個人的な手紙 
 『 あかね 』 33号  共立女子短大国語研究室 1988.3 
*編集担当の学生から依頼を受けて書いた、恋文ですが、本人は書評のつもりです。甘っちょろいですね。



 二年続けて僕の演習を履修してくれている学生の二人が研究室に来て、「 『 あかね 』に原稿を書いて欲しいんです。<学生時代>という題で」と言ったんだ。
 その日の授業がうまくいかなかったとか、約束の原稿がなかなか書けないで焦っていたとか、朝女房とケンカして家を出てきたとか、そういう理由からではなくて、僕は、その依頼を引き受けるのは本当にイヤだったのだ。僕は困惑して、「<学生時代>なんて題で書くことはできないよ……」と言いながら曖昧な照れ笑いを浮かべてためらっていると、中年男の心の内を読みとろうなんてことにまるで意識も興味も示さないようにみえる二人は、僕のためらいが、例の日本人特有の引き受ける者の慎み深さを示すための儀式としての遠慮だとでもいうように、そして、その場合には相手の思惑を察して本心を自然な形で引き出さなければならないのだとでもいうように、ニコニコと笑いながら、「だって、先生もガクセイだったんでしょ?」と言うんだ。僕はつられて、「そりゃ、僕もガクセイだったよ……」と、つい言ってしまった。そしたら、すかさず、「お願いします!」と二人は言って、またニッコリと微笑んだのだよ。
「こいつら、意識もせず、興味ももたないくせに、中年男の心を掻き乱すようなことを平然としおるナ、恐ろしいことだ……」と感じながらも、何も口に出せないでうろたえているうちに、『あかね』の原稿を引き受けることになってしまったのだった。幾つになっても、十九歳と二十歳の乙女の微笑みに呪縛されてしまうという僕の性癖は治りそうもない。だから、僕は、女房も子供もいながら、君が好きなのだよ。

 なぜ、僕がボクの<学生時代>について書くのがイヤかといえば、本当に書かなければいけないことは書きたくないし、だれもが通過してきたような取るに足りないありふれた体験を書いたとすれば、たとえば、会社の上司が若い部下たちを前に『村さ来』(ゆうべ飲みに行った、よくある安い居酒屋チェーン店の名)で、自分の学生時代の、六十年安保の時にただ一回だけ参加したデモの模様を、まるで自分がリーダーであったかのように話して部下たちを悪酔いさせたりとか、君のお父さんがステテコ一枚でビールなど飲みながら、もう何十回も聞いて暗記してしまっているたった一度の決勝トライの話なんかしながら、汗と泥にまみれた自分の学生時代がどんなに充実していたかを教訓的に語ることで、家族の皆から完全に無視されたりとか、出勤途中の地下鉄のなかで『デイリースポーツ』(関東圏で阪神タイガースの記事が一面に出ることの最も多いスポーツ新聞)を読んでいた教師が、教壇で、オレは中学生の時に漱石全集を全部読み、高校時代にはドストエフスキー全集を三回読んだなどと自慢するのを聞いて、君を完全に白けさせたりなどするのと同じことになってしまうというのは明らかなことなんだ。それが僕には耐えられないことだから、僕は、ボクの<学生時代>は書きたくないのだ。
 でも、あの二人と約束をしてしまったし、教師である手前、今さら書けませんとも言えないから、何か<学生時代>について書かなければいけないのだ。だから、この三日間僕を夢中にさせた、<学生時代>を題材にした二つの小説について書こうと思っている。村上龍 『 69 』と村上春樹『ノルウェイの森』について。
 読んだ本について書くからと言っても、それは決して書評ではないよ。これらについて書くことは、ボクの<学生時代>を書くのと同じことなのだよ。もちろん、ボクの<学生時代>と村上龍や村上春樹の<学生時代>とはまったく別のものだ。それは、よくわかっているよ。でありながら、それはほとんどボクの<学生時代>と同じものなのだと言ってよいんだ。つまり、<学生時代>なんてものは、そんなものなんだよ。みんな個別的であり、そして、誰もが同じでしかないとういふうな、そんなものなんだよ。
 『 69 』 という表題の下の sixty nine という文字に気づかずに、『 69 』 を six nine と読んでニヤッとしたという僕のような勘違いを君がしたとは思いたくないが、念のために言っておくと、この小説は1969年を舞台にした佐世保の高校生の物語、一方、『ノルウェイの森』 は、君も知っているかもしれないビートルズの曲名からつけられていて、1968年に早稲田大学に入学して神戸から上京した学生の68年春から70年の秋にかけての物語。ともに、「あとがき」に友人たちへの献辞のつく、かなり自伝的な要素の強い小説だ。
 1966年4月から1970年3月まで、都の西南砧の森の、小田急沿線の住民の四割くらいしかその名を知らぬ大学で<学生時代>を過ごした僕にとって、サセボやワセダやロクジュウハチネンやキュウネンやストライキやシバイやレンアイは、君にだって語りたくないたくさんの後ろめたさや冷汗を吸い込んだ言葉としてしか存在しないのだ。どんな辞書にも出ていない意味が籠められてしまったコトバ、何かの弾みで声に出してしまった途端に勝手に赤くなってしまうような、そんなコトバが君にも幾つかあるだろうけれど、僕にとってのそんなコトバに満ち溢れた小説なのだ、この二本は。そして、つけ加えておけば、<学生時代>というのは、そういう自分だけのコトバを作る時なのだと、僕は思う。

 『 69 』 の主人公「僕」であるヤザキは、どんなにおどけてみても<英雄>すぎる。だからこの小説は、村上龍の自慢話としてしか僕には読めない。そんなものは昔の仲間と飲みながらワイワイと語り合えばいいじゃないかと思ってしまうのだ。彼の最初の小説『限りなく透明に近いブルー』が生理的に合わなかった僕は、それ以後一本も彼の小説を読んだことがなくて今度久しぶりに読んだのだが、やっぱり彼の作品を好きにはなれなかった。もちろん、ヤザキのような<英雄>高校生はどこにでも一人はいる。だから、楽しい青春小説として笑えるのだ。でも、サセボやコウベではなく、口にしようとするたびにリズムが滞ってしまう<ツ>などという町の<ツ>高校にいたボクは、その音が象徴しているような、中途半端で物足りなくて味気ない高校生活を送り、<英雄>がミス・ツコーとデートしているのを横目で見ながら、一番乗せたくないクラスメートの女の子と向かい合ってボートを漕いでいたりしたのだ。まあこれは、<英雄>のデート相手だったかもしれない君にはわかってもらえないことかもしれないけれど。
 『 69 』 でいえば、ボクは、「アダマ」が仲間に入ってくるとともに<英雄>のトモダチから外れざるをえなかった「岩瀬」や、服にペンキを付けて夜の町を自転車で走っていたために警官に職務質問されてすべてを喋ってしまうドジな「フセ」のような存在だった。いや、教室にペンキで書かれた革命的なスローガンを消すためにゾーキンを持ったり、マイクの呼び掛けに応じて事情もよく分からずに校庭に集まっていったりする、その他大勢のひとりがボクだったのだ、と言ったほうが当たっているかもしれない。
 それなのに、君と二人になってキミにボクの<学生時代>を語るとき、僕はつい、ボクを<英雄>に変身させてしまいそうだ。それはいけないことだから、僕はボクの<学生時代>を語りたくはないんだよ。

 『ノルウェイの森』 は、『 69 』 に比べれば、格段にすぐれた青春小説といえるだろう。しかも、ボクの<学生時代>とこれほど重なった青春小説を今まで読んだことがない。もちろん、『ノルウェイの森』の主人公である「僕」ワタナベと僕とは全然ちがっていて、彼よりも二年はやく僕は大学生だったし、通っていた学校も違うし、専攻もあの頃流行りのエンゲキではなくて野暮ったいコクブンガクだったし、歯ブラシとパジャマを準備してデートしてくれるガールフレンドなんていなかったし、時間が空くと図書館に籠もって勉強していたなんてこともほとんどなかったし、「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボガートみたいなしゃべり方をするのね。クールでタフで」なんて言われたことなんて一度もなくて、たまにデートをしてもいつもその子たちを退屈ばかりさせていたし、男の友だちを一人も作らないなんてことはなくて、いつも仲間とつるんでふざけたり飲んだくれたりしていたし、デモやストを冷静に分析してそこから身を離して眺めるなんてことはできずに、あの頃の学生の多くがそうであったように時代に身を任せて中途半端に流されていたし、「直子」のために悩むことなどなくて、「○子」が僕のものにならないことを悲しむボク自身のために悩んだりしていたんだ。そして、一番の違いは、『ノルウェイの森』 の「僕」 のように、ボクも、自分にも相手にも誠実に忠実に情熱的に真実に生きたいと思いながら、そう言い切れるほどには、誠実に忠実に情熱的に真実にボクは生きてはこなかったかもしれない、ということなんだよ。

 このように言えば、ほとんど根源的に異質な、ボクと『ノルウェイの森』の「僕」とでありながら、僕は、『ノルウェイの森』の「僕」の行為と思考に涙が滲んでしまいそうに感動してしまったんだ。それを君は、中年男のノスタルジーだって笑うかもしれないね。そして、たぶん、そういう部分が少なからずあるだろうって、僕も思うよ。だけど、それだけじゃなくて、例の二人の微笑みに負けて、僕が<学生時代>という原稿を引き受けてしまいながら、今でも書きたくないと思っているボクの<学生時代>と繋がる何かを、この『ノルウェイの森』が語っているからなのだと僕には思えるのだ。でも、それが何なのかを書き始めたら、僕は、君にも言いたくないことをここで書かなければならないことになってしまうだろうということは、君もわかってくれるだろう。申し訳ないけれども、それを書くことだけは勘弁してほしい。ただ、言っておきたいのだけれども、それは、別に大したことではないのだ。誰でもが<学生時代>に体験することで、『ノルウェイの森』の「僕」の体験のように小説に書くほどのことではないし、もし小説になったとしても、涙が出そうになるほどに君を感動させるような代物にはならないということだけは、確かなことだよ。きっと、他人でしかない君には滑稽なことなのだ。それなのに、思わせぶりな言い方をしてしまって許してほしい。
 でも、もし、ボクの<学生時代>に少しでも興味をもってくれたのなら、『ノルウェイの森』を読んでほしいと思う。はじめに書いたように、誰もが、どうせ同じような<学生時代>を過ごしてきたのだから、『ノルウェイの森』を読めば、ボクの<学生時代>をのぞくことができるのだよ。ただ、この小説には、君だけには読ませたくないようなセックス描写があちこちに散らばってもいるんだけれどね。

 それよりも、僕は、キミの<学生時代>を知りたいと、今、切実に思っている。バカな男の書いた『なんとなくクリスタル』なんて小説が、とてもキミの<学生時代>だなんてことを、僕は信じられないのだ。君にはキミの<学生時代>を語るためのコトバがあるはずだし、あの『あかね』がそんなコトバで埋まっていたら素敵だろうと思うのだよ。中年のオジサンのくだらぬお喋りを載せるよりもね。
 それが、もし、他のみんなと同じようなものだと誰かが笑ったとしても、僕だけには、そうじゃなくて、君だけのコトバとして読めるはずなんだ、今はね。
 今日はなんだかちっとも面白くないラブレターを長々と書いてしまったけれども、許してくれるかい。『あかね』の原稿を書きたくないから、君に個人的な手紙を書いてしまったのだよ。 さようなら。


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