著書一覧
作品紹介
いとこ同士のまゆみと百合子。二人は舞踊に打ち込み、まゆみは才能を家元に高く評価されていた。百合子は自分の才能のなさを感じ、彼女に嫉妬している。医師の光村と結婚してまゆみは芸事から一切身を退いたが、それも百合子には気に入らない。百合子も又、光村に好意を抱いていたのだ……まゆみの眼を盗んで光村と巫山戯合う百合子。それを意味ありげに見つめているのは、もう一人の女、光村の元に勤務する薬剤師の竹村春枝だった。今度百合子の名取襲名の舞台が行われることになったが、自分の実力を悟っている百合子には舞台は重荷でしかない。自信を喪失した彼女はまゆみに自分の代理を依頼する。まゆみは百合子に泣かれた上、舞台への未練もあって依頼を引き受ける。当日の控え室の混乱を利用して二人は入れ替わり、まゆみは舞台で見事な「鷺娘」を舞う。ところがまゆみは客席に竹村春枝の姿を見つけて気を取られ、舞台に落ちていた釘を踏んでしまう。何食わぬ顔で家に戻ったまゆみだが、その夜から苦しみだし、ついに息をひきとってしまった……。
まゆみの死は毒殺だった。だがこの小説の焦点は既にそこにはない。これは芸道小説なのだ。芸に全てを打ち込んでも報われない百合子の苦悩。才能に溢れながら夫の為に芸から身を退いたまゆみの舞台に寄せる未練。この小説は多分大倉【てる】子にしか書けない。
新聞記者赤司三吉は銀座で美しい令嬢とすれ違った。彼女に見とれる三吉の前を、今度は彼女を尾行しているらしい男が歩いてゆく。何となく気になった三吉が二人の歩いていった先へと向かうと、先程の男が狼狽の体でふらふらと歩いているのに出くわした。果たしてあの令嬢はどこに消えたのか? それ以来仕事をしていても三吉の頭からは彼女の事が離れない。そのうち彼女の事が街の噂に上るようになってきた。そしてようやく再び彼女と出くわした三吉は、又しても彼女の後を尾行している男を発見する。ならばと男の後を追った三吉だが、二人の姿を見失ってしまった。それから暫くして姿を見せた男は足をもつれさせ、恐怖におののきながら歩き去っていった。一体彼等を恐怖させる彼女の秘密とは何なのか……?
恋に落ちた三吉と令嬢との深夜の邂逅の舞台は何と墓場。そこで三吉は彼女のとんでもない秘密を目撃してしまう。銀座、という敗戦日本の現代生活の象徴から、舞台は一気に古風な怪談の場へ――でもそこで繰り広げられる物語の真相はやっぱり敗戦日本の現代生活の一側面だった。この構成はお見事。メインテーマはこの時期の【てる】子先生お得意の「ダメ男とサバイバル女」の変奏だが、本作のやたら脳天気なラストシーンはいいよ。
母と二人暮らしの貴美子は今、必死で就職先を探している。家財道具も着物も既に殆ど売り払ってしまい、近頃の物価高で銀行から引き出せる生活費では到底足りない。しかし何十枚という履歴書が無駄になってもまだ仕事は見つからなかった。面接の帰り道で雨に降られ、偶然同級生二人と行きずりの車に同乗させてもらった彼女は、就職して自由に金を使う事が出来る身分となった二人の会話に人知れず傷つく。二人が車を降りて貴美子一人になると、運転手が声をかけてきた。仕事が無くて苦労しているという彼女に、運転手は自分の助手として働かないか、と持ちかける。よく見れば運転手は男ではなく、男装の女性であった。彼女・香川保子は警視庁の女探偵で、身分を隠して潜入捜査をする為に、カムフラージュにもなる相棒になって欲しいというのだ。二つ返事で同意した貴美子は、翌日から保子と二人、今まで経験した事のない、スリリングな世界に飛び込んでいった……。
底抜けに荒唐無稽な大倉流メルヘンを期待したかったのだが、文章の節々ににじみ出る生活苦へのやり場のない思いが予感させた通り、貴美子は再び夢も希望もない現実の虜となる。結末の場面で流れる彼女の涙のなんと切ない事か。ちなみに親子の生活は明らかに【てる】子先生と娘の松井玲子嬢の実体験に基づいていると思われ、殆ど同じ描写がされている生活苦エッセイに「好人物」「猫と犬」などがある。
婦人警官の友子は、最近詐欺事件の被害にあったばかりの三角銀行本店の警戒を命じられ、客に化けて張り込んでいた。
ある日銀行の窓口にやって来たのは艶やかな貴婦人。彼女は金を受け取ると待たせてあった自動車に乗って立ち去った。その次にやって来たのは紫の事務服を着た女で、どうやら社員の俸給を引き出しに来たらしい。女は札束を風呂敷に包むと銀行を出て行った。友子が窓からその姿を眺めていると、女を尾行するように徐行する一台の車がある。それはさっきの貴婦人が乗っていた車に見えた。何故? 友子は電話で応援を呼ぶと車を追って駆け出したが、目の前で女が車に押し込まれそうになって倒れ……。
必死の追跡の後、車を止めて中を覗くと貴婦人はおらず、代わりに紫の事務服の女が座っている、という意外な展開。こういうある種の不可能興味なら他の作家でも手を変え品を変えて色々読ませてくれるが、【てる】子先生の場合は、犯人と被害者(実は共犯者)が入れ替わって目を眩ますつもりが、犯人の方が入れ替わって逃げ去る際にずっこけて応援の警官に捕まっていた、などという、不可能興味を楽しむのが不可能な、別な意味でこちらの目が眩むオチになる。ショートコントじゃあるまいし、何を考えているのやら。(←誉め言葉。)
ちなみに本作掲載号の「にっぽん」は、現代犯罪に警鐘を鳴らす意味で探偵作家を総動員した「防犯探偵特集号」と、編集後記で意気揚々。作家も編集者も変なところで大らかな時代だった。(←誉め言葉。)
隣家の山岸幸子は二十四歳の未亡人。夫の家族を彼女一人で必死に養っている。内気で喋らない為、彼女の仕事を誰も知らない。英語が堪能なので、それなりの給料をもらっているという話だが……。「私」の借りているアパートには女給ばかりが住んでいる。ある日騒々しいので管理人の事務所に行ってみると、男の死体が寝かされていた。八号室の水上清子のベッドで見つかったのだという。死因は心臓麻痺らしい。発見した水上は男に見覚えがなく、身元不明の死体はやむなく管理人の部屋に運ばれて来たのだ。野次馬が帰ると、管理人は水上のことを詳しく話してくれた。部屋で客を取っていたようだし、この男の事も最初は自分の帰りが遅くて客がふてくされて寝ていると思ったようだ、と管理人。そこへ住人の江藤が、男から住人の竹沢の部屋を聞かれたと話す。竹沢は九号室。どうも男は間違えて隣室に上がり込み、具合を悪くして死んでしまったらしい。そのうち竹沢本人が帰宅して、男が大島から荷物を届けに来てくれた伯父であると確認し、大いに悲しむ。そして驚かせた詫びを言いたいと、別室で休んでいる水上に会いに行ったのだが……。
生きる為、という強固にしてインモラルな論理が随所に見られる、戦後風俗の一端を切り取って見せた短篇。戦争未亡人の悲哀と女のふてぶてしさのコントラストがさらりと生かされたラストシーンは読ませる。
最近多発する赤ん坊誘拐事件。事件はいつも母親が晩の支度に忙しい時間、子供から目を離した隙に起きている。子供は数日すると無事に戻るので、大事件にはなっていなかった。警ら中の巡査に注意を促された安子も生まれたばかりの娘を抱える母親である。ある日、娘の君子と昼寝をしていた安子が雨の音に飛び起きて、洗濯物を取り込んで戻ると君子の姿がない。慌てて警察に届けるが何の手がかりもなく、巡査も暫く様子を見るように言うばかり。夫からは不注意を責められ、張ってきた乳を茶碗に搾りながら、安子は涙を落とす。翌日の日暮れ時、縁側で物音がした。安子が様子を窺っていると、一人の女が何かを抱えて忍び込んでくる。夢中で女を取り押さえた安子に、女は警察に届けないでくれと哀願する。女の抱えていたものを見れば、それは愛娘の君子であった……!
生活苦に喘ぐ女が考えたのは、妊産婦と偽って配給の優遇を受けることだった。近所の手前、時々赤ん坊をさらって来て世話をしている様子を見せていたのだ。そうしなくては生きていけない、と開き直り、子供にひどい思いをさせたりしないから、と奇妙な女同士の連帯を仄めかす女の様子はふてぶてしさを通り越して異常とも思えるが、これも敗戦直後の一種のリアリズムだろう。その独特な空気を作者はうまく小説に生かした。短い中に「母」と「女」を対比させた構成は見事だ。
空襲から一年、それなりに立派に店を盛り返して来た質屋の銭屋吉五郎を知り合いの杉原幸吉が訪ねて来た。銭屋では杉原の持って来る掘り出し物を引き取って裏でさばき、かなりの収入を得ていたのだ。杉原は品物の仕入れ先を秘密にしている。この小柄でおとなしそうな男は、どうやら「泥棒市」と言われる盗品売買などの闇ルートを持っているらしい。酒を飲みながら二人が話していると、吉五郎の妻の一枝が銭湯から戻って来た。杉原を見つけた一枝は知り合いからダイヤの仕入れを頼まれていることを告げ、良い儲け話と杉原にダイヤの入手を依頼する。その場では軽く請け負って帰っていった杉原だったが、結局そのまま約束した日を過ぎても姿を現さなかった。相手先から催促を受け困り果てた一枝は杉原宅に赴くことにした。以前羽振りの良い杉原に厚切りのハムやソーセージ、コーヒーまでご馳走になり、土産に貴重なサッカリンをもらったことがあった。……二匹目の泥鰌がいるかも知れず、一枝は意気揚々と郊外の杉原宅へと向かう。玄関のベルを押すと、現れたのは赤ら顔の大男。しかも彼は自分が主人の杉原だと名乗った……。
“したたか”ぶって甘い汁を吸おうとした女が逆に散々な目にあってしまう。一人暮らしの会社員、杉原幸吉が家を空けた後、九時から五時までこの家を自由に使う「姿なき同棲者」の影。さあ何も知らぬ一枝の運命は?
旧公爵の藤原家が家宝を競売にかける事になった。その上世間の話題となった先代の一人息子公高失踪事件の秘密を公開するという。競売の当日、最も人目をひいたのは普段は貸金庫の地下に預けてあるという大きな寝観音。集まった客を前に当主の公正は公高失踪事件の真相と、彼の母親の死について報告する、と宣言し、公高の母が残したという遺書を取り出した。……身分違いの所から嫁いできた自分は家庭内で疎まれていた。だが自分の息子公高は利発な美少年に育ち、良家の跡取りに相応しい。彼さえいれば自分の立場も安定してくれるはずだった。しかしある時自分は公高に非常に悪質な盗癖がある事を発見した。これが公になり問題になれば、きっと平民の自分の血筋に問題があると難癖をつけられることは間違いない、このまま成長して取り返しのつかない事になる前に、せめて愛する息子を自分の手で……。息子を手にかけ、その美しい姿を永久にとどめる為に人工ミイラ製造にかかった夫人。三年の歳月をかけ、その完成を見た夫人は自ら命を絶った。その公高のミイラが安置されている場所こそ、あの寝観音の中だったのだ……!
多くの見物の前で読み上げられた驚愕の真相、そして彼等の眼前で開かれる寝観音、果たして公高のミイラとは如何なるものか? 無駄のないプロットで、意外な結末が見事に決まる。でもタイトルとのマッチングは?だな。
取引を終えて金を懐にし、妻に土産のチョコレートも買ったブローカーの牧だが、時間はまだ宵の口、そのまま家に戻るにはもったいないとキャバレーに向かった。そこで初めて出逢ったダンサーは彼を親しげにアパートに誘う。薄汚い洋館の一室に案内され中に入ると、家具などは何一つなく、部屋の真ん中に敷かれた深紅の羽根布団と、戸棚の扉に貼り付けられた一枚の油絵が目立つばかり。牧はウイスキーを飲みながら女の身の上話に耳を傾ける。元は伯爵の家柄ながら、流転の人生を歩んできたらしい女、ミミー。彼女の蠱惑的な肢体がからみつき、牧はその感触に酔う……その時、何かの物音に牧が顔を向けると、そこには少女の半身を描いたあの油絵……その眼がこちらを向いて、ウインクをしたではないか!
牧は奇怪な部屋から飛び出し、無我夢中で家に帰り着いて、朝を迎える。妻に起こされ、女の家に置き忘れてきてしまった筈のチョコレートの礼を言われて困惑する牧。女は自分の紙入れとダイヤのネクタイピンをくすねて姿を眩ましてしまったが、チョコレートだけは家まで届けてくれたのだった。戸棚に隠れ油絵の眼から部屋を覗く男と、色仕掛けで男を騙して金品を奪う女。小悪党に一杯食わされた男を主人公にしたつまらない風俗小説だが、嘘とは言い切れない女の過去や、牧の家族へのプレゼントにだけは手をつけずに届けてしまう心理の裏など、作者が不親切で書いていない部分をこちらが想像で補ってやると結構イケるのではないかと思う。なんでそこまで、と言われると困ってしまうが。
梶枝の家の向かいに、椿さんという美しい女性が住んでいて、いつも暢気に窓にもたれて本を読んだり編み物をしたりしている。内職や着物を売ったりして生活をしている梶枝は彼女のことが羨ましくて仕方がない。ある日椿さんが部屋に招いてくれた。貴重品のコーヒーを惜しげもなく振る舞い、高価な指輪や時計をその辺に放り出して一向に気にしない彼女を見て、着物を売ってその日の食事を用意しようと考えていた梶枝はますます劣等感を募らせる。そのうち梶枝は彼女がよく毛糸玉を往来に落とすことに気がついた。いつも運良く男性が通りかかって、椿さんの笑顔を二階の窓に見つけると、親切に拾って届けてくれる。だが、それがあまりに頻繁なので、梶枝は椿さんに気をつけるよう注意した。すると彼女は不思議な顔をして、「魚を釣るのにも餌は必要」と曖昧な返事をするのだった。冬になり、梶枝の家はとうとう売る物もない位困窮してしまった。夫は自棄になり、まるで相談にのってくれない。困り果てた梶枝は、ついに椿さんの毛糸の意味を悟り、彼女に自分も「魚釣り」をしたい、とレクチャーを願い出るのだった……。
とほほ、人妻が一人前に売春が出来るようになるまでの成長物語でした。最後は本気になってしまった男をうまく切る方法を椿さんが伝授しているところで、おしまい。混じりっ気無しの明朗風俗小説ですわい。
素封家の一人息子で評判の美男子、葉山謙一を突然の悲劇が襲う。恋人の美和子と散歩中何者かに襲われ、両眼に硫酸を浴びせられたのだ。謙一の災難を聞いて彼の両親は飛んできた。謙一より年上で女給上がりの美和子は彼の両親から疎まれており、肩身の狭い思いをする。謙一の母は彼が美和子と別れる良い機会と見るが、美和子の献身振りは止まらない。むしろ母親さえショックで気を失う程焼け爛れた息子の顔を見ても動ずる事なく、今まで以上に愛情を注ぐ美和子を見て、彼の両親は謙一を託せるのは彼女の他にないと、考えを改める。そして早く美和子を正妻にと息子に勧めるが、謙一はかえって、自分の為に彼女の一生を犠牲にしたくないと、結婚の意志を否定するのだった。謙一を襲った犯人は依然不明のまま。警察では彼を美和子と取り合った過去のある女給春江の犯行とにらんで行方を追っている。しかし謙一を見舞いに訪れた親友の元山が、春江は失恋を苦に既に自殺していたことを突き止めて来た。それを聞いた謙一の脳裏に新たな容疑者が浮かぶ。だがそれは、非常に意外な人物だった……。
愛するが故の憎悪や苦悩を短い中にまとめた作品。各々の登場人物の心理が場面場面でコンパクトかつ的確に描かれ、結末は「変な」メロドラマ。「変」の原因は探偵小説的な意外な動機の設定。女の性と言われても、そんなの昼メロ型の楽ちん設定。未熟者め。
音楽家で金持ちの御曹司である「謙ちゃん」とつきあう為に水商売から足を洗い、会社で働く三枝子だが、とにかく安月給の貧乏暮らしがつらくてならない。彼は非常に優しいのだが、両親の監視が厳しいとの事で生活費を融通してはもらえない。しかも結婚しても両親に正式に紹介する機会があるまでは別居して、彼女は彼女で生計を立ててもらわないと困るという……馬鹿馬鹿しく思いつつも、三枝子は「謙ちゃん」の事が好きであった。ある日三枝子はやっと「謙ちゃん」の屋敷に招待された。しかし彼は終始びくびくと人の眼ばかり気にしている。未来に不安を覚えつつも、屋敷まで見て安心した三枝子は、それからすぐに彼と結婚した。暫くして、いよいよ生活に困った三枝子は彼に会社を辞めてバーか喫茶店に勤める、と相談する。そのまま数日待っても現れない彼に決心を固めた三枝子は、彼の実家をもう一度訪ねた。玄関で彼女を出迎えたのは美しい令嬢。彼女に向かって三枝子は「謙ちやん」に取り次いでくれるように言った……。
【てる】子先生は分をわきまえない人間の行動に対して非常に残酷な報復を用意する傾向がある。これはその中でも悲惨度ナンバーワン。「謙ちゃん」に対してマジギレした三枝子さんの罵倒の言葉は、痛々し過ぎて読んでいるのがつらくなる。「みゝずの恋」というタイトルも読了後に見ると実に切ない。
十年前、深夜の礼拝からの帰り道で何者かに襲われて殺害された美しき娘浦上テレザ。彼女の死体は礼拝堂近くの香部屋の床下に隠されており、容疑者として逮捕された神父は立派な人格者として皆に慕われている人物だった。神父に対し死刑が執行された後も、教会に集う婦人達は誰一人神父の犯行であるとは信じない。彼女達は教会で働く杉野青年を疑っていた。手のつけられない不良で、神父の目を盗んでは教会の品物を盗み出していた彼。テレザ殺しの件で取調をうけて以来、人が変わったように善良になったが、婦人達の疑いの目はずっと彼に向けられたままだ。そんな杉野に、教会役員で面倒見の良い郷田だけは親切な様子を見せる。そしてクリスマスの夜、郷田は杉野を食事に誘った。初めて差し向かいで話をする二人、話題は十年前のテレザ殺害事件へと移った……。
過去の悪行ゆえに誰にも信用されない青年、真犯人の懺悔を聞きながら職務を全うする為に黙して死刑台に上った神父、犯人の手がかりを掴もうと娘と同じように深夜の礼拝を続ける母親、信仰も野次馬めいた好奇心もごちゃ混ぜにして恥じる事のない婦人達、美しく信心深い娘に惹かれ運命を狂わせてしまった男達……誰が罪を犯し、その罪を裁くのは果たして誰か。後に書かれた「永遠の罪人」と同テーマを扱いながら、表裏の関係にある作品といえるだろう。
金持ちばかりが狙われ既に六人の被害者を出した「謎の殺人」。死因は窒息死で死体は必ず目抜きの場所に放置されている。会社重役秋本は、新聞で友人佃の災難を知って驚いた。佃は頭部を殴打され昏倒しているところを発見され病院に運ばれたと報じられていた。見舞いに行った秋本に、佃は自分が遭遇した奇妙な事件の顛末を語る。……したたか酔い帰宅の途についた佃の目の前に一台の車が止まった。彼を迎えに来たというその車に、佃は酔った勢いで人違いであることを告げずに乗り込んだ。着いた所は大邸宅。そこで佃は意外な人物に遭遇した。以前海外で出会ったさる高貴な身分の美しい夫人。ひそかに恋慕の情を抱き、彼女が帰国した時には言いようのない寂しさに襲われた、その彼女が目の前にいる。しかも彼女は、佃がまるで本当に屋敷の主人であるかのように出迎えた。佃は夕食の席でようやく誤解であることを夫人に説明すると、夫人は笑って翌朝まで「殿下」になりすますことを佃に勧める。過去の情熱を思い出した佃はかつての自分の一途な想いを夫人に告白する。感極まり涙を落とす佃をやさしく抱き寄せる夫人。二人はそのまま一夜を共にすることになったのだが……。
甘い追憶に溺れた佃が味わう「幻の殿堂」での一夜。身分違いの恋物語が一瞬にして不気味な殺人活劇へと転回する構成は面白いし、何だか脳天気なエンディングもいい味。
刑事弁護士の尾形を訪ねてきたのはかつて自分を捨てて金持ちの後妻に収まった浪子だった。彼女は赤ん坊殺しの件で相談に来たという。犯人秋田弘は自分の従弟、殺された赤ん坊は自分の娘だった。彼女は弘を何とか殺人の罪から救いたいと尾形を頼って来たのだ。……夫の川島は妾に産ませた子供を引き取った。娘の愛子を自分も初めは実の子供のように可愛がっていたが、そのうち妾は巧く自分の娘を相続人に仕立てて世話の苦労を自分一人に押しつけただけのような気がしてくる。しかも娘を愛撫する夫の様子は妾と瓜二つの娘の顔を眺めて、妾を愛撫しているようだ。従弟の弘だけはそんな自分に同情してくれた。弘は感情が高ぶると意識を喪失し凶暴者になるという「意識喪失症」で精神病と診断されていたが、平素は気弱で優しい性質だった。だが復員後は生活の気力を失い、度々浪子に金の無心をしていた。その日機嫌を損ねていた自分は、無心にやって来た弘に罵倒の言葉を浴びせる。気がつくと弘は激怒して発作を起こし愛子を人形のように締め上げていた……。
発作的に残酷になったり優しくなったりするのは精神病というばかりではない。人間とはそうしたもの……と、物語の真相には深い洞察を感じさせるテーマが見える。弁護士尾形の陽性の印象だけが救い。ただ精神病に関係する記述はかなり偏見的で問題有り。無論時代性を考慮すべき問題なのだが。
古着屋の娘おキンちゃんが銭湯でいつものように身体を洗っていると、隣に見慣れないお嬢さんが腰を下ろした。彼女は町で有名な金持ち、藤村さんのお嬢さんで、家の風呂が壊れてしまい初めて銭湯に来たのだという。面倒見の良いおキンちゃんは姉さん気取りで彼女の身体を洗ってやりながら、親しくして機会があれば家にある上物の着物の一つも買ってもらおうなどと、生意気なことまで考える。暫くしておキンちゃんが湯から上がると、先に上がった筈の彼女が下着姿で泣いている。洋服を盗られたらしいのだが、廻りの人間は皆知らん振り。義侠心に駆られたおキンちゃんは自分が着て来た上等のオーバーコートを羽織らせ、ストッキングを貸してやると、自分はワンピース一枚で藤村さんのお屋敷まで彼女の服を受け取りに駆け出して行った……。
ごく普通の風俗小説。所謂板の間稼ぎにやられたおキンちゃん、という結末だが、本作では特に生活者の悲哀や、人生の皮肉に焦点が当てられているわけではない。徹底的に陽性なおキンちゃんというキャラクタのおかげだろうが、舌打ちを一つしてまた明日から楽しく生きようというような、不思議と後味の良い、ポジティブな読後感が残る短篇である。
若くして名うての闇ブローカー光村は、今夜も金にあかして方々の酒場を転々としていた。貧乏時代は金があればどれ程愉快だろうと思っていたが、今はいくら金を使っても退屈するばかり。何でもいい、魂を震わせるような刺激が欲しい……。ある夜人相見の老人と知り合った光村は、一国の王になる相が浮かんでいる、と告げられ、そのままどこかへ連れて行かれた。実は今夜ある場所で、金持ちの素人達が集まって芝居をするのだという。老人は彼等の家をお忍びで訪れる王様の役をしてくれそうな男を探し歩いていたのだ。森の中の大邸宅に案内された光村を何々伯爵だの某侯爵夫人だのと名のる人々が歓待する。その中に一人、若くて愛くるしい娘がいた。老人が公爵令嬢マーグリット姫だと紹介してくれる。彼に与えられた役柄は、彼女と秘密の逢瀬を重ねる国王だった……。
芝居の経験も何もない素人達がある一夜だけ高貴な身分の人間になりすまし、夢の世界に遊ぶ。【てる】子先生はこれを大人のファンタジーにもかつての隆盛を偲ぶセピア色のノスタルジーにもせず、探偵小説式に料理した。あの不思議な人々は誰なのか、あの屋敷は何処なのか、彼等の本当の目的は何なのか……皮を一枚ずつ剥ぐように夢の世界は慣れ親しんだ酒の匂いと札束の感触に満ち溢れた現実世界へと戻ってゆく。シニカルな結末。だがどことなく夢を断ち切れぬ思いがあるようにも。
仙石原の名物は二人の美女――田舎廻りの奇術師昇天斎天花と「宝石夫人」。当地を訪問中のS探偵は夫人失踪のニュースに遭遇する。飼い犬を置き去りにしたまま、ベッドや床に残る血痕。小男の犬屋と夫人が連れだってゆくのを目撃した者があったが、夫人の行方はそれきりわからなくなっていた。三日後、古井戸から夫人の惨殺死体が上がった。殺害されてから井戸に投げ込まれたもので、夫人の所持していた高価な宝石類は全て盗まれていることが判った。S探偵の脳裏に別の事件が浮かぶ。最近この界隈で頻発する強盗事件――犯人は真っ黒な顔の一寸法師で金品を奪う間一切口をきかないという。土地の刑事と行動を共にしていたS探偵は、山道で正体不明の小男に遭遇した。刑事に誰何された男は逃走し、後を追う二人は一軒の小屋にたどり着く。そこは昇天斎天花一座の小屋掛けだった。小屋から出て来た天花に事情を説明した二人だが、結局謎の男の行方はわからない。S探偵はこの男が件の強盗であり、彼を逮捕すれば事件解決の鍵が見つかると確信して小屋の前で張り込みを続けることにする。そして数日後の深夜、楽屋裏の垣根を乗り越える黒い人影が現れた……。
化け物じみた黒面の一寸法師とサロンの華「宝石夫人」との意外な接点。犯人の動機はある意味期待を裏切って哀切に心に響くものだった。
正体を隠した美しい夫人――彼女は麻薬密売の仲介人だった。今回の取り引きの相手はどこかの金持ちの夫人らしく、百万という大金を一日で支度してくるという。取り引きの場所と時間を打ち合わせ、彼女はもう一箇所の待ち合わせ場所へと向かった。そこには麻薬を用意する役目の男が待っている。しかし男の話では監視の目が厳しく、百万円分の麻薬を今回の取り引きまでに用意するのは難しいらしい。そこで何とか取り引きを成功させるべく、彼女たちは一計を案じた。
取り引き当日、男装して単身約束の場所へ向かい、無事に荷物と現金との受け渡しを終えたその時、彼女たちの前に一人の男が現れた。それが刑事であることを悟った彼女は、一目散にその場を逃げ出す。そして仲間の用意した車に乗り込み、一息ついたのもつかの間……。
悪人同士の食い合い、だまし合いをしたたかに切り抜ける謎の美女。怖れず、悪びれず、落ち込まない。このバイタリティは嘘臭いのを通り越して非常に痛快。僕の描く作家大倉【てる】子のイメージというのは、まさにこれなんですがね。
顔立ちも人柄も清らかで美しく、昼夜ヴァイオリンの練習に余念がない梶原日名子。三十間近ながら結婚話どころか浮いた噂一つない彼女は、私は音楽と結婚したのよ、と言っていた。それ程愛し、打ち込んでいた音楽が、彼女を絶望の淵に突き落とす。楽聖と呼ばれる人物のレッスンを受けた日名子は、大切な魂がない、と氏に言われ、ショックのあまり発熱して肺炎に罹ってしまう。つききりで看病していたピアニストの杉村房枝は、彼女が譫言に文夫さん、と何度も呼びかけるのを聞いた。彼女によれば、それはかつての恋人の名であった。失恋の為に一時は病気にさえなった彼女は、その後全てを忘れて更生する気で音楽に打ち込んできたのだ。しかし音楽にも失恋してしまった、と彼女は淋しく微笑む。肺炎は日一日と快癒に向かっていったが、彼女の傷ついた心は夢と現実の区別を失ってゆく。いる筈のない文夫が目の前に現れ、又すぐに消えてしまう。ある日日名子は消えてゆく文夫に追いすがろうとした。彼女に合わせるように、房枝も又文夫の名を呼んで彼を引き止める。誰もいない空間に手を伸ばした日名子は、バランスを崩して八階のベランダから転落していった……。
天才として将来を嘱望された二人の音楽家が留学先で相次いでこの世を去った。房枝の姉は、帰朝途中で投身自殺を遂げた妹の遺書を読み、二人の死の真相を知る。日名子の死から自らの生命を断つまでの房枝の思考は到底論理の範疇ではない。愛か嫉妬か、運命か罪か。明確な答えは存在せず、ただ自らに死という裁きを下した女がいるだけ。テーマにはかなり惹きつけられ、もっと長くして読みたいと思うのだが、それを半端に短いまま残しておくのも又大倉作品らしくてよし。
科学者北野博士の養女・文江はおば危篤の電報に驚き、直ぐに我孫子のおばの家に駆けつけた。しかしおばは意外にも元気で、文江は不審に思いながらもその日はおばの家に泊まる。その夜、博士の家では大事件が起こっていた。読書する博士の背後に音もなく迫る怪漢……その手に握られた短刀がひらめき、博士は重傷を負わされてしまった。警察が犯人のものと思しき指紋を多数発見し、それは我孫子のおじのものと一致した。おじにはアリバイがなく、博士を亡き者にして文江に財産を継がせ、その後見人たる自分が利益を得ようとしたものと考えられた。しかし彼の一人息子の一雄は父の無実を信じ、真犯人を見つけだすべく、毎日学校がひけるとどこへともなく出かけてゆくのだった……。
おじの指紋を偽造し、彼に嫌疑をかけるという大トリック。死体の腕を切り取って持ち運ぶとか、手袋に指紋を印刷するとか、指紋ハンコを作るなどの類似トリックを大きく引き離し、【てる】子先生が編み出した指紋偽造トリックは、彫刻家の甥っ子がその技術の粋を集めて、おじさんの手を指紋までそっくり彫刻で作った、という途方もないものだった。多分器用さに関してはこのトリックを使った犯人の中でナンバーワンだろう。しかしそんないい腕をしているのなら、売れっ子彫刻家になって遺産目当ての犯行などせんでも良いのではないだろうかと思う。写真小説なのだが、間の抜けた写真が内容と良くマッチしている。
猟奇趣味のある竹村譲次は妻のマユミの貞淑さが逆に退屈で仕方がない。彼は夫婦で静養に行った先で、変わった中年男性と知り合いになった。貸別荘に一人で暮らすその男は杉本針巣といい、歴史上の有名な女性達の毛髪のコレクターだった。彼はその蒐集品を人間を扱うように愛しているばかりでなく、精巧な機械仕掛けの人形に毛髪を移植し、彼女らと暮らしているのだ。譲次は杉本宅を訪問し、カルメンという人形をパートナーにしてもらった。それから段々と譲次はカルメンに思い入れを抱くようになり、杉本の別荘に入り浸ってばかりいる。ある日彼は夜明け近くにカルメンが一人でにベッドから起き上がり出て行ったような気がして眼を覚ました。しかし人形は確かに彼の隣に横たわっている。出て行ったカルメンの横顔が妙に妻に似ていたように思えて、今まで妻をないがしろにしていた後ろめたさに胸騒ぎを覚えた譲次は飛んで帰るが、妻のマユミはいつもと変わらない様子で淋しそうにしているだけだった。すると今度はその横顔にカルメンの面影がかぶって見える。その夜再び杉本宅を訪れた譲次は、今までになく激しくカルメンを抱き締めて眠りに落ちたのだが……。
阿呆な夫にけなげに尽くす妻、二人の運命や如何に? それにしても毛髪・人形フェチの独身中年杉本針巣である。彼のインパクトとマユミ夫人の儚い感じの対比は狙ったものか?
光枝は夫と二人暮らし。若くてそれなりに美しいのに、生活が苦しく着物一枚自由にならない。会社関係の結婚式に出席する為に知り合いから黒紋付を借りたのだが、結婚式から帰ってきたその夜、泥棒に入られて着物を盗まれてしまった。着物の持ち主とは現金で弁償する事で話がまとまったが、その金額は光枝にはどうしようもない大金である。夫に話しても、高利貸しのようにふっかけるとか、相手の対応に文句を言うばかり。困り果てた光枝は兄に相談し、知り合いの高利貸し綱島から現金を借りることになった。毎月の返済に生活を圧迫され、光枝はみるみるやつれていった。それこそ着の身着のまま、夫がいない時は食事さえ控える始末。夫は光枝の顔色の悪さを心配するが、結局は病気をすると金がかかる、というただそれだけ。毎月四日に利息の取り立てにやって来る綱島の妻が鬼にさえ見えてくる。そして一年目、とうとう利息が払えなくなり綱島の妻に泣きついた光枝に、彼女は、若くて綺麗な女が金に不自由するなんて、と笑う。はじめ彼女の言葉の真意が読みとれずぼんやりしていた光枝だが、ようやくその言葉の意味を悟るのだった……。
人妻転落物語。しかも最後にもう一捻り。女性心理等の描き方はある意味シチュエーションの“型通り”でしかないが、その“型通り”が【てる】子先生は巧い。しかも最後の幕切れは強烈なインパクト。【てる】子先生侮り難し。
陥落間近のベルリンに取り残された外国人の金持ち達を相手に海外脱出を請け負うドクター、ジャン・ルーベル。空襲で焼け出され、彼の許に転がり込んだ美人バレリーナのジュリーは彼の為に知り合いの許を渡り歩き、客を連れて来る役目を引き受けた。ドクターはある薬品によって人間を仮死状態にし、一旦埋葬して置いて死体を密かに掘り出し、そのまま潜水艦で海外へ脱出させるという方法でナチスの厳しい検問をくぐり抜けるという。幾人もの客をドクターに紹介するうち、ジュリーは彼の善良さが仮面に過ぎない事に気付いた。金持ちの老人からはありったけの財産を取り上げ、美しい娘は注射のついでに散々嬲りものにする。そんなドクターの本性を知ってしまったジュリーだが、彼が婦人を弄ぶさまを覗き見ながら、自分も知らず知らずサディスティックな悦びに目覚めてゆくのだった。そして遂に自分が脱出する日が来た。ドクター本人の手で潜水艦まで運んでくれるように念を押し、彼女は薬品を嚥下する……。
橘外男ばり、と評された本作。確かに死体置き場で目覚めたジュリーが立ち上がる拍子に腐乱死体の内臓に腕を突っ込んでしまうなどの描写をこれ程ノリノリで書けるとは【てる】子先生、やはり並の女流作家ではない。病院で目覚めたジュリーが新たなる生の始まりを喜び、いきなりバレエを踊り始める感動のエンディングは違和感充分で実に楽しい。
二十年前、私は築地新開地に出来た女学館の寄宿舎に入っていた。思春期の欲求不満に苦しむ当時の私は同級の戸上エウ子と取り返しのつかない関係になった。その後彼女はある男と関係して妊娠、やむなく休学して子供を産む為に女学館から姿を隠す。私は関心を同室の小里チヨに移し、遂に彼女とは音信が途絶えてしまった。その後学内にエウ子の妊娠、出産の噂が流れる。赤ん坊を抱いた彼女が川べりを歩いているのを見た、というような話まで。嵐の夜、私は窓の向こうに立つ人影を見た。変わり果てた姿だが間違いなくエウ子である。数日後、涸れ井戸から腐乱した彼女の死体が引き上げられた。私はショックで学業を捨て、築地へは足を踏み入れまいと誓った……。その私が会合に招かれて築地の料亭にやって来た。そこで始まったのが美しい雛妓による怪談話。私の産まれたのはあの古井戸、と雛妓は庭の一角を示す……。
ホラーとしてのオリジナリティはまるでないが、エロ味と怪奇味横溢、結構ノリノリで筆を執ったご様子。しかし「私」の体験談と雛妓の語る話とがまるっきりバラバラで共鳴し合わないまま無理矢理なラストを迎えてしまうのはいかがなものか。構成のいい加減さで物語のいい所を自らぶち壊しにしてしまうのは【てる】子先生最大の特徴。とはいえ鐘の音を小道具に使ったラストシーンだけはちょっと考えたな、という気が。
出家した「私」は剃髪の儀式の最中、この世の者とは思われぬ美しい女人の姿を目撃する。それは一瞬の幻か……。その後興福寺に赴任した自分は快癒の為の読経を頼みたいという姫君と出会う。それはあの時見た幻の女人その人だった……。それから毎夜、姫と二人の幸福な時が過ぎる。その内に姫の病が重くなり始めた。ある時自分が誤って指先を傷つけると、姫は突然その指に吸い付いた。そして、この血だけが自分を生き永らえさせてくれる、と泣くのだった。自分は姫の為なら血を全て抜かれても良い、と姫をかき抱く……。師父の上人から死霊に憑かれたと言い渡された自分は姫との関係を洗いざらい告白する。上人は言う。その昔僧に懸想し思い叶わずに死んだ美しい姫君が居た。その名は夕霧姫。彼女の怨霊が若い僧を誘惑してとり殺してしまうのだ。二人は姫の屋敷の跡へ向かった。その屋敷跡、朽ち果てた御殿の一室に浮かび上がる女人の姿――姿は朧にして、唇だけが血を塗ったように鮮やかなその女人は、まさに夕霧姫――!
という超類型的悲恋怪談物語。姫が最後に僧侶の夢に現れて「私と会っていたのが、あなたにとって本当の幸福だったのに」と言って永遠に消えてしまい、彼も本当に幸せな日々は二度と来なかった、と納得するという間抜けな結末。この訓話臭さを一挙に消臭するラストシーンは個人的にはとても好きだが。
通訳官の藤嶋は公金横領の罪を犯して投獄された。彼を世話する北澤書記官夫人の多美子は彼に幾分同情的である。彼は母の病気を治す為にどうしても金が欲しかったのだ。ある日大宴会が催されることを知った藤嶋は、そのどさくさに脱獄することを思い立ち、涙ながらに多美子をかき口説いて牢の鍵を開けてもらった。が、不運なことに逃亡して間もなく再捕縛されてしまった……。それから十数年後、憂鬱症で半病人のような暮らしをしていた多美子が、久しぶりに見せる朗らかな笑顔。夫はその時初めて彼女が病気になった理由を聞かされる。彼女が見せたのは十通の手紙と、素晴らしい一粒のダイヤ。ダイヤは藤嶋が脱獄の礼に置いていったもので、手紙のは全てこの十年の間に藤嶋から多美子に宛てて出されたものだった。……私の呪いの眼は絶えず注がれている。貴女の破獄補助を夫が知ったらきっとただでは済むまい……藤嶋は多美子の密告のせいで捕まったと誤解して脅迫状を送り続けていたのだ。が、当の藤嶋は既に死亡している筈だった……。
毎年同じ日の消印で届く呪いの手紙。藤嶋の狂気の理屈はなかなか面白く読ませる。多美子は如何にしてこの災難を振り払ったか? 残念ながらプロットが破綻しており死んだ藤嶋からの手紙、という一番大事な設定が明確でないのが致命的。何が「ふしぎ」なのかよくわからない思い出話になってる。
アパートの共同電話が鳴り、ダンサーの銀子が受話器を取ると、それは松村伯爵邸から、松村家の令嬢・由美子に宛てた仮面舞踏会への招待の電話だった。生憎気管支炎で臥せっていた由美子に代わって返事をした銀子は欲を出し、彼女に化けてパーティーに潜り込む。そこで彼女は伯爵夫人のベッドの下から這い出した一本の腕と、カーテンの蔭から除く仮面の男を目撃する。それからしばらくして、病床の伯爵夫人・小夜子が青酸中毒で死亡しているのが発見された。白内障を病み、夫人の目が見えないのを利用して、何者かが薬に青酸を混入したようだ。疑いは夫人と仲違いをしていた実の娘・由美子にかかる……。
事件によって最も利益を得る者が犯人、という鉄則を地で行く、極めて単純なストーリー。伯爵家を飛び出しダンサーになってしまった由美子、彼女にちょっとしたコンプレックスを抱き、仮面を利用して由美子に化ける銀子、銀子の年の離れた恋人・隆、伯爵夫人・小夜子の再婚相手である現在の松村伯爵、皆少しずつ存在感をアピールしてくれるのだが、いかんせん、つきつめて描写する気が作者の方にないのであった。人物が生きていない探偵小説、というのは世の中に溢れているが、【てる】子先生のは、人物が生きようとしているのに、それが物語に活きない小説である。
それから「戦争前の出来事で、(中略)世間には発表せられなかった事件である」という結びだが、キャバレー勤めのダンサーが店の帰りにカストリをあおる、などというシチュエーションを見ると、どうも時代設定と外れているような気がしてならず、この辺のインチキ臭さも大倉節。
本庄の妻の安子は霊能者。異常にカンが鋭く、霊媒になる為の修行を積んでいる。安子の書いた日記をのぞき見た本庄は、それが彼の行動と心理を彼自身が克明に綴った体裁の日記であることを知って恐れを抱く。彼は安子に掌の上で弄ばれているような今の状況が耐えきれず、彼女に別れ話を切り出すが、いつも安子にあしらわれてばかりいるのだった。浮気相手の桃子に呼び出された本庄は、彼女が安子に呼び出され、本庄と別れるよう説得されたことを聞かされる。桃子は何でもお見通しの安子のことを恐怖しており、本庄とのつき合いを続けることにさえ拒否反応を示すのだった。そこで遂に覚悟を決めた本庄は、安子と離婚の話をつけるべく帰宅した。玄関のベルを押す前にドアを開けて迎えに出る安子、こちらが口に出さないうちからこちらの腹の中を全てお見通しで話をする安子……彼女のカンの鋭さのお陰で人一倍早く出世した彼に、安子は彼の身体も心もすべてを私に頂きたい、それが希望、とうそぶく。たとえ逃げたとしても、私の霊が肉体を離れて、どこまでだってついて行く、と。そして安子は本庄の胸を指さして言った。「ほら、あなたの心の中に、私の霊が入つて行く――」
理不尽ホラー。【てる】子作品内でのカテゴライズでいうと、心霊修行ものの変形ですな。ねばっこい愛情が気持ち悪くて気持ちいい。
ダンスに通う千美子は十六歳。背が高く、目が大きく、体つきはまだ子供だが、もう少しすれば男が放ってはおかないだろう。教師の日下部はアプローチをかけてくる男どもから彼女を守ってやっていた。暫くして、千美子が練習に来なくなった。心配する日下部だが連絡先も知らないのでどうしようもない。そのうち日下部は同僚の女教師ふみ子と同棲し、かりそめの新婚生活を営むことになった。彼女は毎日豪華な食事を用意してくれる。だが日下部一人の稼ぎではそんなに毎日贅沢が出来る訳もなく、足りない分はふみ子の着物を売っての生活。だんだん売るものはなくなり、不景気でダンスホールは閉鎖に追い込まれ……。世渡りの下手な日下部はふみ子から軽く扱われるようになり、彼女は教室で知り合った金持ち客から金をせびってくるよう彼を叱咤する。結局男妾にはなれず、仕事が見つかるでもない、何とか友人から着物を借りて金を作った日下部は、自棄になってカストリをあおる。そこへ客引きの娘が声をかけてきた。どうせ帰りの電車もなく泊まるあてもない日下部は、彼女について行く……。
戦後の【てる】子先生はこういう風俗小説を良く書く。この作品、ふみ子の強引なキャラクタとか、かなり面白い。しかし普通ここからストーリーが展開して盛り上がっていくだろう、というところで何故か完結してしまう。誌面の都合かも知れないがやや物足りない。
富豪一井家の家督を継いだ長女の夏江が、結婚披露の園遊会の当日、風呂場でマムシに咬まれて死んだ。残された次女の秋江は、一井家の血筋を守る為に家督を継いで、姉の夫・氏正の再婚相手となる事を勧められる。氏正が嫌いなわけではない。しかし姉が死んだ今、秋江は氏正と結婚する気など全くない。だが結局周囲に押し切られ、二人の結婚話は進む。憂鬱な気持ちのまま、秋江は姉の為に作られた新居に寝起きし、毎朝近所の寺まで墓参する習慣にしていた。家のあるN河原はマムシが多いので有名な土地である。その日、墓参の帰り道で秋江は蛇取りの格好をしている一人の婦人に出逢った。彼女は秋江の良く行く美容院の美容師・小森きよ子。意外な所で意外な格好をした小森に出逢って驚く秋江に、小森は自分の特技が蛇取りである事、この河原に秋江が住むと聞いたので、近辺のまむしを取り尽くすつもりである事を告げた。そして彼女の思いやりに感謝する秋江に、小森は驚愕の事実を告げる……。
姉の夫の再婚相手に選ばれ懊悩する妹、不義の子を不憫に思う親心がもたらす悲劇、とこのあたりは大倉お得意のパターンが炸裂。しかしお約束通りとはいえ、本作品では美人姉妹の秘密に少しだがツイストが効いていて、なかなかイケる。タイトルは扇情的だが、冒頭の事件で風呂場が死に場所になっているというだけ。特にエロがかった物語ではなく、普段通りの大倉節である。
その夜バーで見かけた女は、かつて上海で知り合い、翌日には死体となっていた謎の美女にそっくりだった――。驚きを隠せない「私」と友人Aに向かって、女は自分がまさにあの時の女であること、そして現在、気味の悪い男につけられて困っていることを話す。「私」は付き添いを買って出て女と一緒に車に乗った。車は夜の町を走り過ぎながら、別の一台とすれ違う。すると突然双方の車はスピードをゆるめ、ライトを消した。女が窓をあけ、すみれの花束を向こうの車に投げ入れる。すると向こうの窓から一本の白い腕が伸び、女の手に何かを握らせるのだった。女は不審がる「私」に口止めをし、今の腕の持ち主は……と秘密結社に片腕を切り取られた婦人の数奇なエピソードを語る。女の正体が気になった「私」は別れるとすぐに円タクを拾い、わざと女の車とすれ違う時にスピードを落としてライトを消させる。すると女は同じようにすみれの花束をこちらの車に投げ入れて、その場を去っていった。
深夜の都会を自動車で走る謎の女の行動の意味とは? 新聞記者である「私」の好奇心を刺激したこの事件の真相とは? 甦る死者、片腕の美人、花束、秘密結社、と大倉作品ではお馴染みの素材が満載。しかし今回、それらは何のつながりもないまま羅列されているだけだ。どれか一つの材料を中心にストーリーを膨らませるなんてのは普通の作家の普通の小説作法。大倉【てる】子はそんなこと、考えもしないのだな。
(2004.12.8)
ある田舎町で若い娘が惨殺される事件が起こった。容疑者は町の人々の尊敬を一身に集めていた神父。人々は失望し、神父糾弾の声が上がる。そこに一人の男が神父の無実を主張して立ち上がった。彼は最近その土地に移り住んで来た人間で、町に多額の寄付をして一躍人気者になった農園主だった。しかし彼や他の支援者の尽力も叶わず、神父の死刑が執行されたとのニュースが新聞に載る。「私」の家の近所に住む熱心な信者のミス・オリーブがその新聞記事を持って来て嘆いているところへ、やはり近所の教会の神父が訪ねて来た。彼は例の事件の神父が無実であった事を新聞で知り、それを知らせる為にやって来たのだと語った……。
「声なき迫害」を、信仰とは何かを中心テーマに別の側から描いたストーリー。容疑者として逮捕され、死刑が執行されたにも関わらず神父の無罪が判ったというのはどういう事か……と書くと、何とも探偵小説的だが、特にそういう話ではない。真犯人は良心の咎めによって永久の罰を受け、彼の罪を被って死ぬ神父は死してなお彼の為に祈り続ける、というモチーフは結構うまく出来ていて、【てる】子先生本物のクリスチャンだったのか? という気もしてくる。他にもいくつか教会を舞台にした作品もあるし。ただ同時にインドの殺人教団やら霊能集団の話も書いているわけだから、それが証拠とは言えないのだが。
南太平洋スンダ列島の拠点基地・スラジヤンに派遣された女子部隊の一人、寺田ミユキ。南の楽園での彼女の快適な生活は七月十五日の大空襲をもって破られた。駐留していた日本軍は彼女達を置いて撤退、アメリカ軍は既に南洋を制圧し、沖縄へ向かって進軍中であった。いずれここが占領されるのも時間の問題と焦ったミユキは、物資回収の任務を帯びて上陸して来た日本軍の潜水艦に密航して脱出を試みる。倉庫の中で知り合いの宗方主計大尉に見つかってしまったミユキだが、彼は非常に理性的で、彼女を匿い脱出に協力する。髪を切り落とし、軍服に身を包んで何喰わぬ顔で艦内に隠れるミユキ。しかし潜水艦は敵国の哨戒機に発見され、烈しい爆撃を受ける。からくも攻撃を逃れて後、安堵する彼女の目の前に現れたのは鬼艦長の異名を持つ鬼頭大佐。一目で密航者である事を見抜かれ、女である事を知られたミユキに、情欲に満ちた兵士達の視線が突き刺さる――!
「愛慾海底戦記」という意味不明な角書きが実に低俗でよろしい。しかし期待に反して扇情的な場面にならないストーリー。男装の女、密室と化す潜水艦、敗戦ムードに自棄気味の荒くれ男と、見事なトライアングルを形成しながら、何と結末では崇高なる軍人の魂を描いた人情物に変貌している。看板に偽りありとはこの事だ! いや怒っても仕方ないのだが。大倉名義ながら寺田ミユキさん(二四歳)の実話投稿に基づいたノベライズであると注意書きがあるが、これがまた嘘っぽくて。おまけに一読した印象に過ぎないが、どうも大倉の文章らしくないのは何故だろう。ともあれ大倉作品評価の新たな側面を照らし出す貴重な異色作である。
心霊術に凝ったことがあるという婦人が語る衝撃のエピソード。社会学者重森教授が四十の若さで突如脳溢血の為亡くなった。同じ大学の医学部教授であった夫の柏木は彼の親友で、ずっと彼の死を悲しんでいる。しかし重森の死を嘆くのは自分も同じ、実は重森は自分の初恋の人だった。家庭の事情で彼との結婚は叶わず柏木と結婚することに同意したのだが、重森への恋心は誰にも話さないまま現在まで心の奥底にくすぶり続けていたのだ。ある日帰宅した夫が、深田恭一郎という心霊学者のことを聞いてきた。夫は死んだ重森と心霊術で話が出来るかもしれないと本気で思っているらしい。自分も重森への思いが断ちがたく、しかも面会した深田氏は実に堂々たる人物に見えたので思い切って直接霊に会う為の修行を申し出た。そして過酷な修行の日々……かなりの荒行に自分は次第に重森を失った悲しみさえ忘れるような気がして、修行に熱が入る。そしてついに自分は、重森の最期の瞬間を霊の力を借りて目撃することが出来たのである……!
過去の事件現場を霊体験によって目撃してしまうという驚嘆の物語。しかも事件の真相を突き止めた驚異の心霊術が実際は単なる深層心理のいたずらでしかなかった事が明らかになる結末にはもっと驚愕。心霊術を学んだことのある小説家という【てる】子先生のとんでもないキャリアが唸る。是非とも読んで驚け。
田鶴子と久枝は二人とも戦争未亡人。幸い家屋敷は無事で財産もあり生活には困らないが、言い様のない憂鬱に囚われている。二人とも、死んだ夫に操を立てて未亡人として生き続ける事に嫌気がさしているのだ。親類や世間は彼女達にそうした「貞淑」を押しつけようとする。しかし学校を出てすぐ結婚し、あっという間に未亡人になった彼女達を死んだ夫に縛りつけたままにしようとするのは果たして正当な要求なのだろうか? まだ若い二人の不満は募るばかりである。男性と知り合いたい、だが再婚は面倒、と愚痴る久枝を田鶴子はある秘密クラブに誘った……。
「問題小説」という角書の本作だが、何が問題といって内容に問題意識が全然無いところが一番の問題。遊ぶ側の有閑未亡人からすれば秘密厳守・プライバシー厳守の実に理想的なクラブが存在し、そこでストレスを解消した二人はヒステリーも起こさなくなって、といい事ずくめの結末。普通の人がこういう物語を書くと、大抵は夢の破綻→現実回帰という形に回収されて自然とバランスがとれてしまいがちなものだが、この大倉版「パノラマ島」は無責任で根拠のない存在感を示して一向に覚めない夢。金持ちの主人公が「私、一層貧乏人だつたらいいと思ふ。生活の心配がないなんて、生温つこい話よ。」などと読者の神経を逆撫でして絶対に共感出来なくするような台詞を平然と言うのも奮っている。小説レベルは相当低い上に変なところに俗臭が残っていたりもするので異論を唱える人も多かろうが、空想エネルギー迸る大倉節炸裂の逸品。(2003.6.17)
東京丸ノ内の一角で、麻薬と宝石の密売の最中、売人に変装した謎の怪盗が宝石を奪い、密売グループと警察の両方のマークを振り切って逃げるという大事件が起こる。ニュースが新聞を賑わす頃、当の怪盗は紳士に化けて東京発の特急列車に乗り込み、大阪方面へ高飛びを決め込んでいた。乗っているのは金持ちばかり。そこで怪盗は一人の女に眼を付けた。胸元に見事なダイヤの首飾りをつけた大変な美女である。早速新聞記事をネタに話しかけると、怪盗の腕前に女は惚れ惚れして感嘆の声さえ上げている。気分良く話をしているうちに、女は胸を押さえて苦しみ始めた。胃痙攣の持病があり、京都の親戚の所へ行く途中なのだが、一人では不安だという。ここぞとばかり同行を申し出て京都で降りると、女は食事でも、と誘ってくる。ならばと勝手知ったる連れ込み料亭にしけ込んだ怪盗。どうも女は相当の良家のお嬢様らしい、結婚指輪もしていないところを見るとまだ処女か……妄想を抱きつつ酒を酌み交わし、いよいよとばかり怪盗は女に挑みかかった……。
読みどころは怪盗の鼻の下の伸ばし具合と、正体をあらわした女盗賊「レデーお仙」の決め台詞。怪盗から横取りした宝石類を「警察の鼻を明かしたと喜んでいる彼へ、彼等の力を示してやろうという義侠心」から、彼女が警察に届けてしまうというラストはちょっと奇妙な感覚なので一応特筆。
私立探偵事務所を訪れた客は松岡旧伯爵の世嗣一雄の夫人だった。彼女の夫が一週間前から失踪したので、その行方を捜して連れ戻して欲しいというのが依頼だった。彼の父、松岡旧伯爵は現在予断を許さない状態で一雄の弟の薫が看病している。この大事な時に見舞いに現れない一雄に対して親類からも相続人失格の声があがっており、このままでは本当に松岡家から追い出されてしまうと、夫人は非常に心配しているのだ。人当たりが良い薫と違って、一雄はひどく無愛想で神経質で親類の評判が悪い。昔は快活だったが、シベリアから戻ってからは誰にも心を許さなくなってしまったのだ。夫人は、夫は殺されたに違いないと嘆き、「私」に事情を説明する。一雄は収容所にいた時、強制されてスパイ行為を働くことを誓わされていた。そして帰国してからも、ソ連のスパイが自分にいつ接触してくるか気が気でなく、常に怯えていたのだ。どうやらそのスパイが一雄を誘拐したらしい。きっと自分や薫にスパイのことを話したことがばれて殺されたに違いない、夫人はそう語るのだった。「私」は夫人の話を聞く内、一雄失踪の真の意味に気づいて見事犯人を指摘する。スパイの影に怯える彼を誰が、何のために……。
登場人物が少ないので犯人バレバレ、動機見え見えなのだが、部分的な描写や記述はなかなか読ませる。典型的【てる】子流探偵小説。
「― 少女時代の夢のような哀歓が、ほのぼのと胸をうって、やがてそれは柔らかく人の心を包もうとする ―」(『わたしは愛する』目次に附された作品紹介文)
町子は夫の長患いで財産を使い果たし、彼が死んだ時には僅かな預金が残っているばかりだった。孤独になり、これからの生活を不安に思った町子は必死に収入の道を考える。そんな時、ある宗教書の取引の権利を売っても良いという話を持って来た人がいた。一生食いはぐれはない、というので町子は飛びついたが、始めてみれば、本部から卸すのは現金払いで、小売店にはかけ売り。なけなしの貯金をはたいて権利を買い取った町子には本を仕入れる金がない。仕方なく方々に借金をしてまわったが、ある月の支払の時にとうとう千円足りなくなってしまった。もう借金を頼める所もなく、困り果てて世話になった三味線のお師匠さんのところに頼みに行くと、来月初めに定期預金の書き替えがあるから、その金を貸してくれるという。人は言い逃れの口約束だと言ったが、その間の十数日を、町子は祈るような気持ちで待った。その日は朝から土砂降りの雨。諦め加減で昼食をとっていた町子の所に、お師匠さんはずぶ濡れになりながら、約束通りやって来た……。
結局お師匠さんに借りた金を期日になっても返済出来ず、夫の形見の指輪を売って返済に充てる町子。そんな町子を叱りも軽蔑もせず、ただ素直に信頼だけを口にするお師匠さん。誰がどう見たってとってつけた御都合主義なのだが、苦の世界にかすかな希望を見出したような気持ちになってもらい泣きしている自分は大倉【てる】子中毒患者なのか。ちなみに宗教書の卸の仕事で首が回らなくなった、というエピソードは何となく実話の匂いがするので調査してみたいと思う。
麻薬常用で精神病院に入院した前歴のある友人の作家板谷がまた麻薬を使い始めたという。細君に説得を頼まれ、「私」は彼の家を訪れた。板谷によれば妻は息抜きの為に自分を入院させただけだという。着物を売り払って入院費を捻出した彼女の愛情を無視した板谷の言い分に腹を立てる「私」に、板谷は麻薬を再び始めた理由を話す。入院中に知り合った女性に彼は恋をした。彼女に会う為に、彼はわざと麻薬を常用して入院するのだという。板谷が知っているのは彼女の声だけ。二人は病室の壁を挟んで夜通し話をしただけの関係だった。彼女の名は嵯峨野深雪。二人は深夜になると色々な事を話しあった。深雪の人となりが気になる板谷は看護婦に聞いてみるが、看護婦は急に嘲笑するような目つきをしたかと思うと、病室を出ていってしまう。ある夜、深雪に対する恋愛感情が激しく高まった板谷は彼女への愛を熱く語る。すると深雪は、実は初夜の晩に自分は夫を殺してしまったのだ、と告白を始めるのだった……。
小説家板谷の語るこのエピソードの結末は? 色々なパターンが思いつくが、着地点はかなり標準的。精神病院での声だけの恋愛という設定も奇抜で良いが、板谷の妻が麻薬の事を板谷の「恋人」と呼び、入院費の心配をする「私」に向かって「何とかします。恋人に負けるの、口惜しいから」とけなげに言い放つこの科白が一番の読みどころ。
丘の麓の廃屋「黒い家」で発見された惨死体は宿河原の長吉の弟分、金次だった。彼の懐には長吉宛ての手紙が入っていたが、現場の指紋から、長吉が金次を殺害して自分が殺されたように見せかけて逃走したものと断定された。しかし不思議な事実が発覚する。殺人事件が起こったその時間、長吉が犯人と思われる二つの強盗事件が全く別々の場所で起こっていたのだ。そして洗足池から長吉の死体が上がる。早川という目撃者が名乗り出て、麻薬と賭博の集会所だった「黒い家」で金次を刺した長吉は自分も深手を負い、洗足池までやって来て池に転落したということで、うやむやのうちに事件は解決となった。しかし同時強盗事件の謎が解けない捜査主任は一人捜査を続ける。長吉の死で利益を得るのは従姉妹の松野辻子。守銭奴で有名で、長吉の母の勝が死ねば遺産は全て彼女のものになる。他にも目撃者の早川も、外国生活が長く日本人離れした性格の勝も、名うてのプレイボーイで株屋の水野も、辻子の友人でこれも名うてのプレイガール上杉子爵夫人も、皆胡散臭い人物ばかり。果たして長吉の死は事故なのか? だとしても、長吉はどうやって三つの犯行を同時に起こしたのか?
見事な「探偵小説」。ただ解決部分を犯人の独白だけで済まし、まるで盛り上げないで、あらすじみたいにまとめて終わるのはいつもの癖か。設定や描写の面での見所も多い。
飲み屋「江戸ッ子」の常連客の話題は、くらやみ坂の女シャイロック殺害事件。高利貸しの婆さんが何者かに殺されたのだが、犯人の目星が全くついていないのだ。「江戸ッ子」常連の一人、探偵の田宮が同じく常連の早川ドクターの許を訪れ、急患を見てもらいたいという。その患者が殺された婆さんの妹なのだ。何故田宮はわざわざ早川ドクターを指名して来たのか? 実は彼は警察を抜け駆けしようと婆さんが飼っていた九官鳥を見せてもらいに行って、丁度病人騒ぎにぶつかってしまったのだ。その九官鳥は婆さんの声色の間に別の人間の声で「エエ、コン畜生ッ」と喋るのだ。しかも婆さんの妹の方は熱に浮かされて婆さんの声色で譫言を言うので、他人に聞かれないよう、ドクターの手で熱を冷ましてやって欲しい、というのが田宮の言い分だった。患者を診察したドクターは患者の病気が唯の感冒で、患者の譫言が芝居であることにすぐに気づいた。帰りの汽車の中、田宮はドクターに、婆さんの妹に芝居をさせた影の人物が書いた筋書きを入手したといい、その筋書きを読み聞かせ始めた……。
犯罪者を犯罪者らしく裁くのではなく、犯罪者が罪を悔いて自首する手助けをする為に探偵をしているという素人探偵、田宮長次の推理が冴える。だがその正義感が犯人を自白に追い込む為のインチキ極まりないトリックに落ち着いてはいかんだろう。