シリーズ西欧絵画を斬る
フランス印象派篇
山川学而
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カンディンスキーABSTRACT
20世紀美術のばらばら事件
1 発端 click here
2 カンディンスキーとミュンター click here
3 形の認知 click here
4 モザイクとステンドグラス click here
5 固定観念の破壊 click here
6 表現主義とカンディンスキー click here
7 むすび click here
しがみつくあの根っこはなんでしょう?
この石まじりのごみ屑から
どんな枝が出てくるか?
人の子よ、あなたにはこたえられない。
なぜなら、あなたにはただ、ばらばらの
壊れたイメージの山があるだけだから。
(T・S・エリオット『荒地』から)
形と色は融合することはない。
同時性があるだけだ。 (ブラック)
1 発端 topへ
アブストラクト絵画のなかには、いろいろの図形の切れ端や、壊れ物の部品や屑のジャンクなどが、おもちゃ箱のようにいっぱいつまったものがある。現実にあるものをばらばらに解体し、原型をとどめないまでにばらして、何を描いたか分からないものばかりである。
そういうアブストラクトの元祖の一人、カンディンスキーは、どのようにしてあのような境地を開いていったか。その過程は非常に興味深いものがある。それを考えてみたいのだが、その前にカンディンスキーにヒントを与えたという、つぎの二つの経験を念頭においておくと、いろいろのことが理解しやすくなると思う。
(一)一八九五年カンディンスキーがモスクワでモネの『積み藁」を見たときのことを彼は感動をこめて書いている。
彼は最初それがなにを描いたものか分からなかったが、興味を引かれたという。それが積み藁だということはあとで分かったという。そのことから彼は、なにが描かれているか分からなくても、絵は感動を与えるということを知ったという。
何を描いているか分からなくても、感動を与えるというのがミソなのである。その作品はモネの積み藁の連作の一つで、画面上には描かれた物は積み藁しかない。ただ画面のなか程で水平に仕切られ、地面と空を示すように、すこしだけ違う色で塗り分けられている。積み藁自体もシルエットだけが印象派的な色彩分割で描かれているだけである。モネはその同じ構図で、一日のうちの異なる時間によって違う色合いを描き分けようとして、同じ場所で、時間を変えて、何枚もの絵を描いたのである。
その一つを見たときの感動をカンディンスキーはつぎのように書いている。
「絵画は信じがたい力強さと輝きを帯びていた‥‥対象(描かれる物体)は、絵画になくてはならない要素としての面目を失った」(『印象派全史』p.252)
(二)つぎに、彼自身が言っていることだが、彼はあるとき自分のアトリエに入って行って、そこに今まで見たこともない絵を発見して驚いたという。それはなにを描いたか分からなかったが、すばらしい輝きを持っていたという。だが、よく見ると、それは自分が前に描いた絵を逆さに見ていたにすぎなかったというのである。そこでも彼は、絵画の美にとって、描く対象が何であるかは本質的なことではないことを知ったというのである。
2 カンディンスキーとミュンター topへ
一九九六年東京のセゾン美術館でひらかれた「カンディンスキーとミュンター展」は、アブストラクト絵画が生まれる過程を系統的に見せる点で非常に興味のある企画だった。また、彼の弟子でもあり愛人でもあったミュンターが、カンディンスキーと影響しあいながら一つのジャンルを開いていった過程も見て取れた。
カンディンスキーは第1次世界大戦直前まで、十数年間ミュンヘンに滞在していた。戦争がはじまったとき、ロシア人であったカンディンスキーはスイスに逃れたが、ドイツ人であったミュンターは留まった。そのときミュンターのもとに残された彼の作品を、彼女はナチスの迫害の時代にも隠し通し、のちにミュンヘン市に寄贈したのである。それを年代順に並べて展示したのがその展覧会である。
初期の作品ではまだかなり具象的なものが多く、しだいに抽象的な作品が多くなり、この期の最後のころにはほぼアブストラクトと言えるものに到達し、「なにが描いてあるか分からない」ものが多くなっているが、その間にいろいろの手法を試みた跡が見られる。それは彼がいろいろと迷い、試行を繰り返していたことを示している。
ある時は、「ステンドグラス様式」とよんでもいいような作風になっている。黒く塗りつぶした地の上に、人物や樹木などの形の色面を少しずつ隙間をあけておいていき、隙間がステンドグラスのつなぎ目の黒線のようになっている。色面には濃淡や陰影をつけず一種の「べた塗り」のような塗り方をしている。また、いくつかの作品では、色面部分をさらに小さい部分に分割し、円形や楕円形の斑点を並べていくという手法で人物や建物などの形を作っていて、後期印象派の影響があったことを想像させる。
それに対してミュンターはつねに輪郭線をはっきりと出し、その中に色を──これもあまり濃淡や陰影をつけずに──塗っている。全体が単純な線と色面によって構成されている。線のやわらかさ、色のおだやかさなどのために、ステンドグラスの硬い印象はないが、技法的には「ステンドクラス様式」と呼んでもおかしくない。(カンディンスキーも版画ではミュンターに似た輪郭線を使っているが、これは日本の木版画に似ている。)
この期の終わりごろ(第1次大戦前)になると、カンディンスキーの作品では、物体の形がだんだん崩れ、なにか分からない物体の断片のようなものがおもちゃ箱のように、あるいは廃品回収所のジャンクのように、画面いっぱいに詰め込まれたものも出てくる。
物体の輪郭と面が、本来あるべき物そのものから離れて浮遊し、輪郭は輪郭で、色面は色面で、それぞれ切れ端のようになって積み重なっている。これは二十世紀のはじめに起こった美術界の「ばらばら事件」と呼んでもいいようなことである。
その「ばらばら」の意味を理解するには、また次のことを頭に入れておくといいと思うので、あえて議論を中断して寄り道することにする。
3 形の認知 topへ
テーブルにばらばらに散らばったマッチ棒はただのマッチ棒でしかないが、そのうちの四本を互いに直角になるように両端をくっつけると、正方形という図形が現れる。またもとのようにばらばらにしてしまうと、正方形はたちまち消え、そこにはただのマッチ棒だけが残る。もう一度きちんと並べなおすと、すぐまた正方形になる。
われわれの頭のなかには、既成概念として、正方形やは四角というものができている。幾何学で学んだか、単に小学校の算数の時間に習ったかは別として、だれでも、それらしい形を見れば「これは四角だ」「これは正方形だ」というふうに自動的に判断する。ということは、あらかじめそういう概念を頭の中に持っていて、目の前の図形がそれと一致するかしないかを判断しているということである。それは「認知」とか「認識」などという行為である。
そして、その認知行動は意識的というより無意識的に、半ば自動的に「あ、これは正方形だ」というふうに浮かんでくる。われわれの頭脳はそのように訓練されている。だから、図形を見たとき、その概念を思い浮かべるのは瞬時である。またマッチ棒が崩れたとき、頭の中の概念もいっしょに消えるが、それも自動的で長い時間を要しない。人間の認知能力とはそのようなものである。
正方形のマッチ棒の端を少しずつ離してみると、正方形の形はしだいに崩れ、頭の中の概念と現実にある形との違いが意識される。頭の中の概念はつねに一つだが、目に見える正方形はくずれかかった図形になる。そこで頭の中の正しい図形と崩れかかった図形とのずれが、意識の中に不安定な状態を生じることになる。人間の認知能力は、その図形を正方形として認知しようとする衝動と、否定しようとする衝動との間で揺れ動くことになる。「これは正方形だ」という考えが浮かびかけて、「いや、違うかな?」「正方形似てはいるが‥‥」というような、疑念やあいまいな判断が浮かんでは消えるから、意識の中に不安定な状態が生じ、ゆれを生じ、同時に意識が「目を覚ます」。
端がしっかりとついていないマッチ棒は、言わば「出来かけ」の四角である。または見ようによっては「こわれかかった」四角とも見える。この「出来かけの」または「こわれかかった」図形には、きちんと出来上がった図形にない何かがある。それは、図形を作ろうとしている手を感じさせる。あるいは、場合によって、壊そうとしている手を感じさせることもある。
さらに、そういう操作を何回も繰り返したあとでは、ばらばらにおいたマッチ棒も、そういう操作をする前とは違って見えるようになるはずである。ばらばらのマッチがただの棒でなく、何となく、何かになりそうな感じを持って見えるようになるはずである。
われわれの生活のなかに溢れているさまざまの木片や板切れや紙や鉄片、さらには壊れた家電製品の部品や残骸などを見ても、すべて何かのようであったり、何かになりそうであったり、何かの崩れかかりであったりする。あまりにも多くの物に囲まれている現代の人間にとって、どのような断片も無意味には見えない。だから、アブストラクトの絵画に一見無意味な線や面や形が並んでいても、われわれの目に全く無意味には見えないはずである。しいて言えば、意味のできかけや、壊れかけを見るはずである。
現代絵画の秘密を解くカギの一つがここにある。写真のように忠実に再現された「自然」はそういう効果を生じないが、描く対象を自然な状態を歪めることによって、出来かけ、ないし崩れかけの状態に描くことで、見る人の心に動揺を与え、その結果精神を覚醒させる効果がある。あえて言うならば、そこにすべての芸術の根本にある窮極の原理ともいうべきものの一つがが隠されている。
ビザンチンのモザイク壁画では、人体の形が長方形のタイルに分割され、無数の切れ目が入ることによって、出来かけ効果のようなものがあるし、ステンドグラスではガラスのつなぎ目の太い線による分割が効果を出している。このことはあとでもう一度取り上げることにする。ピカソのキュービズムでは、顔の各部が分割され、自然とまったく異なる形に再構成されている。印象派は画面を色彩分割した斑点で埋めた。その他多くの現代絵画のほとんどが、右の原理で少なくとも一つの側面は説明できる。
4 モザイクとステンドグラス topへ
ビザンチンが生んだモザイク壁画では、色のちがうタイルを隙間をあけてはりつけることによって、キリストや天使の像を壁に描いている。連続した線と面で描けば、人間の姿をより忠実に再現することができるが、分断されたタイルを使うことで、写真的な再現とは異なる効果をあげている。それはマッチ棒の正方形の場合と同様「出来かけ」「崩れかけ」効果と同じものである。
それを写真的リアリズムの排除と呼ぶこともできる。一般に不完全な、または未完成なものはつねにそのような効果を見る人に与える。それを見る人の心は、完成されたイメージと未完成な形との間にゆれ動き、「ゆれ」の効果が芸術に生命を与える。またそれが芸術家の「描く手」や描くという行為を意識させる。
ステンドグラスはガラス片とその間をつなぐ金属の線とで模様や絵を描く。太い分割線によって、描かれた像の連続を断ち切っている。太い線は物の輪郭を示すことより、対象を分割することに意味があることは、これ以上説明する必要はないだろう。
絵画では輪郭を太くはっきりかいたものがそれにあたる。たとえば東洋美術に多くあるように、毛筆で輪郭を描き、その中を彩色した絵にはそういう効果がある。マチスが晩年に試みた切り絵では、人体の形自体かなり変形しているだけでなく、手足や顔などを切り離し、すき間をあけて張りつけたものがある。
ステンドグラスも、モザイクとおなじくキリスト教建築の副産物であり、とくにモザイク画は東ローマ帝国の、ビザンチン美術の成果であるが、そういう中世芸術が、本質の深い部分で現代美術に通じるものを持っている。イギリスの詩人のイエツがビザンチンに強い関心をよせた理由もそこにある。極論するなら、現代絵画の本質は、ビザンチンの工芸品のなかにすべてはっきりと現れている、とイエツは感じていたのである。
5 固定観念の破壊 topへ
以上のことを敷衍すると、一般に概念を正確に表現したものに対して、出来かけのような「未完成」なもの、あるいは崩れかけのような「不完全」なものには、つねに見る人の心の中のどこかを動かし、ゆれを生じる性質がある。
われわれが持っている物の概念は、色や形や匂い、硬さ、滑らかさなどの質感というような、いろいろな要素の集まりである。たとえば、りんごは赤い色や感触や匂いや「食物」といったようなさまざまな性質の複合体である。もしそのうちの一部だけを持っていて、ほかの性質を欠いたものを人為的に作りだせば、それもまた不完全概念であり、「未完」の概念と見ることができる。
たとえば白黒の写真のりんごは、形だけがあって、その他の要素──りんごがりんごであるために必要ないくつかの要素を欠いている。また、ペンやエッチングなどで描いた着色しない絵や、あるいは単色の絵も同様、現実にあるものから、色の要素を分離して、形の要素だけを取り出したものである。その意味でどちらも対象分割の一種ということができる。
また、落語に出てくる「のっぺらぼう」というのは、人間の姿をしていながら、顔だけがない。祭りの仮面は逆に、人間の顔だけがあって体がない。そういう未完成概念というようなものが、見る人の心をゆさぶるのである。
現実にはひとまとまりになって存在するいくつかの要素のうち、一つだけを分離して取り出したものはすべて分割効果を持つ。そして現実に存在するものの概念はかならずいろいろの要素の複合体だから、その要素の一部だけを切り離したものにはつねに分割効果が生じる。
分割は多くの場合破壊と同義語でもある。二十世紀の前半は危機の時代と呼ばれたが、それはまた戦争による破壊の時代であった。破壊された社会では、安定した秩序ある社会では見えないものが見えてくる。一般に物事は破壊されたとき、ふだん見えないものが見えてくる。だから、二十世紀の前半が戦争の時代であったことと、現代芸術がピカソのいうような一種の破壊の芸術であることと通じるものがあるのである。
デュフィ (Raoul dufy, 1878─1953) という画家は、人物や物体を描くとき、その色がその物の輪郭からはみだしていることがしばしばある。たとえば人間の形に色をぬったあと、その上にすこしずらして輪郭の線をかくのである。森や山を描くときは、まず一面に緑色を塗っておき、そのうえに木の幹や枝や、山の稜線などを線でかくのだが、その輪郭線の位置と色をぬったところがずれている。
現実の世界では、物体の形と色がずれるということはない。両者は一体で、色のない物体もないし、(光は別として)物体がなくて色だけあるということもない。木の色は木の輪郭の中に納まっていなければおかしい。木の色と形がずれているということは、現実にはありえない。
だが、われわれの頭の中では、色と形はべつべつの要素として、違う引出しに入っている。たとえば、白黒のりんごの写真を見ても、あるいは友だちの顔写真を見ても、われわれはすぐに「これはりんご」「これはだれそれ」と判断する。ということは、色がなくても、それがりんごや友だちの顔だということを認知できるということである。人間の頭は、色と形を別々に記憶していて、必要に応じて重ね合わせ、物のイメージを作るのである。それらの要素を自然にある物にできるだけ忠実に画面に再現しようとするのが素朴な写実画である。それに対して、自然を破壊して、あえて自然と異なる状態に描くのが現代絵画である。
冒頭に引用したブラックの言葉のように、現実には色と形が一体化しているが、われわれの頭の中の概念は、分割されて存在していて、それを合成すると、自然に近いものができる。色と形とは、マッチ棒の一本一本が正方形を構成する要素であるように、頭のなかで分解可能な二つの要素である。現実の世界では一体化しているが、頭のなかでは分解できる。ブラックはそれを言いたかったのである。
リンゴの輪郭と赤い色を別々のところに描くと、それはばらばらのマッチ棒が正方形でないように、リンゴの絵の一部分がばらばらでおかれた状態である。それらがいっしょになってはじめて、われわれが持つ「りんご」という概念が完結する。したがって、その未完結な絵から受ける印象には、マッチ棒をすこし引き離した正方形のそれと共通するものがあるのである。そして、それは「描く」という行為と、線や色の動きの感覚を意識させる効果である。
現代のほとんどすべての絵画は、なんらかの意味で、こういう概念の未完成、未完結、「出来かけ」、「崩れかけ」といった状態を表現していると言っても過言ではないだろう。そしてそれを最初に大胆に実行したのが印象派だったのである。
だが、印象派の段階ではまだ描く対象がある程度はっきりしているから、アブストラクトとはかなりの距離がある。このような段階からアブストラクトへと、カンディンスキーはどのようにして進んだのだろうか。
6 表現主義とカンディンスキー topへ
カンディンスキーがアブストラクトに到達するには、彼がミュンヘンの表現主義グループに関与していたという事実が大きな影響を持ったと私は思う。
表現主義とは、簡単に言ってしまえば、人間の内面を画面に表現しようとする立場である。一概に内面的なものと言っても、そのなかには感情的なものもあれば思想的ものもあれば、考えるという行為そのものもある。宗教的なニュアンスをもった霊的なものもある。そのうち表現主義絵画は主に感情表現を目指したように見える。
ただし、感情を表現した絵は、古くからいろいろあって、そのこと自体は決して珍しいことではない。たとえば、バラの花やハートの絵によって愛を表現したり、骸骨で恐怖を表すなど、広い意味でシンボリズムと呼ばれる手法はみなそうである。宗教では、十字架によってキリストへの信仰心を表したりなど、例をあげれば限りなくある。それらは多くの場合、物体をリアルに描くことによって、それを自分の考えを人に伝える記号のように使っている。
またミケランジェロが苦悩の表情を浮かべたダヴィデ像を作ったように、あるいはゴヤが、圧政のもとで殺された民衆の恐怖の表情を描いて見せたように、感情がおもてに現れた表情を描いたものもたくさんある。
だが、表現主義者が追求したのは、そのような記号ないし符牒のようなものでもなく、表情に現れた感情でもない。
たとえば、カンディンスキーの作品の中に、何が描かれているかよく分からない絵で、よくよく見るとピアノのコンサートの会場であることが分かるのがある。全体がたくさんの色と流れるような線で埋まっている。その明るい色彩と流動的な線によって彼が表現したかったものは、音楽の感動だった。
彼は感情を表現するのに、シンボルや顔の表情によって暗示するのではなく、色彩や流動的な、一見意味のない形や線による「効果」を用いようとしたのである。シンボルや表情は、見る人に「これは悲しみを表現している」「これは愛を…」「これは神への祈りを‥‥」などと想像によって理解させるが、カンディンスキーが追求した手法はそうではなく、画面の持つ効果によって、相手の心を直接動かし、ある種の感情を呼び起こそうとするものである。つまり、画面のもつ「効果」を追求したのである。
そういう感情はきちんとした形や輪郭、四角四面の家具や柱などとなじまない。人間の感情は直線的ではないし、幾何図形のように輪郭がはっきりしていないからである。感情はつねに曲がりやリズムがあり、周辺に曖昧もことしたところがあるものである。感情が高ぶれば高ぶるほど、幾何学的、あるいは建築的な、整然とした形によっては表せないものになる。
人間は感情的になると盲目になるということはしばしば経験する。悲しみにうちひしがれれば、あたりは真っ暗になり、何も見えなくなるし、あまりにうれしいことがあれば、有頂天になって足元も見えなくなる。怒りに狂った人には周囲の人の存在が見えず、ただ破壊的な衝動に支配される。という具合に、感情と客観的な形とは容易に両立しないから、感情を表すにはきれいな、ちきんとした絵は適さない。きちんとした線や図形は理性的な思考には適するが、感情表現にはむしろ崩れた形のほうが適している。
たとえばムンクの絵には、冬の間ほとんど日の目をみない北欧の人々の、暗い思い、魂の底から絞り出すような叫びを感じさせるようなものだが、画面全体に流水の渦や波紋や、縞状模様などが走り回っている。その中に人間のゆがんだ顔や姿があるが、何一つ明確な輪郭を持つものは描かれていない。
もっと一般的に敷衍すれば、感情だけでなく、思想的なものや霊的なものなど、精神の内面にあるものはすべて、つねにどこか曖昧もことしたものを引きずっており、何一つ直線的、幾何学的なものはない。内面的なものにはつねに、曲がった線、歪み、曖昧な輪郭など、書や水墨画のぼかし、かすれ、濃淡のようなものをどこかに持っている。そういう表現には幾何学的な再現はなじまない。
カンディンスキーが直面した問題もそういうことだった。彼は明確な形の再現によって表現できないものがあることを印象派から学び、みずからその方法を押し進めたのである。前に引用したように、モネの『積み藁』と出会ったとき、はじめは何を描いたものか分からなかった、というより、何かを描いたものだということを考えるより前に、感動があったのである。そのことによって、感動はかならずしも描かれる対象の物理的外見から来るものではないことを知ったのである。
7 むすび topへ
はっきりとした物の形や色の再現、すなわち、いわゆる写実は内面の思想や感情を表現するには適さない。特に幾何図形的な形は感情表現に馴染まない。つねにあいまいなところがあり、ゆれうごくところがあり、はっきりした境界や輪郭もないのが感情である。
絵を描く人は、最初はかならず具象的な物を写すことからはじめるが、内面的なものを表現したいと思うようになるにしたがって、具象に満足できなくなるのは自然の流れである。
それゆえ表現主義から発展してアブストラクトに達するのは必然的だったのである。表現主義といい、アブストラクトと言っても、彼らの作品がどの程度すばらしいものかを評価するのは容易ではないが、ただ一つはっきり言えることは、カンディンスキーが、対象破壊の意味を現代絵画に導入した主要な芸術家の一人として、現代絵画の発展に貢献した功績は非常に大きかったということである。
絵は形のある物を描くものだというのが長い間固定観念があったから、具象性を否定した絵画としての存在を認められるのは容易ではなかった。それをあえてやるのは勇気のいることだった。
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