少年犯罪
昨今、少年犯罪の問題が浮上している。
ちなみに殺人のもっとも多い世代として危険視されているのは49歳の人たちだ。
少年法
少年犯罪が多い理由として、少年への刑罰が軽すぎるからという意見もある。ちなみに日本の刑法では、大人に対しては死刑もあるが、殺人をする人は多い。
このことからも、少年法を重くすれば犯罪がなくなるわけではない。少年法を重くして刑期が長くなれば、少年たちの社会復帰が遅れることになるが、出所してきたのが成人になれば、それによって結果として少年犯罪は減ることもあるだろう。
だが、少年という人格を形成する重要な時期の多くを少年院などで過ごせば、成人になってもうまく周囲にとけ込めない。しかし、同じ不良仲間にはとけ込めるから、また不良仲間と犯罪に染まっていく可能性もでていってしまう。その場合、さらに重度の犯罪や、刑罰的は軽くても悪質で捕まりにくい犯罪をおこなう可能性も出てくる。
また、一部の凶悪な犯罪を犯した少年は、捕まったあとの事は考えていない。そこには刑罰の重さは意味をもたない。
安易に人の人生を左右するような刑罰の重さを話すのも良いが、そのように人の人生を気軽に論議する風潮が大人たちにあれば、子供たちにも少なからず影響があるだろう。
同じような風潮は死刑問題にもあり、普通の大人の賛成派には、こんな凶悪な人が社会に野放しになって良いのかというが、それなら終身刑、もしくは20年刑期をつとめたら刑務所より楽だが外出の制限があるような施設で過ごせるようにすれば良いのである。
少年法の改正
少年法の改正は難しい面がある。これは世論が風当たりがあるからだ。第二次世界大戦に突入したのは、軍のせいでも政治のせいでもなく、世論のためという意見もあるが、日本の世論はかなり強いものがある。右向け右の傾向や、一億総評論家のようになっているのも、それに拍車をかけているのだろう。
少年法が改正されても、あくまで少年の更生に力を入れている。大人は刑罰重視というが、更生させようとももちろんしている。(職業訓練などもそのためだ)
遺族の報復感情
少年法や死刑問題で言われるのが、遺族の報復感情だ。しかし、真剣に死刑問題を考える人にきくと、遺族の報復感情はあまり重視すべきではないようだ。
これは交通事故の遺族たちも同じような感情を持っている事がある場合や、遺族がいない場合の問題などが大きいのだろう。
また報復感情を重視する法律になったとして、罰を与えたあとも、「強盗などではもっと強い罰を」と言うと、「君は普通の人より罰則感情が強いようだね。怖い」と心の中まで踏み込まれてしまう危険もある。また同じ罪でも、相手の人種などによって、罰が変わるという事もあるかもしれない。いくら人種差別だといったところで、遺族の感情の中までは変えられない。たとえ差別意識があったとしても遺族は厳しい罰を望んでいることは確かなのだ。それとも、心の中で差別意識がある事をそれほど責められる必要があるのだろうか。
ちなみに物を盗まれるのは親を殺されるより悔しいという人もいるのだが、かといって感情を重視するから泥棒を死刑にはできない。また、早く死んで欲しい老人の命なら、罰は軽くなるのだろうか。
ところで日本は戦争で負けたが、遺族感情を考えれば、日本人はすべてその時滅びていただろう。
反省とは?
犯罪をおかした少年に反省を求める声をきく。
しかし、一部の少年たちは子供の頃からどんなに小さな事でも反省を強く求められてきたり、逆に大きな事では反省を求められないなど、いい加減な育てられ方をしてきた場合がある。
反省とは「もうやらないようにしよう」という場合と、「相手にすまないことをした」という場合があるが、後者のような気持ちになるのは、強く責めることは逆効果である。
学校などでも良い先生は、やさしく子供に相手の気持ちを考えさせるようにしている。叱るのも良いが、叱る相手を尊敬できないようなしかり方では、前者のような気持ちで終わってしまう。
道徳の限界
貧しい国では食料やワクチンがなく、死んでいく子供たちが多い。しかし、多くの日本人はドライブをしたり、お酒を飲んだり、一駅くらいなら歩いても良いのにそのようにしていない。自分だけでもそれらのお金の一部でも寄付すれば良いのに、人の命を見殺しにしているのである。
この日本に正義があるなら、報復感情を本当に重視するなら、多くの日本人は死ななければいけない。
車に乗る人のほとんどはスピード違反を日常的に繰り返している。50キロの道を55キロで走るのは、ごく普通におこなわれている。だが、速度があがれば、それだけ人を殺す危険性があるのである。彼らは人を殺して平気なのだろうか。50キロの道なら、40キロ以下で走った方が良いのではないか。車の流れに乗らないと危険というが、誰もいない道でも同じようにしているのが普通の大人なのだ。
正義や道徳という言葉で犯罪者を責めることは多いが、結局、責める人の多くも飢えた子供たちを見捨てている人たちなのだ。
そのため、犯罪者に対して道徳論をもちだしても責めてもあまり意味がないのだ。
道徳論の多くが、どこか嘘っぽいのはそのためだろう。
更生
大人は、状況によって自分を生き生きと表現したり逆に感情を殺したりしているものだ。我慢なども、適度に我慢してはいるが、それによってメリットも得ているし、過大な我慢はしないものである。例えば、普通の大人は会社では我慢する事もあれば、給料というメリットも得ているし、時には仕事に生き甲斐を感じる瞬間もあったり、同僚との歓談があったりする。しかし、いくら給料というメリットがあっても、詐欺に近いような商品を売る会社には勤めたがらない。(いくらアルバイトで家族や近所にばれないとしてもやらないだろう)
また友達と話すと楽しいし、家族ができれば喜ぶが、ときに嫌な経験もするだろう。だが、嫌な経験が多すぎれば友達や配偶者と離れていくが、その前にコミュニケーションをとってやめてもらうようにしてもらう。
それらは育っていく過程で身に付いた生き方なのだ。そして更生とは、少年がそのような生き方を身につける事である。
生きる価値
人を殺した少年が出所したあと、飲み屋にいた事を責める人がいる。しかし、会社でストレスがたまれば、友達と飲みに行くのが普通の大人である。そういう生き方ができないと人として長続きしないものだ。
ただ、中には廃人同様な生活を送る人もいる。仕事もしていて、真面目に働いてはいるが、生きていてもまったく喜びというものがわからない。おそらく、その人は被害者の気持ちはわからないだろう。そんな人生では、生きている価値は低いとしか思えないし、人の喜びがわかず人生とは苦しいものばかりなら、殺される事の悲しみも無念さもわからないだろう。
そして遺族の気持ちも同様にわからないだろう。人を心から愛することができなければ、愛する人を失う悲しさもわからない。
ただ、彼はきちんと遺族にお詫びをし、毎月お金を送っている。だから遺族は真面目に反省していると思っているが、これでは死んだ人があまりにも悲しいと思うのである。