タイル(オレンジ)

日常的読書 た行




バトル・ロワイヤル(高見広春・太田出版)

東洋の全体主義国家、大東亜共和国。
この国では毎年、全国の中学3年生から任意の50クラスを選び、戦闘シュミレーションと称する殺人ゲーム”プログラム”を行っていた。
ゲームはクラスごとに、ある閉じられた空間(例えば島)で行われ、生徒たちは与えられた武器でお互いに殺し合い、最後まで残った一人だけが家に帰ることができる。
クラス全員で結託して、”このゲームには乗らない”とした場合は、全員が殺されることになってしまう。
24時間以上誰も死ななかった場合、自動的に全員が殺される、という”ルール”なのだ。
1999年の今年の1冊、といった企画にこの本を挙げているのを、あまりにも複数見たので、読んでみた。
とにかく、殺し合ってしまうし、かなりスプラッタなので、そういうのが苦手な人にはちょっとおすすめできない。
でも!絶望的な状況の中、”人間捨てたもんじゃないよ、やっぱり”と感じる。作者は人間を信じている人なんじゃないかな、と思える。
裏表紙のあらすじの最後は、「凶悪無比のデッド&ポップなデス・ゲーム小説!」と締めくくられているけど、私は、絶望的な状況で逆に”思春期のみずみずしさ”が際立った、青春小説だと思う。
これもまた詳しく言っちゃうとまずいので止めとくけど、”続きが読みたい”と思う小説だ。

余談だけど、”プログラム”を指揮する教師(?)の名前が「坂持金発」、その部下が「田原」「近藤」「野村」。
坂持は時折、”昔、加藤という生徒に苦労させられた”と愚痴る。
主人公の名前は、「七原秋也」。これって中原中也?
もしかして、生徒の名前(男子21人・女子21人)全部、元ネタ(?)があるのかなあ、と思ったが、あとは「南佳織」(南沙織)くらいしか、思いあたらない。なんか、ありそうな気がするんだけど。
「バトル・ロワイヤル」に詳しい人いたら、教えて下さい(笑)
(00.3.3)



前世の記憶(高橋克彦・文藝春秋)
忘れていた記憶があるきっかけで蘇る、というテーマの短編集。
催眠療法・音楽・匂い。ふとしたきっかけで思い出される記憶。
そして、それは決して良い思い出ではない。

人は、すごく辛かった記憶は忘れるか、改竄してしまうというけど、ほんとのところ、どうなんだろう。私にも、そんな記憶があるんだろうか。
もし、あるとしたら、気が付かない方が幸せだろうなあ。
何だかんだ言っても、まあ良い調子でここまで来た、と思ってるから。

淡々と綴られた文章で衝撃の結末、という作品もあって楽しめた。
オチが読めてしまうものもあったけど、概ね○。
(00.4.21)



ぐるぐる日記(田口ランディ・筑摩書房)
<両極にあるようなことが平気で並行する日常のおもしろさ>

鬼怒川の奥、川治温泉という鄙びた温泉の宿でこの本を読んだ。
自分は非日常の静かな場所にいて、他人の怒涛の1年を読む。なんて面白いんだろう。
「日記」を読むのは好きだ。
人は本当にいろんなことを考えている。洗濯ものを干しながら、ごはんを作りながら、生協の注文シートに書き込みながら。
ばかばかしく現実的なことをしながら、心(頭?)のなかではものすごく様々なことを考えている。ちょっと高尚なことから、めちゃくちゃくだらないことまで。
日常の細かな用事、カッとなって吐いた言葉、真剣に真面目に考えた事柄、全部が入り混じって混沌としている「日記」を読むと、なんだか「うーん、みんな生きてるんだなあ」って嬉しくなる。

「人生はミックスサンドのようなもの」というのには、まさに!と思う。
おいしくタマゴサンドを食べていたり、ほんとはあまり食べたくないんだけどってレタスサンドを食べていたりする。
他人をうらやましがる人は、きっと他人がタマゴサンドを食べているところばっかり見ているんだろうなあ。
そいで「私も食べたい。でも作れない。誰か作ってくれないかな。」とばかり思っているんだろう。

あと、同じメールマガジンの発行者として(もちろんレベルも立場も違うけれど)、そうそう!と思うことが沢山あった。
以前「読んでて嫌な気持ちになった」というメールをもらって、すごーく嫌な気持ちになった。
でも、バックナンバーも公開しているんだし、自分が好きそうかどうかはわかるだろう。自分で選択して、しかもタダで読んでいるくせに、自分の判断ミスを私のせいにしないでよ!
と、ムカムカしてたまらなかった。
自分の嫌な気持ちを誰かに回さないと気が済まない人って、けっこう沢山いるんだな。
そこで何度かメールのやり取りをして意見交換ができる人もいるけど、大体の場合、こっちからのメールに返信はない。
自分の気持ちだけぶつけといてどういうつもりだろう?と思うけど、そういう人に何を言っても仕方がない。
読者からのメールは、いつも開けるときにドキドキする。どういう距離感で付き合えばいいのか、今だによくわからない。
ランディさんが出した「意見があるのだったら、あなたも発信者になって下さい。」というメールに返事はきたのだろうか。
きてないんだろうなあ。それに返事を出す人だったら、すぐに発信者になるだろう。
発信者になることなんて、自分が出したような嫌なメールを受け取ることだけ覚悟すれば、簡単なことだもの。

最後に「この日記は99%真実です。」とある。
でも「ランディの生活の99%」ではないんだよなあ。こんな凄い量の日記でも、ランディさんのある一面、でしかないような気がする。
たった人ひとりのことですら書ききれるもんじゃないんだろうなあ、人間って一体どれ程の容量があるんだろう。
書ききれやしないから、私もこうして日々せっせとものを書いているんだろうなあ。
数年経って、書いたものを積み重ねたときに、きっとそこにはすべてを貫く1本の棒があって、その棒の部分を伝えようとして書き続けていくんだと思う。
(2001・3・4)



「社会調査」のウソ(谷岡一郎・文春新書)
新聞・雑誌・テレビで、私たちは毎日のように様々な調査結果を目にする。
「原発反対○%」とか「働く女性の6割がセクハラを経験」とか。
つい”ほうそうなのか”と納得してしまうけど、実はこれらのいわゆる「社会調査」の過半数は役に立たないゴミなのだ、というのが本書の主旨である。
見出しの数字だけ見て、うんって納得しないように、という話。

沢山の実例を挙げて、ここがおかしいというのを説明してくれるので分かりやすい。
例えば「原発反対9割」という調査結果があったとする。
しかし、よくよく読んでみると調査対象が反対集会に集まった人だった、なんてことがあるわけ。「働く女性の6割がセクハラを経験」というのも、「いやらしい目で見られた」というのも”セクハラ”に入っているのだから、この結果もさもありなん、である。

ところで、自衛隊「必要」84%、という数字をどう思いますか?
えっ?そんなに賛成が多いのか、って気がしませんか。
これは調査票を”工夫”して、ひねり出された結果なのらしい。
「自衛隊は必要か否か」という質問にたどりつくまでに、自然と自衛隊の活動(良い面。安全確保とか災害救助とか。)を理解できるような質問が並んでいたそうだ。

あと、びっくりしたのが調査対象者のウソ。
大阪でノック知事が始めて就任してから1年後に行われた調査で。
「昨年4月の知事選挙では誰に投票しましたか。」
 ・横山ノック 43.1%
 ・平野拓也  9.5%
 (以下略)
が、実際の得票数は、
 ・横山ノック 162万5256
 ・平野拓也  114万7416
 (以下略)
である。
実際は平野氏に投票した人も、勝ったほうに入れたと思いたいのか思い込んでいるのか、横山氏に投票した、と言う。
こうなっちゃうと、調査なんて全部胡散臭いやんけ!と思ってしまう。
著者のことも、あなただってどうだか…、と思っちゃったりして(笑)
うん、でも面白かった。時間があったらぜひ、という程度におすすめします。

関係ないけど、選挙で勝ちそうな方に入れるという人、いるんですよね。
都知事選挙の時「自分の1票が無駄にならないように、石原さんに入れました」と言ってる人をテレビで見た。
負けたほうに入れた票は無駄なのらしい。変な人。
”無駄”っていう意味が違うだろ!



春琴抄・盲目物語(谷崎潤一郎・岩波文庫)
幼い頃に失明した薬種商の娘・琴。
その薬種商に奉公にきた佐助は、仕事の傍ら琴の面倒をみることもあった。
琴は佐助を気に入り、身の回りのことすべて佐助でないと嫌だ、と言い出す。
佐助は、琴の面倒を見ることのみが仕事となる。
また琴は琴の名手で、そのことから佐助も弦楽に興味を持ち、琴を師匠と打ち込みはじめる。
2人の奇妙な関係が始まる。

傲慢な琴。へえすんまへん、がするっと口から出てくる佐助。
以前何かで、SMのことを書いた記事を読んだとき、
実は主導権はMの方にある、とあって”へえ?”と思ったのだけど、琴と佐助の物語を読んで、なるほどねえ、と納得した。
結局佐助の思うまま、なんだもの。
(「女王様」「おだまり!」ピシッ!って世界ではありません。念のため)

主人と奉公人、師匠と弟子。
その関係を壊すことなく、しかし明らかに恋愛関係、という不思議な2人。
というか、その枷があってこそ成り立っている恋愛。
人の想いの様々さに、くらくらする。

句読点がほとんどない文章で、最初読みづらいと思うかもしれないけど、美しく流れる文章にひっぱられる。
何故か、全集などのでっかい本じゃなくて、文庫本で気持ちのいい場所で
(人によってそれは公園だったり、喫茶店だったり、自分ちのソファだったりするのだろうけど)、読みたい、という気がする。

盲目物語はまだ読んでません。ごめんなさい。
(00.6.2)



牡丹(団鬼六・幻冬舎アウトロー文庫)
ポルノ小説家・団鬼六の随筆集。
だけど”ポルノ小説家”という部分を意識しないで、ぜひ読んで欲しい1冊。
逆に、エロ話を求めて読んでもがっかりするだろう。

人と人との関わりの”哀”の部分を、しみじみと感じる。
あとがきに、将棋関係の雑誌に掲載されたものであるが、将棋は便宜的に登場するだけで、これらの随筆は単なる鬼六流人生エッセイなのである、というようなことが書かれている。
しかし、将棋というモチーフはひとつひとつの随筆のなかで、大きなウェイトを占めていると思う。
解説で町田康が(この解説を町田康が書いているというのが、またぴったり!)、いままで将棋を指したことがない情けない、とつぶやくように、将棋を知っていればもっと人生を深く感じられそうな気がしてくるのである。

自分の店がつぶれそうな時に、滅多に吠えない犬から吠えられてしまうくらい汚い身なりのくず屋さんと将棋を指したことで金策に成功し、そればかりか生涯の友を得た「くず屋さん」。
将棋を指していたおかげで命びろいをした「頓死」。
年々自分にくる年賀状が減っていく父親が、最後まで執着したある人からの年賀状とは…「年賀状」。
近くに将棋クラブがなかったばかりに殺人事件が起こってしまったという「マグロの肉」。
足を洗いたいから買って欲しい、とやくざから頼まれ、こんなものを持っていたのではまたどうなるかわからない、ここはひとつ人助けのため、と買ってしまったことで逮捕されそうになり、俺はいいことをしたのに何故逮捕なんだ、と刑事と揉める「刀と拳銃」。

ああ、どこがどう良いのか、うまく説明できない自分がはがゆい。
陳腐な言い方だけど、とにかく良かった!読んで!



あるいは酒でいっぱいの海(筒井康隆・集英社)
筒井氏の初期のショートショート・短編集。
社会風刺・ブラックユーモア・SF。様々な物語が並ぶ。
今読むと、表現的に「え?これはまずくないの」と思うものもあるんだけど、なんだか、筒井氏が「いいこと思いついちゃった!」って書いてるような感じで楽しい。

これを初めて読んだのは、小学校高学年の時だったと思う。
お子様向けの本に飽きた私は、本屋の文庫の棚をなめるように見て、本を探すようになった。
その頃は、どんな本が出てるかなんて調べるすべを知らなかったので、田舎の小さな本屋の棚から、これ!というのを見つけるのだ。
本屋のおやじに「それはまだ早いんじゃないの」なんて嫌味を言われながら、30分でも1時間でも、棚を眺めていた。
そんな中で見つけた1冊。
これで初めて、風刺を知り、ブラックユーモアを知った。
うわあ。こんな世界があったのか、って感じだった。
今思うと、私が本に耽溺するようになったのは、この経験からかも。

おそらく単行本も文庫本も入手は困難だと思う。
(単行本の初版は1977年。なんと定価690円なり!)
「筒井康隆全集1」に、これらのショートショートが入っているようなので、そちらの方が探しやすいと思います。
(00.5.31)



瞬きもせず(紡木たく・マーガレットコミックス)
<あの時の「好き」はなんやったんやろう>

「つきあう」って、どういうことじゃろう?うちは何をしたいんじゃろう?
いつも、なんでやろう?、なんなんじゃろう?、と思いつつ、過ぎていった高校生の日々。
「かよちゃん」とおんなじように、うちも、家から電車で20分、という田舎のなかの田舎という町から高校に通いよった。
高校のある街は、その半径20km圏内じゃあ一番の街で、自分の、そして家族の田舎臭さに、嫌気がさしちちょった。
高校に入って、はじめて男の子をかっこいいと思うた。(それまでは軽蔑の対象。)
すぐに、同じクラスの男の子を好きになった。「紺野くん」みたいな髪型で、ぼそぼそ喋って、目つきがわりぃでこえぇ、と女の子から言われるような男の子やった。
目がおうただけで嬉しかった。一日、一言もしゃべれんかっただけで、この世の終わりみたいに悲しかった。
あの時の「好き」は、なんやったんやろう。
今の状態が、つきおうとるちゅうことなんかようわからんまま、「もうだめじゃ。嫌われた。別れた。」と思うたり。
その日、いっぱい話せたことが嬉しくて、帰ってから母親に「お母様あ〜」とか呼びかけてみたり。
あの、高校の校舎が、放課後の教室が、よみがえってくる。
今、冷静に考えれば、アホくせーんやけど、あの時のリアルな気持ちがここにある。
つまらんことで、嫌われちょーと思うたり、好かれちょーと思うたりする、ジェットコースターみたいな、あの気持ちの動き。

私は、あのどうしようもない気持ちを抱えた時期を、田んぼばっかりのあの景色の中で過ごせたことを幸せに思う。
夕暮れの山を見て「綺麗やなあ」と思うたり、どんよりした天気のグレーの海を見て「なんもいいことねえ。つまらん。」と思うたりしたことを、忘れない。
今、それがとても愛しい。
全編、ばり山口弁のこのマンガを読んで、里心がついてしまった。
私は大分で、微妙に違うけど、「そうっちゃ。こん気持ちは、こん言葉でしかあらわせん!」というところが多々あって(ちゅーかほとんどと言っても過言ではない)、ラスト2巻は泣きながら読んだ。
(2001・6・11)



永遠の仔(天童荒太・幻冬舎
もう、みんなちゃんと大人になってくれ、と思った。
私には虐待をしたりされたりした経験はないし、心を閉ざしてしまう程の深い痛手を負ったことはない。
でも、あえて言いたい。自分の傷を癒すのは自分しかいない。
じっとしてても「救い」なんて現れない。
救われたい、救いがどこかにあるはず、と思うなら、まず自分が動きださないとだめだ。
じっと待って自分を責めてもどうにもならない。
もし、この人に話せば気持ちが癒されるだろう、という人に出会っても、「でも、話したってどうせ分かってもらえない」と心を閉ざしたら、そこで終わりだ。
次のチャンスはいつ来るか分からない。
子供は、自分の精神状態がどうなのかなんて良く分からないし、表現も未熟だ。
大人が察して助けてくれるのを待つしかないだろう。
だけど、いい年して子供を同じ状態で待つっていうのは、もう甘えすぎだと思う。
自分が癒される場所、もの、行為、気持ちが揺れた時に支えてくれる人々、そういうものを見つけて、意識的に自分の居場所を作っていくことが、大人になるってことの一つじゃないだろうか。
そしてそれは、自分から求めて動いて探さなければ見つからない。
なんだか、ずぼらになっちゃってる気がする。
そういう努力もしないで「大人だってつらい時がある。甘えたい。癒されたい」とか言って、小さな子供に甘えてしまう大人たち。
殴る、蹴る、タバコの火を押し付ける、性的な虐待など、「ひどいことしてるよね。でも親だってつらいんだ。おまえは受け止めてくれるよね」という、もうどうしようもない甘え。
俵に足かかってても踏ん張ってくれ!
他にも方法あるでしょ。ずぼらしないでちゃんと見つけてよ。
(99.10.21)



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