死ぬのが怖い。自分の死のことを思うと、叫びだしたいぐらいの恐怖を覚える。神はいない。天国も地獄もない。私が消えてなくなるのは、本当に恐ろしくて悲しいことだ。それでも、この、いつもそばにある死を思わずにはいられない。だから、人々は死後を想像して物語を書き、読み、残しては、その未知の世界へまた旅だっていくのだ。
例えば『THE END OF EVANGELION』の最後で、登場人物たちが増殖してゆく綾波に様々な幻を見る。死んだ妻だったり、好きな人だったり、妄想の対象だったり。「I need you.」 マヤの代わりにリツ子はそうキーを打った。
あるいは、『指輪物語』にインスパイアされたファンタジー『辺境警備』(紫堂恭子/角川書店)。第15話「星拾い」では、この世界の死後の世界が出てくる。呪術師カイルに死後は人間だけしかいない闇の世界に分けられてしまうのだと教えられ、ショックを受ける素朴な魂を持った兵隊さんたち。でも、生きているうちに、そこにあるかのように「知っている」ものは、死後の世界でも出会えるだろうと神官さんに聞いて元気を出した兵隊さんたちは、ちょうど見えてきた一番星を覚えておこうと言い合う。そして、隊長や神官さんたちは兵隊さんたちの胸が、宵の明星で光り輝いているのを目撃する。
この『航路』も、こういったファンタジーと同じなのだろうか? 流行の医療サスペンスの体裁をとったこの本は、微妙な綱渡りを見せる。
死後の世界はあると強調する、胡散臭い人物と主人公サイドを対比させることによって、ジョアンナやリチャードの研究に科学的な裏付けがあるように見せる技はさすがだ。しかし、ジョアンナが実際に自分の死後の世界を体験し始めたところから、徐々に小説世界はずれていく。そして、ジョアンナが死を迎えたとき、一転してファンタジーに突入する。ジョアンナが死んだあと、リチャードはなんとジョアンナを追いかけていくのだ。会えるはずはないではないか。ミイラとりがミイラになる。死後の世界を研究していたものが死者になる。彼らはいつのまにか死後の世界を信じてしまっていた。そして、ウィリスの巧みな筆致は読者をも幻惑する。
ジョアンナとリチャードの研究成果により、メイジーが無事救われる感動の場面で、メイジーはジョアンナに会ったと告げる。まさか! ふたりは死後の世界で会ったのか?
騙されてはいけない。もちろんそれは単にメイジーの脳内のことでしかないのだ。メイジーが妄想したジョアンナが存在するだけなのだ。もうジョアンナは死んでいる。その後、続いている描写は、あくまでジョアンナの妄想であり、死後数分の中のできごとでしかない。死後の世界はない。会いたい人にも会えない。「死後の世界」とは、自分の脳内の妄想の中をさまようことだ。
しかし、ウィリスはこの冷徹な事実をファンタジーで覆い隠しつつ、でも率直に語り、なおかつ私たちに別の信号を送る。やっぱり、ふたりは会えたのだ。
ふたりの関係を思い出してほしい。ジョアンナは引っ越したのではなく死んだと知らされ、メイジーがほっとするという印象的な場面だ。自分に何も告げずに引っ越したわけはないと、彼女は確信していた。メイジーはジョアンナのことをよく「知ってい」た。これがふたりの関係だった。生きているあいだ、彼女たちは互いに求め合い、必要とし、信頼し、理解し合った。信頼という目に見えない絆がふたりを結んでいる。もちろんその絆が死後の世界だろうがどこだろうが、実際に結線したり実在したりはしない。ただ、ジョアンナは、守るべきものを求めていた、死後の世界でも。メイジーは、守ってくれるものを求めていた、死後の世界でも。そうやって脳の中の互いのよく「知っている」存在が「死後の世界」でも呼び合う。これがウィリスが私たちに送っている信号だ。生きているうちに成し遂げた理解と信頼、それだけが人と人をつなぐ唯一のものなのだと。
ウィリスの描く「死後の世界」で、きっと私はあなたに会うだろう。夢で会うように。もちろん、それは私の脳の中で妄想したあなたであって、本当のあなたではない。あなたの「死後の世界」に私はいるのだろうか? なんて「遠い」。生きているいまの距離が遠すぎる。私はこの物語の二人のような確かな信頼を与え、与えられてきただろうか。絆を築いてきただろうか。
本当は、実際に死ぬことは怖くないだろうと予測できる。母が死を怖がる私に教え諭したように、それは眠ることとなにも変わらない。怖がっているのは生きている私であって、死んだ私は何も怖くない。
この本を読み終わったいまは、「死後の世界」でひとり自分の妄想の中をさまようことが怖い。こうしてあなたと遠く生きていることが恐ろしくて悲しい。
航路 上・下(コニー・ウィリス/ソニー・マガジンズ02年10月/各1800円)→bk1