かつてここを「東洋のヴェニス」とまで謳わせたチャオ・プラヤ川を体内に組み込み、
エネルギーを今にも爆発させんがごとくに秘めた、タイ、バンコク。
何者をも拒絶しないこの町には、世界中からのバックパッカーたち ─バックパック(大きな
リュック)ひとつに荷物をつめこんで動きまわる旅人たち─ が毎日のように吸い寄せられて
くる。
彼らの旅にはほとんどの場合、これといった目的があるわけではない。
私の場合もそうだった。ただ音楽と埃と人々の体温とが混じり合う喧騒の中に身を置くとき、
自分は何を惟うだろう。漠然とそんなことを考えながら、バンコクに入ったのだった。
バンコクの道という道には、屋台がここぞとばかりにひしめき合っている。洋服、アクセサリー、
日用雑貨、仏像、食物、等々だ。しかし、いったん客が外国人だとわかると、彼らは容赦なく
高い値をぶっかけてくる。高いといっても日本なんかに比べれば知れたものなのだが、やはり
口惜しい。…ので、交渉に入る。
─ これ500B(バーツ) ─
─ wow 高すぎだ !! 100Bくらいだろう ─
─ NO、なら、400Bにまけるよ ─
─ いやいや、130Bだ ─
─ NO、じゃ300B ─
─ 130Bでなきゃ買わん ─
─ 仕方ない150Bでは? ─
─ OK!!
こんな感じに。面倒臭そうにもみえるが、これが案外と楽しい。
そんなこんなのある日、タイで出会ったJockという女友達と2人、ヤキソバを分け合いながら
チャオ・プラヤ川の川べりに腰を下ろした。
そのときだ。Jockは一瞬顔をしかめると、側にあった棒で川端にある小さな物体を左の方へ
押し流した。
それは死体だった。小さな小さな、やせ細った人間の死体だった。
一瞬、目の前で起きていることが理解できず呆然となった私に、Jockはばつが悪そうな顔を
向けて早口にこう言った。「食べ物を手に入れる方法なんていくらでもある。それをあきらめた時
にああなるの。食べるために働き、また働くために食べる。それが人生だなんてばかげてるけど、
でも、それが大半にとっての現実よ。あなたはここに、人間の命のかたちをみに来たんでしょ。
それってステキなこと。自分の中の世界をどんどん広げれば、どんどんいろんなものが
見えてくる」
それからまた何事もなかったかのようにヤキソバを食べ始めた。
急激に進み始めた情報化社会のおかげで私たちは、日本のこんな一角にいても世界中の動きが
手にとるようにわかる。もちろん私だってその恩恵に毎日与かっているのだから、その便利さを
否定する気はない。しかしやっぱりそれらから得られるのは、単なる知識。知識は頭に
たまるだけ。
・・・よくわからないけれど、でも、本当に大切なものって「頭」ではなく「心」を強く打ち、
その深い深い部分にゆっくりゆっくりたまっていくものなんじゃないだろうか。そしてそれらは
この自分の身体を実際に使ってしか得られないものなんじゃないだろうか。
私はこの旅で一体何を得たのかなんて、正直分からない。また、得たにしてもそれが何らかの役に
立つのかどうかも分からない。しかしこれだけは胸を張っていえる。この地球上には自分と全く
異なる命のかたちが、本当に存在してる。自分はそれをこの目で見、この手で触れ、この心で感じて
きた。誰かの手でまとめ上げられた「知識」とちがって即効性には欠けるかもしれないが、
このタイで感じたいろいろな思いは、私のまだまだちっぽけなこの心をちょっとは深くしてくれた
はずだ。そしてそんな積み重ねがいつの日か、大きな人生の指針へと大成されることと
信じている。
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