(生い立ち編)
※よく、ここを発見できましたね。(^^;>
昭和43年11月4日、茨城県土浦市で生を受けるが、土浦に住んでいたわけではなく、そのときの住所は東
京都文京区という山手線の内側に住んでいた。
その後、埼玉県春日部市を経て、昭和45年に宮城県泉市(当時は町)へ転居。以後、明泉幼稚園・泉市立
(現仙台市立)黒松小学校・泉市立(現仙台市立)加茂中学校・宮城県仙台第三高等学校で学生時代を過ごす。
幼少の頃から時刻表に親しみ、小学校2年の時に母親の実家(茨城)への一人旅を企てるが、担任も巻き
込んた果てに挫折する。ちなみに、この担任(八谷氏)の巧みな「地域学習」で開眼し、のちに今の仕事につ
いたと自分では思っている。
小学校時代は剣道・水泳で体を鍛えるが、中学校入学時に親の陰謀でなぜか吹奏楽部に足を踏み入れる。
ただこの入部がきっかけになり、以後中学・高校・大学と学生時代は吹奏楽の生活にはまる。また、高校時代
は独特の校風に浸ってしまい、現代風バンカラ生活を行う。
高校卒業と同時に親の転勤に伴い、東京都町田市に転居。(以後、ジプシー生活が始まる。)河合塾高等専修
学校(河合塾千駄ヶ谷校・いわゆる予備校)(移転のため無くなったようです)に通い、宮城県に戻ることを企てる
が、入学したのが駒澤大学(文学部地理学科)。しかも、宮城をはるかに通り越した北海道教養部!(今は無くなり
ました。)「屯田兵」と揶揄されるも、北海道岩見沢市で2年間の学生生活を送り、3年次から実家に戻り大学へ
通う。大学時代も吹奏楽部に4年間在籍したが、あの「駒澤大学吹奏楽部」に実際に在籍したのは後半2年だけで
あった。ちなみに、授業もそこそこまじめに出ており(総履修単位数199単位!)、3年次の野外巡検では教科書で
おなじみ中村和郎教授についた。卒業論文では小田匡保助教授(現教授)に付き、
「高等学校の通学圏に関する地理学的研究─仙台地区の事例を中心に─ 」について卒業論文をまとめた。
卒業と同時に、川崎市立金程中学校に社会科教諭として採用され、以後川崎市立麻生中学校を経て、1997年
に宮城県の教員に鞍替え。宮城県気仙沼向洋高等学校では社会(地理歴史・公民)科を教える傍ら、音楽同好会
の顧問を務めていた。クラブの特性上(ほとんど軽音楽部(笑))、校内で棒を振ることは無かったが、支部吹奏楽
連盟と高等学校地区音楽祭の事務仕事に追われる毎日をすごしていた。
そして、2000年〜2006年まで宮城県石巻女子高等学校(定時制)に勤務し、社会(地理歴史・公民)科を教え、
初担任から4年連続担任を務める。職場環境の大変革、定時制の募集停止、6年目に久々に担任を外れる
(苦笑)という環境に戸惑いながら、マイペースな生活を過ごした。2006年に石巻女子高定数減のため
宮城県立光明養護学校に転勤。約20年ぶりに泉市(あれ?)に戻った懐かしさを感じつつ、職員も多ければ生徒
数も県内最大級という養護学校に赴任し、日々驚きの毎日を過ごしている。
なお、宮城県高等学校社会科教育研究会地理部会資料集編集委員の1人として執筆に関わった(といっても、
2項目だけですが・・・。(^^;> )「宮城の地誌」が唯一の著書。(笑)(ということで、本業もきちんと行っています。
(笑)) また、空いた時間を利用して、各地の楽器指導やコンクール・コンサートなどに足を運ぶ生活をしている。
ちなみに、吹奏楽において川崎市立金程中学校で吹奏楽部を全日本吹奏楽コンクール予選、
全日本アンサンブルコンテスト予選、宮城県気仙沼向洋高等学校ブラスバンド同好会(音楽同好会の前身)を
全日本アンサンブルコンテスト予選へ、それぞれ初出場させるが、しばらくは銅賞の賞状しか拝むことが出来な
かった。(笑)が、2000年直前のアンサンブルコンテストにおいて、指導初の銀賞をゲットすることが出来た!!
(一重に生徒の努力があったから、と痛感しています。)そして、なぜか2001年から2年間、母校(仙台三高)の
指揮者としてコンクール・コンサートに出演、コンクール初年度には指揮初の金賞(地区大会)を取ってしまった!
(爆)(2年目(2002年)は、ダントツの地区銀賞でしたが・・・。)
現在、みやぎスーパーバンドメンバー(Perc)、石巻シンフォニックウインドアンサンブル団員(Perc)、
日本吹奏楽指導者協会会員、日本女子大学通信教育課程家政学部食物学科科目等履修生(2001年4月より再開!)、
元、宮城県吹奏楽連盟本吉支部副理事長(事務局)、気仙沼市民吹奏楽団団員(Perc)、大和市民吹奏楽団
団員(Perc)、日本管打・吹奏楽学会会員。宮城県高等学校教職員組合執行委員、東北放送第75期社外モニター、