を思い浮かべる人が多いと思うが、実際は彼らはずいぶん多様な絵をかいていた。モネやセザンヌも初期にはかなり具象的な絵もかいている。彼らはお互いにはっきりとした共通の技法や価値観を持って集まったグループというわけでなかった。ただなんとなく、古い型を打破しようとする意欲を共有していたことだけは確かだったが、彼らの絵を見て「これは印象派だ」と言えるようなものは意外に少ない。

 このあたりの事情は作家のゾラ (1840-1902)の印象派に対する評価の変化を見るとよく分かる。
 自然主義小説の作家であったゾラはセザンヌと同じ町に生まれ、同じ学校を出ている関係で、セザンヌはじめ印象派の人々と親交があり、最初は彼らの熱烈な支持者でもあった。前にものべたように、彼はそのころ印象派の姿勢を文学上の自分の考え方と同一視し、印象派をしばしば「自然主義者」と呼んだ。
 レヴェヌマン紙上でマネを熱烈に擁護する記事を書いたこともある。(1866年) しかし、一八八〇年には完全に印象派から離れ、彼はつぎのように書いている。

「悲劇的なことには、この画家集団(印象派)のうち誰一人として、全員で共有し、全員の個々の作品すべてに行き渡る体系的な表現法を、明確かつ説得力あるかたちで表明したものはいなかった」

 これは印象派が一つの主義や同じ技法を共有していないと言って批判しているわけだが、その批判は当たっている。ただ、印象派は彼らが否定し、拒否するものを共有していたということをゾラは見落としていた。
 かつてセザンヌはゾラにしばしば金銭的援助を求めたと言われるが、この二人も仲違いしてしまった。一八八六年のゾラの小説『作品』では、うだつのあがらない、創造力のない画家を描いているが、その人物像はマネとセザンヌをいっしょにしたものだという。ここでもゾラは印象派を誤解していた。彼は初期の印象派を誤解して支持したように、最後にはまた誤解によって離反していったのである。それに対してセザンヌが「ゾラにはわれわれのことは少しも分かっていない」と言ったといわれる。

9 カメラと印象派 topへ

 カメラの出現が絵画に影響を与えたことはよく言われることである。印象派もその例外ではなかった。
 印象派の初期にはゾラのいう「自然主義」の萌芽のようなものがあったのに、その芽はあまり育たず、彼らの関心が主に技法の面に向けられたことと、写真と関係があると見られる。彼らは現実を写すことにおいては写真にはとてもかなわないことを知らされ、写真にできない技法に関心を向けたのである。

 印象派の画家たちがカメラに強い興味と関心を持ったことはよく知られている。彼らは風景を描くに写真をよく利用した。マネが『キアサージュ号』を描くのに写真を使ったことは前にのべたが、モネやセザンヌも写真を利用した。モネはカメラを四台持っていたという。風景画を描くのには特に写真が役立ったという。
 野外の景色は時々刻々変わる。明るさや光の方向や影が変化する。天候によっても景色は違って見える。ある日のある瞬間の景色を描こうとするには写真に撮っておくのがいい。野外で描くことをモットーにした彼らだったが、仕上げはアトリエですることも少なくなかったという。そこで写真が役に立った。
 彼らは写真を利用する一方で、対象を精密に写し取ることでは人間の手は絶対に写真にかなわないことをだれよりもよく理解したはずである。彼らが写真的リアリズムから離れていったのも当然だったと言える。

10 社会的背景 topへ

 彼らも一市民として戦争や革命などの波瀾に富んだ時代に生き、その渦中にあったのであって、決して孤立して、無関心でいたわけではない。

 一八七〇年には普仏戦争が勃発し、彼らの多くが巻き込まれている。ルノワールは招集され、騎兵隊に、ドガは砲兵隊に入った。バジールは戦死。ゴーガンは海軍に入った。マネは熱烈な共和派で、国民軍の中尉。プロシア軍によるパリ包囲の間、マネの妻あての手紙が気球によって配達されたというエピソードも残っている。
 クールベは普仏戦争のあとパリコミューン(1871)に参加、その後投獄、そしてスイス亡命。
 モネとピサロは戦争をさけてロンドンにのがれた。
(その間モネは≪テムズ川とウェストミンスター寺院≫(1871)などをかいたり、ターナーの絵に接して感動したといわれている)
 モネは政治的には「ノンポリ」、マネは共和主義者だった。
 セザンヌは徴兵を逃れて、エスタックの田舎に移り住んだ。
 マルクスの資本論は一八六七年に書かれている。

このような時代であったにもかかわらず、印象派の絵にはその影がほとんど見えないのは、おそらく彼らの関心がまずマンネリ化した保守的な絵から決別することであり、そこに前述のような事情も加わって新しい技法に向かっていたからだと思われる。

11 《美は対象に依存せず》 topへ

 「落選展」に出したモネの『印象 日の出』という作品が、「なんだ、あれはただの印象ではないか」といって嘲笑され、それが印象派の名称のもとになったことは前に述べた。そのときモネはおそらく、新しい画法の先駆になるなどという意識は毛頭なかった。そしてまた、あのように「印象」を描いた作品は彼より前にもなかったわけではない。ターナーは霧で物の輪郭がさだかでない風景をよく描いている。農村の風景を描いたミレーなど、バルビゾン派の人たちも、あまり明確な輪郭にこだわらない絵を残しているし、何よりずっと古く十七世紀や十八世紀にも、霧の深い風景画がなかったわけではない。ただ少しモネと違う点を探せば、モネのほうがやはり身近な風景という感じがして、あまり「上品な」印象は与えない。この絵を批判した人はただ下手な絵だと言いたかっただけかもしれない。

 しかし、問題はそんなところにはない。モネのその作品は後の『睡蓮』などに見る色彩分割の斑点画法とは大分異なる。『印象 日の出』と『睡蓮』とでは、知らない人が見たら、おそらく同じ人が描いたと思われないほど違う。一方は灰色の朝霧の中で、物の形としては船らしいものの影があるだけで、ほかにはほとんど何もないと言っていいほどである。他方『睡蓮』では物の形こそあまり明瞭でないものの、色は赤、青、緑、紫などと多彩である。『日の出』のほうは全体がもやっとしているのに対して『睡蓮』では斑点画法もしくはハッチングで描かれていて、タッチが全然違う。
 問題はこれほど違うマネの初期と後期との作風をどう結び付けて理解するかである。
topへ
 結論を言ってしまえば、上の二つに共通するのは物体の輪郭がよく分からないということである。言い方を変えると、モネは描く物体の明確な形に依存しなくても絵画は成立するということを示し、輪郭をきちんと描くという作業から絵画を解放したのである。長い間何の疑いもなく信じられてきた、絵画とは物体の形をかくことであるという観念をくつがえしたということになる。
 それを一言であらわせば

 ≪美は対象に依存しない≫

ということである。このことについてはまた別の機会に取り上げる。