タイル(オレンジ)

日常的読書 さ行



まぐろ土佐船(斎藤健次・小学館)
<単に体力だけで出来る仕事ではないことをヒシヒシと感じる>

マグロ漁船へ乗り込み、3度の航海を経験した著者によるノン・フィクション。
まぐろ土佐船。どういうイメージがわく?
私は、ド演歌の世界を想像した。
「気が荒く粗雑で下品だけど、心は純粋な男の中の男。波を割って走る、命がけの男たち。」
ところがどっこい、この本の内容は、そういうイメージとは全然違う。

命がけ、ということがドラマなんかじゃなく、厳しい現実であることを思い知らさせる。
でかい借金してしまった人に、取り立て屋が「腎臓1個売れ」だの「マグロ漁船に乗れ」だの言うシーンが、小説やドラマにはあるけど、そこらへんの人間ができる仕事じゃない。
仕事のできない人間を乗せるほど、マグロ漁船は甘くないのだ。
著者はマグロ漁船に乗ろうと室戸を訪れる。しかし、乗せてくれる船はなかなか見つからない。
その著者に、長年の経験者、安田甲板長はこう言う。
「素人は分からんがよ。ちょうど三十ぐらいの人間が分からんが」
「世の中の酸いも甘いも知っちゅうき、途中で嫌になってポイと降りても、どうってことないと考えるがよ。おまんには悪いけんど、余所者で歳もいっちゅうし、経験ないときてるろうが。わしらから見て、おまんはどこちゃあ取り柄がないがや」
(余談だけど、この土佐弁の心地良さ!好きだ。高知には行ったこともないのに、何故かひかれる土佐弁。)
一緒に船に乗った人間が、いい加減なやつだったら、自分の命にも関わってくるのだ。気楽に、ほないこか、って訳にはいかない。

私の父は、サラリーマン生活を終えて、今は漁師になっている。
もともと祖父が漁師だったので、小型船舶の免許も持っているし、未経験というわけではなかったのだ。
沿岸ではあるけど、夜明け前(午前3時とか4時)に船を出し、すべての始末を終えて家に帰るのが夜9時、10時、という長い労働である。
海に落ちる、ということが何より恐い。網を巻き上げる機械に巻き込まれてケガをした人の話もよく聞く。
父はあまり大変だとか言わないんだけど、この本を読んで、背中合わせにある危険をひしひしと感じた。
「やっぱり、体力だけありゃあいいっていうような単純なことじゃないんだ。」という実感。
目の前にいる父を見るより、本を読んでそういうふうに感じるのもおかしな話なんだけど…。
でも父は絶対「辛い」とか「死ぬかと思った」とか言わないので(多分漁師もやめて時間がたったら酒飲み話のネタになるだろうが)、このノン・フィクションを通して、海を船を感じられたことは良かったな、と思う。
(2001・4.27)



モダンガール論(斎藤美奈子・マガジンハウス)

<「専業主婦VS働く主婦」の論争は大正時代からあった!>

驚きです。不勉強で知らなかったんだけど、大正のアグネス論争ともいえる「母性保護論争」なんてのがあったんですね。
しかも、内容が今より過激だ。
まっこうから対決した与謝野晶子と平塚らいてうの論を要約してみると、こうだ。
与謝野晶子:男女の完全な平等。女も経済的に独立すべきであり、妊娠・出産・育児中の保護も求めるべきではない。
平塚らいてう:「母」であることによって女は社会的存在となるのだから、保護は必要である。
なんだか、現代の論争と言いたいことはほとんど変わらない。
しかも「妊娠・出産・育児中の保護」もいらないなんて、今ここまで言う人いないよ!潔すぎ。
しかし100年近くも、あーだこーだ言ってきても全然決着はつかないのか…。力抜けますね。

この本は「欲望史観」という名前がつけられている。成功したい!良い暮らしがしたい!という女の子の欲望を中心に、女の子の職業について述べられていく。
国民のほとんどが小作農だった時代から、現代まで、少ーしづつではあるが確実に、女の子はなりたい自分になってきているではないか!
「楽で、ちょっと人に自慢できるような生活」を求めて、女の子はぐいぐい突き進んでいるのである。
こっちのほうが楽そう面白そう、となればざざーっとそっちに流れていく。女の子ってかなり強欲で自慢したがりなんだな、と本書で改めて実感した。
今、100年も続く「家事・育児中心VS仕事中心」に決着がつかないのは、どっちも「すんごく楽しく楽で人に自慢できる」ことでないことを、みんなわかっちゃったからなんだろうな。
コマダムだのシロガネーゼだの細かい差別化をして、女の子の欲望をかきたてようとしても、誰もがそれを目指すというほどの魅力はないのである。
コマダムとかにならなくても、同等に見栄をはれる方法は他にもあるしね。
「家事・育児中心」「仕事中心」以外の価値観が出てこない限り、どっちがいいかなあって女の子は悩み続けるんだろう。

しかし、女の子が「こっちが良い」「いや、こっちのほうが良い」と言ってる間、男の子はもくもくと仕事を続けるのみ。
男の子も「仕事するのは嫌だから、家事・育児を中心にやりたい」とか言ってもいいと思うんだけど。(そう思っている人いるよね?)
男の子は何故なにも言わないんだろう?やっぱり男はだまってハイライト((c)ひろし)なんだろうか。
男の子よ、立ち上がれ!女の子の選択肢は出尽くし試しつくした。あなたたちの発言が、また家庭の可能性を広げることになる。
男も女も、このことを考えはじめたら、社会のシステムも変わっていくはず。
え、何?社会のシステムも家庭も変わらなくっていい、って?
そ、そう言われると私も強く言えないんだけど…(笑)
(2001・4.20)



東電OL殺人事件(佐野真一・新潮社)

平成9年に起きた、エリートOL殺人事件を追ったもの。
犯人として、3年近く拘留されていたネパール人の男性には今年4月無罪判決が下りた。

この作品は、”エリートOLの堕落”と”ネパール人男性の無実の証明”という2本の柱からなる。
当日のネパール人男性の足取りを追ったり、周辺の人へ細かい取材をしたり、”無実の証明”部分は非常に興味深く読んだ。
検察の無理無理の弁論を覆す、弁護人の弁論は鮮やか。
(まあ、そういう風に書いているんだけども)

しかし、被害者の話になると、どうも…。
現場となった円山町は、御母衣ダム建設にあたって水没した村に住んでいた人が多数やってきて、旅館街を形成した街らしい。
その事実を聞きながら、著者は東電の事業のために村を追われた人々の街で、東電のOLが殺害された、と地理的符号に衝撃を覚える。
うーん。そんなに戦慄の事実だろうか?
第1章、いきなりこんな話でちょっとひいてしまった。

初めはホテトルで働いていた被害者は、どんどん堕ちていき、最後には1人で夜の街に立ち、ほんの数千円でどこででも体を売るようになる。
その結果、古びた安アパートの空部屋で命を落としてしまう。

意地汚い小堕落のなかで生きる私達に見せつけた、決定的な大堕落。
ほんとの堕落とはこういうことをいうのよ。堕ちる気ならここまで来てごらん。

と、体をはって社会に世間に訴えていたのではないか、と著者は言う。
そして、その一途な堕落に、神がかりなものを感じ、巫女とまで言うのである。
おいおい。そこまで言わなくても。

終章に、精神科医・斎藤学との対話が載っているのだけど、それを読んで、ようやくほっとした。
彼女は、父親を尊敬する余り、父親に対して至らない自分、ダメな自分を処罰したいという衝動から、行動をとったのではないか、ということ。
とことん自分を汚して、苛め抜いて罰を与える行為。
精神科医は”自己処罰”という言葉を使っていた。

もちろん、精神を病む人たちは敏感で、その症例が現代の社会の問題点を浮かび上がらせるのだろうけど、終章に至るまで、あまりにも彼女に神聖なものを感じる様子で書いていたので、その点はちょっとげんなりした。
そして、この事件の真犯人は見つからないのだろうな、と思い、こうしてこのような本を読むことが、卑しいことのように感じられて、切ない気持ちになった。


プッシュ(サファイア・河出書房新社)

<人を絶望の淵から救うのは”言葉”だ>

ハーレムに生まれたプリシャスは16歳、父親の二人目の子供を妊娠中。母親は一日中動かずソファに座りっぱなしで、プリシャスをこき使い暴力をふるう。
ただ生きているだけの彼女を救ったのは、読み書きを教えてくれたレイン先生、そしてそのことによって得た”言葉”だった。

知らない、ということは恐いことだ。毎夜、のっかってくる父親との関係をなんだかおかしいものだと感じていても、それを断ち切ろう、どこかに相談して救ってもらおう、とは考えることができない。
子供に対する暴力の最も許せないところは、ここだ。小さな子供にとっては、家が世界のすべてだ。客観的に見てどんなにおかしな親でも、子供にとってはそれが当たり前なのだ。おかしいと気付くことはできない。
私の父は、毎晩お酒を飲んでいた。べつにそれで暴れたり、家族に暴力をふるうわけではなくて、ただ飲んで酔っぱらってただけなんだけど、私は「お父さん」はみんなそうなんだと思っていた。
高校生になって、始めて友達の家に泊まったとき、ほんの少しお酒を飲んで、にこやかに家族と話す「お父さん」を見て、少なからず衝撃を受けた。
「みんながあんなにお酒を飲むわけじゃないんだ!うちのお父さんはもしかして変なのかなあ。」って。
まあ、私の父だって真面目に働いていたし(今も働いているし)、家にいる時に飲んでるだけなんだけど、なんかけっこうショックだった。
本当にひどい虐待を受けていた人が、その事実に気付いたときの衝撃は想像もつかない。足元から救われて叩きつけられるだろう。
しかし、この物語は、どれほど傷付いたか苦しんだか、ということが本題ではない。そこから這い上がっていくのは自分自身なのだ。事実を現実を見て、そこから抜け出すためにまず必要なもの、それは”言葉”だ。

妊娠を理由に学校を辞めさせられたプリシャスは、代替学校に通い始める。
教科書のどのページも同じに見える、という彼女は、読み書きの基礎を習うクラスに入る。
そこで出会ったレイン先生は、とにかく書きなさい、と言う。わからなくてもいい、単語の知っている部分だけでもいいから、あなたの思っていること考えていること気持ちを書きなさい。
その書いたものをレイン先生が添削してくれ、プリシャスは少しずつ読み書きを覚えていく。
今まで、もやもやと心のなかにあって、考え始めるとタプタプと揺れる水のようにおぼろだった感情が、しっかりと形を作り始める。
彼女はそこで気付く。「この家から出よう」
感情を書き表す、ということを知らなければ、彼女は一生を「何かおかしい。」と思いながら終えただろう。
話すことと書くことは全く違う。話した言葉は、言った後からすぐ消え去っていくけど、書いた言葉は残る。物理的に紙の上に残るというだけではなくて、より深く自分の心に残る。読み返すことで自分を再確認することもできる。
プリシャスは生まれた赤ん坊への愛を、自分の未来への希望を、はっきりと言葉にしていくのだ。たとえ現実には彼女の未来が暗澹たるものであっても、この心のなかの希望がある限り、彼女は幸せで安定している、と私は思う。
ラスト、赤ん坊を膝にのせ絵本を読んでやるプリシャスの姿は、本当に美しい。
(2001・4・3)



スリム&ファット(シェリー・アッシュワース・訳中谷ハルナ・青山出版社)

タイトル通り、ダイエット小説。
翻訳本は苦手なんて言いながら、図書館でふと目について借りてみた。
太っているから痩せたい、と目的は誰も同じなんだけど、どうして痩身クラブ「スリム・プリシティ」に通ってまで痩せなきゃならないのか、その理由は人それぞれ。
母親との確執から、ママみたいなデブになりたくない、とダイエットを続けるスリム・プリシティの講師・ステラ。
ずっとこんな生活でいいのだろうか、何かを変えたい、じゃあ痩せてみたらどうだろう、という2児の母ヘレン。
とにかく50歳の誕生日パーティーのときに痩せていたい、というモーリーン。
太めの体を何とかしたいんだけど、我慢してスリムになることは良いことなの?と、頭で考えてしまうサンドラ。
それに「太った女性を支持する会」というフェミニストのグループが絡んで、最後はもうてんやわんや。

「太った女性を支持する会」の主張がすごい。
男性は痩せた女性が好きだ、だから女性は痩せようと無理をして辛い思いをしなきゃならない。
なんで、男に押し付けられなきゃいけないんだ。
社会全体もそういう価値観に毒されている。間違っている。
私達には、好きなだけ食べて、自分の体を好きに太らせる権利があるのよ!

うーん。フェミニストって、すぐ○○のせいで私達は抑圧されてる、っていうから嫌。
別に、理屈を並べないで、太りたきゃ太っていればいいと思うんだけど。

日本では、ダイエットは最早娯楽。趣味の世界だと思う。
摂食障害の人が別で、治療が必要だと思うけど、それ以外の人は好きに楽しめばいいんじゃないかな。
太ろうが、痩せようが。
この本の登場人物では、モーリーンがそのタイプ。
目標の体重におとして、パーティが終わったら、また好きなだけ食べる。
この時だけは、すっきりして写真におさまりたい、という時にはまたダイエット。
なんか、小賢しい理屈をスコーンと突き抜けてて好きだなあ(笑)

余談だけど、すごく太ってる人って、やっぱり食べ過ぎ。
学生の頃、バイトしてた喫茶店の店長が、極楽とんぼの山本みたいな感じだったんだけど、オーダー入ったら、その度に何か口に入れてたもんね。
ハムの切れ端とか、ちょっと余ったピラフとか、バナナの端っことか。
朝10時から夜10時まで、ほとんど立ちっぱなしの重労働だと思うんだけど、体型キープしてたのは、そのつまみ食いのせいだ。
本人ちょっと口にしただけ、って感覚だろうけど、端で見てると、こりゃ太らない方がおかしい、って感じ。
バイト仲間と、あのつまみ食いはすごいね、とよく肴にしたものだ。
(00.4.20)



手業に学べ 地の巻(塩野米松・小学館)

<ただ生きる、ただ作る、その素晴らしさ>

全国各地の伝統的な技を持った職人から話を聞いた、聞き書きの本。
著者の意見や考えは、あとがきで少し述べられているだけで、本文はすべて職人さんの語りという形で書かれている。
もちろん実際にはインタビューしたのであるから、著者の質問によって引き出された言葉なのであろう。(講演のまとめの場合もあるが)
がしかし、インタビュー形式で書かれていないところが、うまいなあ、と思う。
職人さんそれぞれが、問わず語りにぽつぽつと話しているような、そういう雰囲気がいい感じである。

蔓細工や織物に特にひかれた。
みなさん材料からすべて自分の手で作るのだ。
1年の生活のサイクルの中で、何月にはこれをする、というのがきちんと決まっている。
自然に逆らわず、その時々の様子を見ながら、材料を揃え作品に仕上げていく。
そうして人が手仕事でできる範囲のことをやるだけなら、いくら蔓をとってこようと自然破壊になんかならないのである。
織物に使う糸だって、自分で材料を育てちゃうんだから。そしてやはり自分の手でできる範囲を逸脱しない。
「手仕事でできる範囲」を守っていれば、充分自然と共生できるのになあ、と感じる。
でも、それは綺麗ごとにすぎないことも、同時に思う。職人技は日常ではなくて、もはや芸術工芸品としてしか生き残らないのは事実。
というぐるぐる考えが回っちゃいそうなことは置いておいて。
ただもくもくと物を作っている人の話はやはり面白い。何故かみなさんに共通しているのは強い自己主張がない、ということ。
「なーんかね、こうなっちゃったんだよ。」という感じで。いちいち、自分の才能は何かとかどう生きるべきかとか、考えるのはナンセンスなのかも、という気がしてきた。
そういうものは、ちゃんと前を向いて生きてたら後からついてくるんじゃないか?はじめっから決めてスタートする必要はないんじゃないか?

この「手業に学べ」は他に、天の巻、風の巻、月の巻、とある。
私はわりに手仕事の方に興味があったので、ヤマブドウ蔓細工、芭蕉交布、杞柳細工などが載っている本書を読んでみた。
ご自分の興味に合わせて、ぱらぱらめくって見てはいかが?
(2001・1・10)



ビタミンF(重松清・新潮社)

30代後半、自分がもう若者ではないことを承知しつつも、中年とは思いきれない、そんなおじさんが”もう大人なんだ。俺は大人として生きる!”と決意を固める、そういう雰囲気の短編集。

これを読みながら、私はあるCMの映像が浮かんできた。
何のCMだか分からないんだけど、時任三郎が、”うっせーよ。オヤジ”というガキの肩をぐっと掴んで、”オヤジじゃない。大人なんだ。”というやつ。(私これすごく好き。)

大人なんて嫌だ!とうだうだ拗ねて若ぶってるより、シャキっと”大人だよ”って立ってるほうが、どれだけカッコイイか、しみじみとほんわりそれを感じさせてくれる短編集である。ガキにはこの短編の良さはわかるまい。
こういう良いものを読める、分かる、大人になるっていいことだ、ほんとに。
子供が、大人っていいなあ、って羨ましがるような楽しみは沢山あるのだ。
”もうオヤジだからさあ”っていうのは、若さに対する羨ましさが見え隠れする。ガキはそういうの敏感に嗅ぎとってバカにするんだ。
”大人だからね”って、キリッとしていたい。
もちろん、大人としての内面をきちんと持つよう努力しなきゃ。



第4の神話(篠田節子・角川書店)
落ち目になった女性ライターが、ある人気作家の没後5年フェアの記事を書く、ということから、話は始まる。
亡くなっている人のことを書くのは、なんて難しいんだろう。
色んな人に話を聞いても、それは話者のフィルターを通した人物像であって、書き手に直に伝わってきたものではない。
そしてそれは、事実かどうかも定かではない。
評伝やインタビューを書くときは、私の解釈した○○像を書く、と考えなくてはとても書けないんだろうな、と思った。
読む方も、そこは頭に入れて読まなくては。
でもこれは、今現実に生きている人に対する評価に対しても言えるんじゃないだろうか。
ある人が「あいつ嫌なやつだよ」と言っても、鵜呑みにしない方がいいと思う。
その判断は自分できちんとするべきだ。
ちょっと、話がずれました。
篠田節子作品の中では、この作品はまあまあ、という感じだ。
私は「夏の災厄」「ゴサインタン」が好きだなあ。



百年の恋(篠田節子・朝日新聞社)
<子育て中の家庭ではこんな光景日常茶飯事>

エリート銀行員・梨香子とさえないオタクライター・真一の、結婚・出産・育児、ドタバタコメディ。
はっはっはっ、何これ!?と可笑しく読むべきのような気がするのだけど、結婚・出産・育児を一通り経験したものとしては、なんだか身につまされすぎて笑えましぇーん。くすっときても、その裏ではうむむと考えてしまうようなブラック感あり。
私は、男女平等だと幼き頃より学校で習い、就職時も全く男と同じ条件で入社できたから、洗脳されてんのかもしれないけど、「男は…。女は…。」という括りの議論は、もう意味ない気がする。
「これだから女は」っていうのはよく聞くセリフだけど、それは”女だから”じゃなくて、同じ立場に立てば男だってそうなるんですよ。専業主夫になれば、いつのまにか、今までアホやアホやとバカにしていたおばちゃんと似たりよったりになる。それは絶対そうだと思う。そしてそれは悪いことじゃない。
専業主婦、共働き、専業主夫と様々なパターンの家庭が、当たり前にそこらにあるようになって、あんまり男は女はとガミガミ言わない世間になるといいな。
しかし、この物語に「百年の恋」とはいかに?結婚すると百年の恋も冷める、という意味なのか。もっと深い意味があるのか…。
なんでか、この本を読んでから、柱の陰から篠田節子がちょこっと顔を覗かせて、くすくす笑っている絵が頭に浮かんでしょうがない。「私の球、ちゃんと受けとめられた?」って言ってるような感じ。
いや、可笑しくて、でも今自分がやっている専業主婦って仕事(異論はありましょうが、私は仕事だと思って頑張っているので)についても真面目に考えてしまいました、はい。
(2001.1.12)



Miss You(柴田よしき・文藝春秋)

そろそろ中堅かという年頃の女性編集者が、結婚を決めた矢先に突然、誹謗中傷を受けたり、怪我を負わされたりという悪意に襲われる。
一体、だれが?何のために?
柴田よしき作品は「RIKOー女神の永遠ー」「紫のアリス」と読んだのだけど、あのー、話は面白いんだよね。
けど、恋愛関係が多くの場合ゲイである、という部分が、私の趣味ではない。
ゲイであることに問題があるとは思わないけど、描かれてる関係が、やっぱりゲイって私なんかの恋愛とは違うのね、と思わせるところが嫌なのだ。
異常にねちっこい嫉妬心、異常な奉仕心。
そりゃ、ゲイでもゲイでなくても、そんな人はいるだろうけどさ。
わざわざ、ゲイとして書かれていることで、”ゲイだから”って感じさせられる。
それは、私の中にある偏見なのか?
まったく偏見を持たない人、あるいはゲイの人は、これを普通の恋愛と読めるのだろうか?



桜さがし(柴田よしき・集英社)
連作短編集。
中学時代の新聞部の仲間と教師が成長していく様、と言ったらいいかな。
ちょうど社会人になって数年という時期のお話なのだけど、幼い恋愛観や人生観からの脱皮の時期である。
今までなんと自分本位に過ごしてきたか、ということに気付いたり、自分の人生と相手の人生を考えるあまり気持ちとは裏腹の行動にでてしまったり。
幼い恋愛は、ただ一緒にいるだけでいい、というよりそれだけが全てだ。
しかし、やはり先の見えない、ただ一緒にいるだけという状態に不安を持ち始めるのが、20代前半じゃないだろうか。
1年先、一緒にいるかどうか、その時になってみないと分からない、というのが嫌になってくる。
10年先なんて分からないが、数年先の見通しくらいはつけておきたい、と思う時期だと思う。
(じゃあそこで2人の未来をこうして行こう、と見通しをつけても、それが実現するかどうかは別問題で、その時点での見通しを立てたい、ということ。)
そこでお互いの気持ちに齟齬が出てくるわけだけど、それをどう切り抜けるか。
10代から付き合っているカップルで、今5〜6年目という方、ツボにはまると思う。
10代から付き合ってて結婚した、10代から付き合ってて5年以上付き合ったんだけど別れた、という経験ありの方にもオススメ。



スローフードな人生!(島村菜津・新潮社)
普段、私はこういう本を食わず嫌いする方だ。
「南仏プロヴァンスの12ヶ月」なんて、ケッと思っちゃったくち。
でも、なんでだか”!”に惹かれてしまった。タイトルに”!”がなければ買わなかったような気がする。
いつもなら、副題は”イタリアの食卓から始まる”だしね、どうせ、日本はダメだ、それに比べてイタリアは…、って本なんでしょ?
と、手を出さないのだけど、くどいが”!”があったせいで買った。
改めて書いてみると、自分でもなんでだか訳わかんないが。
読んでみたら、かなりおもしろかった。

スローフード運動というのは、1987年にイタリアの田舎町で始まった。
著者はその運動を丹念に取材する。
スローフードとは、単なる”ゆっくり食べる”にあらず。
良い素材を、楽しい会話で彩られた食卓でゆっくりと。
おお、これは私の理想。自分がうまいと思うものを、お酒を飲みながらゆっくり食べる。
これに夫と子供、親しい友人との会話がついたら、もう私の至福のときである。
一緒においしく楽しくご飯を食べる、ということは私にとってとても大事なこと。
食事中に子供がぐずぐず言うと「めしがまずくなる!」と怒る。(おいおいそれじゃあ楽しい食卓が台無しだ…。)

マクドナルドに代表されるファーストフードへの批判はもちろんあるが、単にそれをやめろ!という運動ではない。
そしてまた”良い素材”を追求するあまり、単なるグルメになってしまっているという内部批判もある。
もともとは、手がかかるために少数しか生産できず現代の流通にのれない生産者を救う、その良さを再確認するということだったのが、だんだんと○○はここでしか取れないxxを使って…、という鼻持ちならないグルメ野郎に成り下がってるという痛烈な批判。

イタリアのその運動を描きながら、うむむ、これは我が日本でも同じこと、と不安に駆られる著者のスタンスが気に入った。
説教系でもないし、自慢系でもない。
流通の発達によって、私達は今まで手近で十分賄えていたものすら、わざわざ1ヶ所に集めて同じ”製品”に仕立ててはいまいか。
本当に熟しすぎたといっても過言ではない資本主義の速度を落とすことはできないんだろうか?
私なんて、ほんっとにどうしてそんなに早く進歩発展しなきゃならないのか、理解できない。
まあ要するにそれは”金が儲かるから”ってことなんだろうけども。なんでそんなに儲けなきゃいけないかなあ。
そうなると、意地汚い、俺だけが大儲けしたいって心情を駆逐しなきゃなりませんねえ(笑)
だからって、共産主義の破綻はもう目に見えているわけで…。
という感じで、一個人の食の楽しみから、社会の構造にまで思いを馳せてしまった1冊でした。



リカちゃんの生活懇談会 リカちゃんと6人の神様(清水ちなみ
清水ちなみ主宰のOL1600人委員会でのアンケート結果をまとめた本。
他にも沢山でてます。わりと好き。
小説を読む気になれない時、風呂・トイレでぼーっと眺めたい時に重宝します。
アンケート結果なので、だからこうだ!という主張がなくて、へえ、ふーんと気楽に読める。
で、この本は1992年に出た本なんだけど、その中に「こういうものを作って欲しい」というお題があって、それがおもしろかった。
すでに実現しているものが結構あるのよ。

例えば
「かかってきた相手が受話器を取る前に表示される電話」

「音の出るアルバム。写真と一緒に波の音や話し声・音楽などを録音できる」
  ↓
バーコードにして貼り付けられるのをCMで見たことある。専用のリーダーでなぞると再生される。

「お酒の限界を教えてくれるグラス」
  ↓
グラスではないけど、息を吹きかけると今の酔い加減がわかるというのがある。ポケットに入るくらい小さかった。

「最短時間乗換表示機」
  ↓
駅にはないけど、「駅すぱあと」がある。

「毎日使い捨てのできるコンタクトレンズ、一枚10円くらい」
  ↓
値段は安くても一枚40円くらいするけど。

などなど。
OLらしく避妊関係のものを挙げた人も多くて、「これを使えば絶対に妊娠しない何か」なんてのがあって笑った。

清水ちなみの本では「日本一の田舎はどこだ」がおすすめ。
笑えます。うなずけます。
(99.11.7)



「買ってはいけない」と「「買ってはいけない」を買ってはいけない」
なんというか…、ツボをついた2冊だ。売れるよな、そりゃ、というか。
公害、薬害など、今私たちの環境は不安な要素がある。
それを、そうでしょう、これはダメなんですよ、やめましょう、と煽るのが「買ってはいけない」。
「買ってはいけない」を読むと、このままでは将来必ずガンになる、と思わされる。
私は、どうせガンか血管切れて死ぬと思っているからいいけど(だってそれくらいしか死ぬ原因ないじゃない?今けっこう治っちゃうし)、それですごく不安になってしまった人は、ぜひ「「買ってはいけない」を買ってはいけない」を読んで欲しい。
しかし、どっちにしても、と私は思う。
ある物質に発ガン性があるということは、私なんかが個人的に確かめられることではない。
マウスにxxxをxmg、x日間に渡って、皮下注射で投与したらガンが発生した、という結果を聞いても、だから人間にも明らかに影響がでるのか、判断できない。
どっちの本の言い分をよしとするかは、どっちの雰囲気が好きかというような判断になってしまうんじゃないかな。
本に書いてあることが、すべて真実だなんて、最早だれも思ってないよね。
本気で心配なら、いろいろ文献にあたって、相当勉強するしかない。
私としては、「買ってはいけない」はおもしろいけど、本気にするなって感じかな。
話半分で聞いてちょうど、というか。(ノストラダムスの大予言みたいね)
そんなに脅さなくったって、毎日毎日ハンバーガー食べてコーラ飲んでたら、体に良くなさそうって、みんな思うよ。
個人の判断で食べたり、食べなかったりすればいいじゃない。
私は、毎日酒のんでたら肝臓に悪いことも、タバコは肺ガンになる確率をぐんと上げることも知ってて、酒かっくらってタバコ吸ってます。
「買ってはいけない」はヒステリックすぎる。

発ガンの疑いがある人口的に作られた物質は、小指の先ほども口にしたくないという人は、結局全部自分で作るしかないんだよ。
魚は自分で釣ったって、いろいろな物質が含まれているから、魚は食べられない。
穀類・野菜を、毎日きちんと食べられるだけ作る(もちろん無農薬よね)のは、片手間ではできまい。そんなに沢山の種類は作れないから、ずーっと決まったものを食べるしかない。
肉が食べたければ、牛・豚・鳥などを飼う。えさももちろん自分で作る。
そうしたって、絶対にガンにならないって保証はないと思うけど。

ところで、「買ってはいけない」の巻末の対談で、タバコの燃焼で地球温暖化が促進される、と言っている人がいたけど、???である。
だいたい、なんで主に食品添加物の話をしてたのが、地球温暖化の話になっちゃうわけ?
疑いのある物質は口にしない、たばこなんかとんでもない、俺は長生きするぞ、と言い張ってるだけなのに、いかにも地球環境のことを考えているみたいになるのは何故?
そういうとこが胡散臭いんだよ!
私は、地球環境のことを本気で考えているなら、子供は産まない、早死にする、で地球の総人口を減らすのがいいと思うんだけどなあ。
だんなにそう言ったら、極端すぎると怒られたが。

おっと、話が飛びに飛んだけど、ぜひ2冊そろえて、1品ずつ読み比べて楽しんで欲しい。
どっちか1冊だけ読むのはダメよ。
(99.11.4)



脳男(首藤瓜於・講談社)
<読後「このタイトルしかないだろ!」と納得の直球ド真ん中>

とにかく、すげえタイトル!「脳男」って、何じゃそれ?
知りたい!と思うか、ヘンなのとそっぽを向くか、微妙なところだけど、直球ド真ん中。
私はどっちかというと、ヘンなのというほうが強かったんだけど、読んでみてよかった。読んじゃうと、タイトルはこれしかないだろう、という気すらしてくる。ゲンキン(笑)

愛宕市で起こった連続爆破事件。犯人を特定した茶屋は、爆弾製造現場と思われる倉庫に踏み込む。
そこにいたのは2人の男。一人は犯人と思われていた緑川。そしてもう一人は何者か分からない鈴木という男。
茶屋は緑川を取り逃がすが、鈴木を共犯として逮捕。果たして鈴木は共犯者なのか?そして緑川はどこへ?

あらら、のっけから犯人はわかるし、どうなるのこの話、と思い、序盤は拍子抜けの感じがしたけど、「脳男」とは何ぞや?という謎にぐいぐい引き込まれていった。
また、登場人物がみんな一癖あって、それも気になるんだわ。
逮捕された鈴木は、一向に身元が分からず、3年以上前に遡ると、どこで暮らしてしていたのか、どんな仕事をしていたのかも掴めない。
刑事の茶屋は、相当勝手なことをしても黙認されるような、何か伝説があるらしい。
鈴木の精神鑑定を行うことになった医師、真梨子はアメリカで医師として働いていたのだけど、何かから逃げるようにして日本に帰ってきたばかりだ。何故?
それぞれの人物の背景に深く踏み入っていきたくなる魅力がある。うーん、魅力というとちょっと違うか。なーんか隠してるでしょう、それは何なの?知りたい、という感じ。
これらすべての謎が本作品で明らかになるわけではないのが、ちょっと残念で、続編が欲しい!と思う。
ちょっと悪い言い方になるが、あちこちに置いた石を全部拾いきれてない感じがするのだ。
悪口ついでに言うと、連続爆弾事件の本当の意味、犯人の目的が明かになる部分は、とってつけたようで「ふーん、そんなことはもうどうでもいいよ」って気分になってしまった。
でも、最初に提示した事件にオチをつけないわけにはいかなしなあ。こういう展開は仕方ないか。
先ほど謎として挙げた点も、私が勝手に「何?何?」と思っただけで、ミステリーとしての本質的な謎、爆破事件の犯人と動機、「脳男」とは何か?、というのはちゃんと明かになってるものね。
うーん、妙に登場人物に肩入れして読んだ私が邪道、かもしれない。それほど、この人々に興味がわいたのよ。
(2001・1・16)



ハサミ男(殊能将之・講談社ノベルズ)
女子高校生が絞殺され、その首には死後突き立てられたハサミが。
半年の間をおいて起きた同じような2件の事件。
マスコミは犯人を”ハサミ男”と命名する。
捜査が遅々として進まない中、第3の事件が起こる。
またもやハサミ男の犯行!と世間が騒ぐなか、これが模倣犯であることをはっきりと知る人物がいた。本物のハサミ男だ。
ハサミ男は模倣犯を捜し始める…。
ラスト、事実が明らかになってくると、”えっ?えっー!”。
もう一度最初から読み返したい衝動にかられる。
なんだか、まんまとやられた!、って感じ。
詳しく言うと反則なので、あまり言えないのが残念なのだけど、ミステリーファンはぜひ読んで!
(いや、ミステリーファンなら、すでに読んでるかな?)
最後の謎明かしが、ちょっと分かりにくくて、もうちょっとスパッと書いて欲しいな、と思ったけど、まあそれは好みかな。
私は、京極堂とか御手洗みたいに、ラストえんえんとしゃべってすべて明らかに、というのが好みなので。
(00.3.3)



「美濃牛」(殊能将之・講談社ノベルス)
前作「ハサミ男」とはうって変わって、古典的な推理小説。
すっごく因習のありそうな小さな村で起こる連続殺人。
謎解きも前作のように、えーっ!というものはない。
でも、まったく違ったものをきっちり書き上げた、というところに次作への期待が。

この物語には探偵が登場する。
石動(いするぎ)という変わった名前の変わった男。(でも今、変換いっぱつで出来た。いするぎって出ないかと思ったのに)
私、この人のこと、”色白のちょっと小太りな男。初対面では決して友達になりたいと思わないようなタイプ”というイメージで読んでいたんだけど、初登場のところを読み返してみたら、30代半ば・丸顔・角張った黒縁眼鏡・量販店のバーゲン品のような紺のスーツに紺のネクタイ、ということだけで、どこにも色白とか小太りなんて出てこない。
どっからでてくるんでしょう?この不思議なイメージは。
こういうの一人一人が持ってるから、文章の映像化は必ず文句が出るんだろうなあ。
おもしろいもんだ。これも本の楽しみだな、と思う。

これは「石動シリーズ」になるのかな?
今回、派手な活躍ではなかったので、探偵がバリッと活躍するの読みたいな。
(そういうタイプじゃないか…。石動は)
私のなかでは、永遠に”色白で小太り”ですけど(笑)
(00.6.14)



黒い仏(殊能将之・講談社ノベルス)
<なんじゃこりゃ!?>

読み終えて、呆然。こんなのあり?
九世紀に天台僧が唐から持ち帰ろうとした秘法が、福岡の小さな寺にあるらしい、と調査を依頼された石動は福岡に飛ぶ。
そこで起こっていた殺人事件。どうやら天台僧の間での秘宝をめぐっての対立が関係しているらしい…。
おお、宗教がらみか、これは古文書の解読とか細々出てきて読みでがあるぞお。うん?それにしてはページ数が少ないなあ。
などと、思って読んでいたら、いやあ、ものすげえラストだった。
”驚愕の結末!”じゃなくて、もう思いっきりハシゴをはずされた驚き、ね。
うう、オチを言えないのがつらいが、こりゃ確かに究極の名探偵だわ。ほとんど反則なんですけど。
これって「鉄鼠の檻」(京極夏彦・講談社ノベルス)のパロディ?それとも嫌味?(勘ぐりすぎか?)
この作者、一体何を考えてるんだろう。
うそ!反則やんそんなの、と思いつつ、やはり次に何を出すのか、まだまだ気になるのだった。
でも次は図書館で借りるわ(笑)
(2001・1・24)



天国への階段(白川道・幻冬舎)
<男ってこんなに間抜けなの?そして女は恐い>

今年、あまりに話題になった本なので、流行ってるならやめようと思っていたんだけど、復讐の話だというのが気にかかり読んだ。
うーん、前半はクールに作戦を展実行する柏木に引き込まれたのだけど、彼はどんどん良い人になってしまって、馳星周好きの私にはちょっと物足りない感じが。
出てくる人がみんな「いい人」なんだよなあ。復讐の物語というよりは、血をめぐる人情話といったほうが正確だと思う。
これでもかと「情」に問いかけてくる。え?それでどうなるの?事実はどうなのよ?と読んでしまうが、ラストはちょっとやりすぎでは…?思わず「んな、アホな」と呟いてしまったよ、私は。
まあ人間、そうそう悪になりきれるもんでもないけどねえ。

読後いちばんに思ったのは「男は結婚や子供を育てる覚悟が決まるまで、絶対避妊を忘れずに」ってことだった。
上下2巻の大作を読んで、この感想、自分でもあまりに間抜けだと思うが、ほんと「くわばら、くわばら」って感じ。
うん、読んで損したとは思わないし、面白かったって気持ちはあるんだけど、感動とか感心とか、心にきゅっとくるものはなかった、というのが正直なところ。
でも、人にすすめて「ねえねえ、どう思う?これ?」と聞いてみたいという興味は強いなあ。すすめるのに難しい本だ(笑)
(2001・10・24)



無間地獄(新堂冬樹・幻冬社)
ヤクザ。待金をシノギとするヤクザのドタバタ。
債務者を追い込むそのやりとりは、まるで「ナニワ金融道」をもっとえげつなくした感じ。

うーん。なんだかドタバタすぎる…、と思っていたら、後半ぐいぐいと引き寄せられた。
重いトラウマを持ち、自分の心を押し殺してクールに生きる富樫組の若頭・桐生。
顔だけが命で、自分が顔を武器に生きていくしかないことを十分に理解しているヤサ男・玉城。
玉城が嵌められ、桐生が玉城に追い込みをかけていくあたりから、この物語は俄然おもしろくなる。

主人公は桐生なのだけど、私は玉城の方に惹かれた。
とにかく顔とスタイル・ファッションへのこだわりの強さ。
自分の美しさを熟知し、磨きをかけることに余念のない男。
その男がその美貌を破壊されたとき、どうなるのか?
あなた一体どうするの?とドキドキしながら読んだ。

完全に独断でなんの根拠もないことなのだけど、作者は最初は桐生を中心に考えていたんだけど、途中で玉城にどんどん惹き込まれていったのではないだろうか?
よく言うでしょう?キャラクターが勝手に動き出す、とかって。
すごくそういう感じがする。
後半、のびのびと自由に、玉城がより玉城らしく動き出す。
本当の自分を、認めまい認めまいとあがいている桐生と対象的に、いっそ清々しくさえある。

この話、トラウマゆえに自分を解放できない、という重苦しいテーマがあるのだけど、なんとなくお間抜けな雰囲気が漂う。
それは、”盲導犬よりも従順な足取り”とか”今の自分はノストラダムスをも凌ぐ予言者だ”とかいうような、陳腐な比喩のせいだ。
これはシャレ?ギャグ?それともユーモア?
読みやすい、分かりやすいと言えばそうなんだけども、私はいちいち”うっ。なに?この喩え方…”と思ってしまった。
ぐんぐんのってきたときに、こういう表現があるとカクッと階段ふみはずしたような感じで、このヘンな比喩さえ無ければなあ、もっと気持ちよく読めたのに。



カリスマ(新堂冬樹・徳間書店)
<カリスマって結局自分の心を投影する道具なのかも>

100%インチキな宗教団体が舞台。
教徒には、私は神だといい、嘘と屁理屈で固めた教義を駆使して、自らの欲望を満たすことしか考えていない教祖・神郷。
ただ神郷は、自分はインチキで、欲望にまみれたただのおっさんだということを十分認識している。
でも教徒とは恐いもので、教祖自身すら「どう考えたって信じてもらえないだろう」という嘘でも、呑み込んでしまうのである。
特に、幹部教徒である氷室は、あんたこそ教祖じゃないの?ってくらいに、修行によって力を得、教義をすべて真だと受けとめている。
言ってる本人もバカバカしいと思っている言葉に、癒され救いの道を見る教徒。恐い。
デタラメな理屈の羅列のなかにでも、聞いている人間が何かを感じてしまったら、もうそれは真実になってしまう。
カリスマがどういう姿かたちをしていようと、実はどんなにくだらない人間であろうと、受け手側が一度そこに真実を感じてしまったら(あるいは錯覚してしまったら)、教義は受け手それぞれの中で熟成され、揺るぎないものになってしまう。
その時点でカリスマはもう必要ないのかもしれない。ただ、己の心の正しさを確認するよすがとして、形だけそこにあれば。
カリスマとして君臨し、わが世の春を謳歌している人間と、それを不可欠なアイテムとして崇め、実は自分のために利用している人間。
宗教のかたちをかりた、全くよくできたシステムだ。

しかし、この教祖・神郷を描写する文章の下品さといったらたまらない。それが、俗物教祖をあますところなく伝えてくるのだけども。
それにしても読むのがつらい部分もあったことを告白しておく。
(2001・5・31)



黄金の島(真保裕一・講談社)
<もし死ぬ可能性が90%でも今よりまし>

半端なやくざだった修司は、嵌められてタイに逃げる。しかし、そこにも刺客が現われ、さらにベトナムへと逃げる。
ベトナムで、シクロこぎの少年グループと出会った修司は、いつしか少年たちと夢を共有していく。
とにかく、修司も少年たちもせっぱつまっているのである。ここではないどこかであればどこでも、今よりましであろう、と思えるほどに。

そんな生活が現実にあるのだ。
癒し系大好きな人がいう、ここではないどこか、とは全く違った意味で、「とにかくこの国ではないどこかへ」と願う生活。
日本はとりあえず、この国にいたら一生安くこき使われて、働いて食って寝るだけで精一杯で終わる、という状況にはない。
一応、最低限の人権と生活レベルは保障されている、といってもいいと思う。
日本に住んでること自体が、もうとてつもなく苦痛で、どんな苦労をしても他の国に出たい、という日本人は少ないだろう。
だけど、日々の暮らしに満足し、穏やかに暮らせている人はどれほどいるだろう。
マスコミが過剰に報道する「なんだか良くない社会」に不安を感じ、もっと何か、もっと他のどこかがあるんじゃないか、と心をさまよわせる人々。
ユートピアなんて、あるはずもないが、人は一体何がどうなれば満足なんだろうなあ、と思う。
多くはなくても暮らせるお金があって、住む場所があって、権利が保障されていれば、それ以上はもう、気持ちの問題なんだろうな。
ほんのひとつ、心が温かくなるような幸福のタネがあれば、けっこう満足して生きていけるんじゃないか。
それを見つけるのが大変なのかなあ。世間の当たり前や幸福の基準を気にしなければ、案外スパッといくような気もするんだけど。
うん、でも現実には、世間の当たり前や幸福の基準を気にしないっていうのも、なかなか大変なんだよね。
だけど、自分の道だけ見つめて、頑張ろう!
(あら、読み終わったときはそんなことなかったのに、これ書いてたら、なんかやたら前向きな気持ちになってしまった。)
(2001・7・24)



六枚のとんかつ(蘇部健一・講談社ノベルズ)
これは図書館で他の本を探していた時に、ふっと目について借りてしまったんだけど、いやー、おバカです。おバカミステリー短編15編。
いちおうミステリーなんだけど、ミステリーと思って読まない方がいい。
蘇部健一って、全然知らなかったので、読んだ後少し調べてみたんだけど、この本が出たとき(1997年)に、ミステリーファンの間では”とんかつ論争”なんてあったよう。
こんなおバカを認めるかどうか、って侃侃諤諤あったらしい。
私としては、1編が10分ほどで読める手軽さで気楽に読めたし、(トリックというより)オチを推理する楽しさもあって、なかなか良かった。
続編を熱望する、というわけではないが、もし出てるんなら読んでみようか、という感じ。
でも、下品だし、ラジオの深夜番組のノリが嫌いな人にはおすすめしない。



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