森 の こ え

 クリスマス・ローズ と ジョウビタキ 
 3月の初め。立春を過ぎて1か月にもなるというのに、吹く風はまだまだ冷たく、 起てたコートの襟がかろうじて寒さから身を守ってくれるような、そんなある朝のこと。 おまけにその日は、細かい霧雨までもが降っていました。
 電車を降りてあわただしく仕事先へ向かっていたとき、少し前を歩いていた女性が足を止め、 その場にかがみ込みました。髪の色も服装も、ステキに今風な女性でした。
 「何をしてるのかな」と、追い越しながら見ると、足元に咲き始めたばかりのクリスマス・ローズ の鉢が転がっていました。
 喫茶店の前にたくさん並んだ鉢の一つです。きのうの夜、お酒を飲み過ぎてフラフラ、フラフラ 歩いていた人にでも蹴り返されたのでしょうか、葉っぱが少し折れ曲がっているようでした。
 彼女は、その鉢を拾い上げ、元あった場所に戻していたのです。
 瞬間、朝の寒さが消え去った気がしました。
 「人のこころって、いいナ」と思いました。

 そして三月の半ばも過ぎたある朝のこと。
 出勤前のあわただしいなか、窓越しにふと庭を見ると、あらかた花も終わったウメの小枝に 紋付姿のジョウビタキくんがとまり、長いしっぽを振り振り、周りを眺めていました。 「ヒーヒー カツカツ」という声も聞こえます。
 ウグイスさんのように、ステキに春風な声ではありませんが、冬の間聞き慣れた親しみ深い声です。
 ところが、その日が最後。翌日から、彼の声を聞くことは、もうありませんでした。
 今朝も窓の外を見つめてると、ステキに昔風の奥さんが言いました。「きっとあのとき、 お別れを言いに来たのよ」
 瞬間、景色が変わったような気がしました。
 「生きものたちのこころも、いいナ」と思いました。

 タ イ ム マ シ ン 
 夜、少しお酒を飲んで、夕飯を食べて、「ちょっと、お星さまを見てくるヨ」と庭に出ました。 この言葉は、我が家では“食後の一服”のきまり文句。でも、きょうは本当に星が見たかったんです。
 雲がだいぶ出てましたが、星たちを見ることができました。
 もうすぐ七夕。織姫さまも彦星さまも、デートの準備におおわらわ……かな?
 年に一度の、壮大な大空のロマンです。
 そして、もうひとつのロマン。日本文理大学の杉浦嘉雄先生がよく話されることで、 星の夜はタイムマシンということ。
 わたしたちが今見ている星の輝きは、実は、何年も何年も前のもの。
 だから、織姫さま(ベガ)を見るということは、25年前を見ているということ。 彦星さま(アルタイル)なら16年前。織姫さま、彦星さまと一緒に『夏の大三角形』をつくる デネブなら、なんと1800年前の輝きなんです。
 「そのころ、自分は(世界は)どんなだったろう」なんて考えてみると、壮大な宇宙に こころが吸いこまれてしまいそう。
 ところで、近ごろ、天の川が見えなくなった(見えにくくなった)と思いませんか。七夕のお話に 欠かせない天の川。去年の夏、久住で見た川が流れる天空の感動は 忘れられません。でもそれだって、何十年か前の子どもの頃の記憶にくらべればとても 小さな感動です。
 なぜでしょう。理由はいろいろあるでしょうが、感動を小さくしたのは、結局のところ、 空気を汚し、夜を明るくした、わたしたち自身なんです。
 今夜も織姫さまや彦星さまの周りを、どこかのパチンコ屋が無意味に放つサーチライトの光が、 我が物顔に行ったり来たりしていました…
 こんなことで大切なタイムマシンを失ってしまうとしたら………   なんか、さみしい  ですね。

 空 と ぶ フ ー セ ン 
 先日、ある小学校の先生からお電話をいただきました。
 「学校のイベントで、ゴム風船を飛ばす計画をしているのですが、 風船がごみになるんじゃないかと心配で…」
 空に向かって、何百、何千の風船が舞い上がる情景は、確かに明るく力強く、 洋々たる未来を暗示しているようです。 色とりどりの風船は、会場の雰囲気を盛り上げるのにももってこいです。
 でも最近、あえてこれをやろうという催し物は滅多にみかけません。 先生が心配するように、ごみの散乱につながるからです。
 舞い上がった風船は必ず落ちてきます。それは誰かが拾わない限りごみになり、 環境を汚染します。もし動物が誤ってそれを食べたら…、というのも杞憂ではありません。 海や森や河で、多くの動物たちが放置されたごみの犠牲になっています。
 もちろんゴム風船だけのことではありません。 ビニール袋だったりプラスティックの粒だったり釣り糸だったり。
 「やっぱ、やめた方がいいと思いますけど」
 「じゃあ、風船に花の種を付けて飛ばすってのはどうでしょう」
 そういえば、花いっぱい運動とかで道のそばに花を植えているのをよく見かけます。
 でも花の種の付いた風船が落ちるのは道の周りだけじゃありません。
 ある日、森に出かけ、木漏れ日の下でいい気分になって背伸びしたとき、 スミレの花の隣にキンセンカやマーガレットが咲いていたとしたら… そして、 それが種を作り翌年もその翌年も生き延びたとしたら…
 「やめましょう、子どもたちはわかってくれますよ」

 モ ッ タ イ ナ イ オ バ ケ 
 あなたは、モッタイナイオバケに会ったこと、ありますか。
 彼(彼女?)は神出鬼没、昔はいろんなところに現れていました。
 ご飯のとき、お茶わんにご飯粒を残していると、いつの間にか隣に来て「もったいない、 もったいない、お米を粗末にしていると、大きくなってからお米に不自由するゾ」と低い声で つぶやいていました。
 ノートなどの紙を無駄にすると「もったいない、もったいない、そんなことをしていると 字が下手になるゾ」。時間を無駄にしていると「もったいない、もったいない、何もしないうちに、 歳をとって死んでしまうゾ」…
 そのころ、モッタイナイオバケは、子どもたちにとって(大人にも?)とても怖いオバケ だったんです。
 ところが、どういうわけか、近頃はとんと見かけることがありません。
 ご飯を残しても、ノートを無駄にしても、モッタイナイオバケは現れません。それどころか、 逆にほめられることさえあるんです。《何かを捨てることは、新しい何かを手に入れること》、 そう思いこんでいる人がたくさんいます。そんな人たちの前で、モッタイナイオバケは無力です。
 もちろん、その考えも正しいとは思います。何かを捨てなければ、新しい発想が生まれてこない のは確かです。古いものにとらわれてばかりいては、前に進むことはできません。
 けど、それはあくまで、わたしたちのこころのありようのこと。“物”は別。
 何か、古い“物”を捨てなければ、新しい“物”が手に入らないと言う発想は、間違っている というか、少なくとも、ボタンを掛け違えていることは間違いないと思います。
 《物を捨てる》ということは、捨てた分だけ地球を壊しているということじゃないでしょうか。
 そうやって、少しずつ少しずつ地球を壊していって… いつか、地球が壊れてしまったとき、 わたしたちは“古い地球”を捨てて、“新しい地球”を手に入れることができるとでも思って いるんでしょうか。もちろん、それはNO。
 わたしたちの地球は、かけがえのない大切な存在です。この地球をわたしたちの子どもや孫たちに 伝えるためにも、もう一度、モッタイナイオバケが出てこれる社会・文化をみんなで 取り戻しませんか。

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