香港返還交渉に見るイギリス外交

 昨年の6月30日にイギリスの植民地だった香港が中国に返還されたという歴史的なイベントが記憶に新しい。その香港返還を巡るイギリス政府の対応は「失敗」と非難する声もあれば、「栄光のある撤退」と肯定的な意見を見せる人も少なくない。本稿の目的は英中両国の香港返還交渉過程をもう一度振り返り、自分の意見を提供しながら、イギリス政府の対応を再評価したいと考えている。

 一般にいわゆる香港返還交渉の始まりを1982年9月のサッチャー訪中とする説が多いが、手元の資料で見る限り、実際の交渉・接触はこれよりも早い時期でも行われただと思われる。一般に知られるように、イギリスは1842に締結された南京条約によって、香港島を正式に領有した。更に1860年の北京条約によって、現在の九龍半島の先端部分をも領有することになった。残りの部分、いわゆる「新界」と呼ばれる地域は1898年6月に租借地としてイギリスの管理下に入り、その期限は1997年6月30日までとされた。香港の将来を巡って、中国との交渉がどのようにかついつに行われるかはこの新界の租借期限、つまり香港全体の92%をしめる領土の帰趨によって自ずと規定されたのである。

 1949年に成立した共産中国は初期の文献で見る限り、理由ははっきりしないが(個人的には共産中国の成立をいち早く承認してくれたイギリスに恩義を感じたとともに、建国後間もなく行われた共産党内部の主導権争いなどが香港問題を棚上げにしたのではないかと考えている)、少なくとも1982年までの間、香港の回収工作は消極的に見えた。当時の中国の公式的な立場は「香港の割譲を決めた条約は不平等条約であり、その効力は一切認めない。香港は一貫して中国の領土の一部である」としていたが、その具体策はつい最近まで明らかにしなかった。香港の回収期限に関する北京の考え方が初めて明確な形で現れたのは、1971年に周恩来が東南アジア担当高等弁務官のマクコム・マクドナルドに対して行われた発言でした。周恩来は「中国は新界の租借期限切れ以前に香港を回収しようと考えていない」と発言したとともに、「新界を抜きにして香港島と九龍半島だけでは生き残れないはず」だと釘をも差したのである。

 中国のこうした消極的な態度に対し、イギリス政府もこれに合わせるように香港問題はそれほどの重要性を持たなかったように見えた。しかしながら、長期的には植民地としての香港が今後も長く続くというのは好ましくないという認識もあったみたい。香港問題の解決を先に提案してきたのは、イギリス政府でした。初めて中国と香港問題を交渉しようと試みた理由は、当時の香港での個人向けの土地貸し出しの期限は通常15年(香港の土地はすべて英国女王の土地であり、その土地を民間に貸すという形で土地取引が行われた)だったので、1997年まで残り15年のとなる1982年か83年までに香港問題を解決しなければ、将来の見通しがなくなり、商売の信頼感も急速に失われるのが目に見えていたからでした。このような背景で当時の香港総督マクリホースは解決策を模索ために1979年3月に北京を訪問したのである。しかしながら、登小平はマクリホースの意図をよく理解しない(あるいは意図的に無視した)まま、「香港の投資家は安心していい」という曖昧な保証を繰り返しただけで、本気で香港問題を解決しようという意識はなかったように見えた。その理由は個人的に同年の元旦に発表された「台湾同胞に告ぐ書」ではないかと考えている。当時の台湾は1978年の米中関係正常化を始め、米台相互防衛条約の廃止、在台米国大使館の閉鎖など外交的な失敗が重ねたため、共産中国は台湾を対話に引き込む好機だと考え、盛んに対台湾工作が行われたのである。そのため、ちっぽけな香港を巡るイギリスの提案にそれほど乗り気はなかったのであろう。しかしながら、こうした中国の冷めた対応も2年に渡る台湾工作の失敗で、香港問題を台湾問題とリンクするという政策転換で再認識し、1981年の終わり頃から急速に関心が高まったのである。この頃からは登小平はよく公の場で「主権は中国に譲り渡さなればならないが、香港は自由港と国際的な投資センターという地位は維持する」と具体的に香港の将来を明確な形で保障するようになったのである。

 香港交渉過程に見るサッチャー首相の姿勢は弱気と評する論者は数多くいるが、自分はむしろ逆で、フォ−クランド紛争の勝利で意気揚々としたサッチャーは戦闘的で非妥協的な態度で交渉に臨んだと見る方が妥当と考えている。実際に手元の資料で見る限り、サッチャーは新界の中国返還はやむを得ないとしながらも、香港島と九龍半島は独立あるいは国連信託統治下に置かれる案を考えたとされている。そのため、中国側が快く思わなかった不平等条約を盾に交渉を進めるサッチャーにいい印象があろうはずがなかった。更に、サッチャーはイギリスの法律が香港の繁栄をもたらしたことを強調していたようだが、中国のように人治の国では理解されないのが明白で、期待されたほどの効果がなかった。こうして、サッチャー訪中は一般に思われたように交渉を始めたのではなく、むしろ誤ったアプローチで中国側の態度を硬化させ、交渉プロセスを一時的に中断させてしまったのである。しかしながら、後に見られるような結果は短絡にイギリス外交の失敗と考えるのは不適当な評価である。実際、イギリス政府は圧倒的に不利な立場にあり、交渉カードにも限りがあった。香港の発電所、貯水池等生活に欠かせない施設は返還される新界にあり、更に中国の圧倒的な軍事力には対抗できないと言うこともあり、実際に残される交渉カードは香港の経済しかなかった。その唯一の望みも趙紫陽首相が「経済的な繁栄は主権の問題から見て二の次の問題です」と一方的に発言し、「交渉が決裂すれば中国が早期回収を独自でやる予定がある」と明言したことで、イギリス側の望みを完全に絶ちきってしまったのである。中国側も自分の立場の強さを知ってたかのように、交渉過程中は一貫して高圧で一方的な態度を取ることが多かった。特にイギリスが秘密にしていた交渉内容は自分の都合のよい部分だけを大量にマスコミに流し、中国の主張を派手かつ一方的に宣伝したのに対し、イギリスはおとなしくするほかなかった。こうして香港返還の交渉は一方的にほぼ中国が決められた方法で返還されることになり、中国はこれを歴史的な外交勝利と派手に宣伝したのである。しかしながら、以上にも述べたように、イギリスの立場は最初から弱く、有利な結果など最初から望めなかったのである。結果で判断する論者は数多くいるが、自分はイギリス側はよく粘り、限りのある外交カードを最大限に利用した根気のある交渉をしただと評価したい。香港返還を目前に控えたロンドンでの街頭インタビューで見たように、イギリス国民のほとんどは香港返還への関心が低く、中には香港はイギリスの植民地であることすら知らない人も数多くいた。その国民の関心の低さに反比例し、イギリス政府があれだけ香港居民のために粘り強い抵抗を見せ、中国から法律による明確な保障を引き出したことにイギリス外交の成功例の一つとして再評価すべきのではなかろうか。


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