
”桃太郎”からちょいと一言
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-Prologue-
mein Leica のページではお父さんの趣味の一つであるカメラ、その中でも愛してやまないドイツの名機
Leica の事を色々書いて見たいと思います。先刻ご承知の通り、
Leica と言うカメラは35mm小型カメラの元祖と思われている節がありますが、実は始祖と言う訳ではないそうです。1889年に米国で35mmフィルムが開発された事を契機に、これを使った小型カメラの開発が活発に行われる様になりました。しかし、画期的なコンセプトによるカメラの設計は、Ernst
Leitzの技術者Oscar Barnack(1879〜1936。Leitz社のコンペティターである光学機器メーカーのCarl
Zeiss社から、1911年にLeitz社へトラバーユ)の手に掛かるまで、顕著な実績は見られませんでした。Barnackは生来病弱で、好きな山歩きに持って行くには、当時のカメラは余りにも大きく、重すぎた事に日頃から不満を持っていました。この背景が彼をして後世の小型カメラのベースになるバルナック型Leicaを開発せしめる原動力になったのだそうです。彼は「より小さいカメラ」で「より大きく引伸ばしが出来る」事をコンセプトに開発を進め、世に名機Leicaを送り出す事に成功したのです。従いLeicaは35mmカメラの元祖ではありませんが、現在カメラの主流になっている35mm機の原型とも言える世界の名機で、1号機が開発されてから80年以上経つ現在でも人々に愛され、驚く事に全く古さを感じさせないばかりでなく現役で活躍しているのです。
ライカとのかかわり。
お父さんに家族とライカのかかわりを聞いた事がありますので紹介しておきます。
おじいちゃんのLeica
お父さんの「ライカ病」は、実はおじいちゃんからの遺伝なのだそうです。優性か劣性か良く判りませんが、DNAが支配している事らしくて、世に言う”難病”に指定されてもいい位で、予防方法の無い恐い病気だと聞いています。世の中には「ライカ病」の患者さんは随分沢山いるそうですが、この辺りの事は後で述べます。
所でおじいちゃんは戦前ライカを持っていました。型式は多分DIIかIIIBだったらしいと聞いているだけで、お父さんも見た事が無いそうです。と言うのも、終戦後の1940年代の後半は、日本中焼け野原で食べる物もなく、お金を持っていても、インフレでどんどん価値が下がって行く時代だったそうです。町に住んでいる人達は、満足に食べる物もなく、お金を持って農家へ食べ物を買いに行っても売ってもらえず、着物などと物々交換でしか食べ物を手に入れる事が出来なかったんだそうです。そこで、おじいちゃんは愛用の「ライカ」を持って行って、食べ物を手に入れたんだそうです。戦前には1台でちょっとした家が一軒買えるほど値打ちのあった「ライカ」も、戦後の混乱期にはその価値を充分認められる事も無く、僅かな食べ物に変わってしまった・・とおじいちゃんは嘆いていたとお父さんに聞きました。お父さんの目には入らなかった「ライカ」ですが、お蔭で飢死にせずに済んだ訳ですから「ライカさん有難う・・!」です。
お父さんと
Leica
おじいちゃんの「ライカ」は食べ物に化けて、家族の胃袋におさまってしまいましたが、お父さんはおじいちゃんが「ライカ」で写した写真(勿論モノクロですが)の「何とも品の有る味わい」や戦前の写真雑誌(アサヒグラフ?)それにドイツ語で書かれた「Mein
LEICA」を見ていたので、知らず知らずの内に「ライカ・ウィルス」に感染していて、暫くしてから発病してしまい、完全な治療法が無いまま、現在も病気と仲良く暮らしています。
感染したウィルスは「バルナック・タイプ
IIIF」型とか言う1954年頃に発見された新株で、診察の結果判明した感染経路は「経眼感染」「経耳感染」でライカ・ウィルスのごく一般的な感染経路との事でした。しかし、20歳前後の若者が感染する事は珍しく、通常は社会的地位の高い年配者が多いのになあ・・と言われたそうです。蛇足ですが、お父さんはドイツ語で書かれた「Mein
Leica」が読めるようになる事だけが目的で、大学で第二外国語に「ドイツ語」を選択したそうです。それでもそんなに易々とは読めなかったそうです。お父さんが大学生になった頃、感染して潜伏中だった「ライカ病」が発病して、状態が段々ひどくなりはじめ、時々発作(?)を起こすようになって来たので、心配したおじいちゃんが1958年頃に、日本製のワクチン「NICCA
IIIF」を投与したところ、発作も起こらなくなり暫く小康状態が続きます。しかし、このワクチンは健康保険が適用されず、高価で当時の大学卒初任給5ヶ月分位だったそうです。現在では最新のM6型のライカでさえ、初任給2〜3ヶ月分で買える事を考えると、隔世の感があります。
余談・横道ばかりですが、暫く小康状態が続いた後、1975頃になって再発の兆しが現れたのです。この頃お父さんは出張でヨーロッパやアメリカに頻繁に行っていた事もあり、カメラのアンティーク・ショップを訪れている内に、新たな「ライカ・ウィルス」を抗原として取り込んでしまい、軽い発作が続く様になりました。精密検査の結果は不思議な事に、今回も以前感染した「バルナック・タイプ
IIIF」が検出されました。前回の発作を抑えたのは、日本製の「NICCA
IIIF」と言うワクチンでしたが、純正のワクチンとはDNA的に微妙な点で異なっており、結論として純正のワクチンを投与せねば手が無いと言う診断を受け、今度はお母さんと相談の結果「ライカ
IIIF」を今回も無保険で投与する事になったそうです。お母さんは「清水の舞台から飛び降りる」つもりでワクチンを買ったのだそうです。
その後、各種8mmムービー・ウィルス、8mmビデオ・ウィルスにも軽い感染をしましたが、1980年台に入って3回目の「ライカ・ウィルス」の洗礼を受ける事になります。この事は「ライカ・ウィルス」の所で述べてくれるそうです。
お母さんと LEICA のかかわり
お母さんは先天的な免疫が有りますので、お父さんの様にやわでは有りません。感染の心配も皆無です。ただお父さんがあんな状態ですし、高価なワクチンも健康保険が適用されないまま支払わねばならないなどの事情も有って、新しい便利なカメラが買えなかったので、仕方なくお父さんのライカをぶら下げて、お兄ちゃんやお姉ちゃんの運動会などに出かけました。
何分家に有るカメラは「ライカ」と「ニッカ」だけで、どちらも「完全手動式」のため、家を出る時にその日の天気に合せて露光条件(シャッター速度・絞り値)をお父さんに決めてもらい、曇ってきたら・・絞りは・・・とインプットされるのでした。当時はバカチョン(失言)カメラが出始めた頃でしたので、お母さんも欲しかったようですが、ライカを持っていると周りの人から「めずらしいカメラですね。最新型ですか?」と聞かれた事も有ったと言ってました。お父さんはその事を聞いて「それほどに古さを感じさせないのがライカやなあ!」とほくそえんだものです。お母さんも重くて厭だ・・位が不満で、結構「ライカ」のバランスやシャッター音、手動の煩わしさ・・などを楽しんでいたようです。
最近はNIKONのズーム付ワンタッチ・カメラを楽しんでいます。この方が手軽に写せるし、きれいに(?)写るし、軽いし、もし故障しても死ぬ様な思いをしなくてもいいし、など勝手な事を言ってます。僕にはどちらの考え方が正しいのかよく判りません。人間って面倒な生き物やなあ!と思います。
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(参考文献) 毎日ムック ’95/’97〜’98 カメラ こだわり 読本 |
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