学業
学業に関するものはシビアである。なぜなら、多くの生徒は高校入試という冷徹な競争にさらされているためである。
と、そのような事もあるのだが、それ以外にも学業がきちんとしていないと、生活全体が崩れていく事も見逃せない。
学業は学生の本分であり、しかも、しっかりと結果が見えるものである。中学一年生のうちから深夜0時まで塾通いはやりすぎかもしれないが、毎日の勉強をしっかりやり、成績をあげていく事で、将来への展望が見え、自分に自信をつけることができる。
学校の勉強が将来どのくらい役に立つのかという意見もあるが、今現在の中学生にとっては、一番将来に直結しているのは学校の勉強だろう。
ほかのものをやろうとしても、将来何になりたいのかもわからない状況では、適正も考えないまま勉強しなければならず、あとで勉強をしなおすなどで非効率になりかねない。また、この時期から学校の勉強を捨てて、町工場での勉強をしたとしても、将来、それがプラスになることは少ないだろう。
教え方が良くないとか、カリキュラムがおかしいという事はあるかもしれない。だが、今の制度や社会のままでは、学校の勉強が一番効率的といえるだろうし、目に見える形(成績)が示されるのも良い点だ。
成績があがった生徒が、「将来は明るい」、「未来がある」、「自分の力はついてきた」、そう思う事ができるのが学校の勉強なのだ。
それらが幻想だとしても、こう思ってる生徒は、希望をもち、性格もあかるくなり、何事も前向きになってくる。
以上のことでわかるように、学業というのは、単にそれだけでは終わらないものだ。
テストの結果が悪いと、なんとなく気分が落ち込むものだし(暗に将来が良くないと感じるから)、日々の勉強をしなければ、自分が成長しているという実感がわきにくいのである。
勉強に取り組む意欲
右肩上がりの日本では、学校の勉強は将来を約束するものだった。上智や慶応を出て、それが何?という人もいるかもしれないが、以前の日本では高学歴は確実に評価されていた。これは企業は「何の疑問ももたず、どんどん勉強(仕事)をやってくれる人」を強く求めていたためだ。
右肩上がりの経済では、一生懸命仕事をする人は確実に有利だった。どんどん物は売れるのだから、なにより努力が重要であった。一方、「別に勉強なんて適当でいいよ」とか「勉強も大切だけど、人間関係だって大切だしさ」いう人は、会社に入っても同じようになるのではないかと見られたため不利だった。それに右肩上がり時代の日本では、年功序列やあまり格差のない給与が守られていたため、努力してもあまり差はつかなかった。それでもひたすら働いてくれる人は非常に魅力的だったのである。
もっというなら、友達関係や家族関係をあまり大切にしないけど、勉強していたような人が欲しかった。そういう人なら、当然のように友達関係や家族関係を犠牲にして会社につくしてくれるのだ。
ところがバブル崩壊以後は、一流大学を出たり努力することが必ずしも成功を保証しなくなってしまった。このような状況では、勉強を信奉する生徒が減っていってしまうのだ。
今の子供たちは不況、不況とずっと言われてきている。このような子供は未来に希望がもてず、明るくなれない。勉強さえやれば良いという時代なら良いが、現在はそれが崩れてしまい、何をやっていいかわからない。
若いんだからベンチャー企業の社長になれば良いとか、会社で通用する有能な人間になれば良いとか言われるが、その能力の磨き方が良くわからない(本によってもいろいろ違うし、ITバブル時代と、バブル後では求められる経営者像が違ったりするのだ) またその能力を磨いても、学業のように数値に出ないので、達成感がえにくいし、不安感を煽るばかりだったりする。勧める話は多いが、それらは学業のように多くのデータをもって検証したものではなく、個人的な意見で、とても人生をかける事などできないだろう。
特に今は親が保身的になっており、失敗をおそれる子供が多い。失敗を恐れるなというのは楽だが、現実的にクラスの友達の親が失業してあぶれてるのを見れば、冒険なんてできない。
余談だが、サッカーのようなスポーツでさえ、日本はミスを恐れるし、チャレンジできないチームである。監督はチャレンジすること、ミスを恐れないことを強く要求するができないのである。スポーツでもできないのに、どうして人生でチャレンジできるのだろう。
このような現状にあっては、以前ほど勉強に熱心になりにくい。しかし、その代替案も見つからないので、仕方なく勉強をするしかない。
今の子供たちが非常に難しい状況にある事は確かである。
ゆとり教育
世界の教育には大きく分けると二つの流れがある。
一つは詰め込み教育である。代表的な国は中国で、九九などをとにかく覚えさせる。高校生になっても、数式をどんどん覚えさせる。覚える問題なので答えははっきりしている。覚えるのが重要なので、友達と共同で答えを出すという事がない。教室中で生徒はまったく同じ勉強をしているけど、生徒と生徒は関わることがなく、独立している。
一方は欧米型の教育である。環境問題を考える授業なら、グループをつくり、それぞれ自分の得意分野を利用してデータを調べたり、考えをまとめていき、答えを出していく。データを出すのに必要なら、パソコンを覚えていったり、数学を覚えていく。環境問題なので、答えははっきりしない。お互いの共同作業が重要なので、お互いの協力や、まとめ役や、得意分野を使うことが重要である。教室中で生徒はパソコンをいじったり本を読んだり、データを整理するなど、まったく違うことをやっているが、生徒と生徒は深く関わり合いをもっている。
欧米型はまとめ役なら幅広い知識と統率力、事務処理能力、交渉能力などが必要で経営者や政治家みたい能力を伸ばせるし、パソコンや本を調べる人は、技術職としての能力を磨くことになる。
なお、平行四辺形の面積の求め方だが、なぜそういう数式を使うかを半日かけて考えさせたり、紙を使って調べたりするのは後者に近いし、数式のみを教えて、どんどん練習問題をやらせて覚えさせるのは前者に近い。日本では一時間ほどで先生が導きながら面積の求め方を教えていき、塾では数式のみを教えていく事が多いようだ。
日本は旧来は詰め込み教育が強かったが、それを欧米型に少し移行しようとしている。これがゆとり教育の大きなテーマのようだ。
日本が取り入れるゆとり教育は招くと言われるが、単なる数学や英語の平均点は落ちる可能性が高い。なぜなら平均点は、勉強をすればするだけ有利だからだ。
一方、欧米型の答えがはっきりしないものを導く能力は高くなるだろう。ただし、その能力が伸びても数値に出にくい欠点がある。また、経営者の能力を伸ばしても、それで成功するかわからない。むしろ、詰め込み教育なら一定の成功はあったのに、中途半端に経営者の能力を伸ばして、普通の勉強を伸ばさないのでは、人生で失敗してしまうかもしれない不安がある。
次に、なぜ詰め込み教育をやめようとしているかである。詰め込み教育の欠点は、ひたすら覚えていく作業なので、きつく、つまらないものだ。また一時的に覚えたとしても、長期間覚えるかどうかはやる気にかかっている。
中国では驚異的な成長をしているため、生徒も勉強熱心になれる。勉強すれば成功すると考えているのだから、親も子もがんばって勉強できるのだ。大人になっても役立つと思うから、長期間の記憶も可能だろう。
しかし、日本をみれば数学を覚えても社会に出ても役に立たないとさんざん言われている。大学に入れば得意科目でさえ、もう勉強しなくても良いと考えているし、実際学校の勉強は社会に出ても役に立たなくなっている。昔の日本は「とりあえず勉強しておけばプラスだ」と信じこんでいたが、そのような事がなくなってしまった。
これでは勉強しろといっても、多くの生徒はついてこないのだ。詰め込み式の欠点は、勉強がつまらないので、子供たちのやる気が出にくい欠点がある。また、やる気のある生徒と、そうでない生徒の差が著しく広がってしまう欠点がある。そして、著しく広がってしまったら、成績の悪い生徒はなおさらやる気を失ってしまう。
このような事があるため、今までの詰め込み教育は子供たちに通用しなくなりつつあるのだ。
第二に、今後の日本はグローバル化が進み、異文化の人とうまく協力・交渉したり、お互い得意分野を生かしあったり、自分の得意分野をもつ事が求められている。
日産のカルロス・ゴーン氏は日本人ではなく、リストラのために日本に来たが、日本人ではありえないのような大きな成果をあげた。これは彼の部下との交渉力、協力していく能力、統率力、事務処理能力、外部との対応力、目的設定能力、戦略構想力などが成功させたのだろう。
このような人は今までの日本ではなかなか出てこない。一応、学級委員、生徒会、部活動の部長などがこのような人材の礎となっていたが、まだ不十分という事なのだろう。
また、ゆとり教育といっても、勉強したい生徒はどんどん先に進むことができる。その際、以前の教育なら五教科すべてがんばるようになっていたが、今後は自分の好きな分野だけ伸ばしていく事になるだろう。ゆとりがある分だけ、自分の伸ばしたい分野の勉強時間が増えるのだ。これは学者のような人物を生みやすい(アメリカのノーベル賞受賞者は日本とは比較にならない)
こういう人物がいるのは良いが、彼は一つの能力はあっても、ほかはあまりないという事もある。彼らの得意分野を組み合わせて、大きな目的(商品開発、基礎研究など)を達成させるまとめ役が必要になる。(だから欧米型の教育が必要になる)
このようにゆとり教育とは、楽になる教育ではなく、より自分の進んでる方向が本当に正しいかわかりにくい教育でもあり、子供たちの不安は増大する可能性もある。