いじめ
いじめは大学になると減少する。これは大人になったからではない。例えば、会社などでも行われている会社もあるし、地域によってある家を相手にいじめのようなものが行われている事がある。
学校の先生の間でもいじめがあり、ある先生は職員室に帰れず、休み時間は教室で水筒で持ってきたお茶を飲むなどという事さえある。もちろん生徒もいじめに気付くだろう。
学級崩壊をおこしたクラスでも、最初はほかの先生が協力的であったにもかかわらず、やがて担任の先生を非難的な目でみるようになり、文句や嫌みを言うようになり、笑いものにしていったりする。こうなると担任の先生はクラス内、クラス外から追いつめられていく。もちろん周囲はこうすれば、担任が苦しみ、よけいクラスは悪い状態になるのはわかっているが、攻撃していくのである。
大学ではいじめが少ないのは、大学では集団で何かを達成する必要がない事が大きい。(だから体育会系みたいところのが多いようだ)
子供でも、大人でも、集団に何かを作る、仲間意識を育てる、みんなで心地よい雰囲気を作る、などを集団作業をおこなおうとすると、いじめが多くなりやすいようだ。
いじめの定義
弱者に対して、肉体的・精神的苦痛を相手に継続しておこなう場合、いじめと言われる事が多い。継続しなくてもいじめと呼ぶ場合もある。
乱暴な子へのいじめ
社会において嫌いな人に自分から挨拶をしないとか、ろくに口をきかないなどは良くある事だ。学校でも乱暴な子と口をききたくないとか、まともに挨拶をしたくないなどもあるだろう。
これが一人だけでそうしているなら先生も「そのうち時期がくれば話すようになるから」と問題にしない。これはいじめの定義が「弱者に対して」となっているからだろう。一人がそうしているだけなら、あまり問題にしないのだろう。
だが、クラス全員がそうしたらどうなのか。
それをやってしまったら十年以上も、誰とも友達になれず、誰とも口をきかないような生徒が出てきてしまう。子供は特に不完全であり成長過程だ。このような時期にそのような事があれば、大人になったとき、社会に適応できなくなってしまう。
おそらく、こういう事が建前上許さなないのは、
1 学校が保護的空間であり、疑似社会であること
2 学校が社会や会社の延長線上にあること
3 無視する側にとっても、いろいろな人との接し方を学習する場である
などがあげられる。
社会ではどんな危険な人物がいるかもしれないし、そのような人と話さないのはしょうがないかもしれない。だが、学校で危険といっても、建て前上は先生がいて、生徒は危険にさらされない事になっている。だから、話をしても平気という事になっている。社会では危険は避けるべきかもしれない。だが、学校は社会で危険人物と接するのに比べれば危険ではなく、社会そのままではないという事なのだろう。
次に学校が会社などの延長線上にあるという事だ。例えば会社で、「この人は危険そうな人だ」と思ったからといって、話さないとか、挨拶もろくにしないという事が許されるだろうか。また地域社会において、自分だけある人を危険と決めて、無視するような態度は許されにくい。そうする人もいるだろうが、少なくとも自分が責任ある立場になれば、地域のお知らせをしないなどは許されない。
3の「無視する側にとっても、いろいろな人との接し方を学習する場である」というのは、社会において危険な人を避けるにしても、相手が挨拶してきたのに、いきなり無視する人がいるだろうか。危険な人ならなおさら、一応は挨拶は返すのではないか?
学校で乱暴者だが、それが原因でいじめられてるとしよう。彼が遊びに誘ったら、
「てめーは俺に口きくんじゃねー」
と言えるだろう。だが、社会でそのような事ができるだろうか。暴力団風の男が声をかけてきて、
「二階に引っ越してきた兄ちゃんじゃないの。どう、飲みに行かない?」
「てめーは俺に口きくんじゃねー」
と、こんな風に言わず、失礼にならないように断るのが普通だろう。
このように相手と距離を置いたつきあい方をするのが社会なのだが、いじめで解決していると、そういう事を覚える場を失ってしまう。先生としては、何とか覚えてもらう必要があるだろう。
嫌な人へのいじめ
嫌な人というのは、どこにでもいる。人間なのだから、嫌いなタイプの人がいるのは当然なのだ。ところが、これが会社の中などにいたら、嫌でもつきあっていかなければならない。相手との距離をおいたり、うまく話したり、相手の影響を受けないようにする必要がある。
学生時代ならいじめなどで解決できても、社会でそれが通じるだろうか。今年新入社員になったが、先輩が嫌なタイプだった、課長が嫌なタイプだった、さあいじめよう、いじめて嫌な人間をたたき直してやろう、こんな事ができるだろうか。
また、いじめの多くは許される性格や行動なのに、いじめられる事が多い。このような事が社会では許されない。許される行為や行動は合法だが、精神的・肉体的な嫌がらせをするというのは法律によって許されていない。彼らは保護されているのだ。学校ならこづいたりできるが、これを警察官の前でやれるだろうか。
また、法律的に許されない行動をとる人がいじめられる場合もある。このような場合は、社会でさえ、嫌がらせによって何とかしようとしたら、逮捕されてしまう事があるのだ。相手が非合法だったら警察や弁護士などに相談し、解決していくものだ。相手が乱暴者で殴ったりしても、社会では「今度あったとき、殴ってやる」とやったら逮捕されてしまうのだ。その場合は、刑事訴訟と民事訴訟で解決するものだろう。軽いものであれば、うまく口でいって解決するのが普通である。
社会人になれば、犯罪をやるような人に対して、さんざん悪口をいったり、脅したりすることは少ないのである。適度に対応するのが普通なのだ。
いじめに勝つ
いじめに勝つのは非常に難しい。大人社会では多少過激ないじめでも逃げ場があるし、全員が敵になったりしないし、精神的・肉体的な苦痛があまりにもひどければ法的に解決できる。(例えば、わざわざ近づいてきて嫌みなどを言うような人には、裁判所が近づかないように命令できたり、精神的にまいったなら損害賠償を請求できる) ここまでされても続ける人は少ないだろう。
ところが学校では本人の知識不足、逃げ場がない事、裁判所や警察の役割となる先生が放置したりするため、いじめは深刻化する。
いじめに勝つには、相手をうち負かすか、いじめ自体への興味をなくすか、自分がいじめられても平気な人間になるかなどがある。ただし、何しろ相手のやり方が、精神的なものならトラウマになったり不登校になり人生がめちゃくちゃになるまでやるし、肉体的なものなら最終的には殺人までいくことさえあるため、うまくできるかは相手の過激さが問題になる。
大人同士でも、警察などが保護してくれない場合、相手が自分の人生をめちゃくちゃにしようとする、命を奪おうとする人に対抗するのは難しい。しかも、否応なしに毎日顔を合わせなければいけない相手だ。逆にいえば、相手がそれほどやる気がなければ、先生がちょっと言っただけで解決したりする事も多い。
いじめに関しては素人が多くの意見を出しているが、ほとんど役に立たない。特に良くないのが目標をもてば気にならなくなるとか、社会では多くの嫌なことがあるから我慢を覚えるのにちょうど良いという考えだ。
確かに、その時はうまくいくかもしれないが、それで成功するとかえって大人になっても、そのパターンにはまってしまう人がいる。ある人は、詐欺に近い行為をする会社に入ってしまったが、我慢するパターンが続いているため、詐欺的な行為を続けてしまっている。ずっと我慢を身にしみさせてきてしまったので、そういう事を我慢できない自分をかえって責めたてたりしてしまうのだ。
また目標をもつというのは人生を豊かにしたり、それ自体が楽しみになったりするが、いじめの克服に目標を使ってしまうと、苦痛を克服するのに目的を使うようになってしまう。人間的なふれあいや、豊かな感情をつちかってこなかったため、すべてが苦痛であるが、それらを克服するため、常に目標をもって行動する。それは歪んだ目標であり、目標自体が苦痛になってくる。かといって、目標をもつことが染みついてしまうと、目標をもたないで、のんびりと生きていくことが苦痛になってしまう。よってまた目標をもつの繰り返しとなる。そこには人生の喜びというものは、ほとんどない。
思春期は人生とはこんな感じで生きるんだよ、という事を体で覚えていくものである。学園祭というものとっても、ある人は大変楽しいものだ。人は自分を攻撃するものではなく自分を認めてくれる存在であり、自分を生き生きと表現できる場であるからだ。
ところが、これが苦痛の人がいる。人は自分のミスを見つけて責める存在であり、それがきっかけでいじめが始まるかもしれない、自分を生き生きと表現すればいじめの始まりだろう。
同じ学園祭をとっても楽しい人もいれば、苦痛でたまらない人もいるのだ。学園祭とは本来は楽しいものだが、それでさえ苦痛なら、ほかの事をまともにするのは難しいのではないか。
また、相手を不快に思わせないように努力するように言う人もいる。だが、それをやるのは難しい。相手は少しのことでも責めてくる。それらを努力して、気に入られるようになるのは良いが、大人になっても、すべての人にそのような態度をとろうとしてしまう。そうなると、精神的に大変疲労してしまい、なかなか社会に適応できなくなってしまうのだ。
いじめを克服する意見は多いが、それらは軽い気持ちで言っているようだ。いじめをする側も軽い気持ちでやっているが、同じ匂いを感じ取ってしまう。これは、いじめられている立場にたって本気で考えていない事からだろう。
いじめは嫌なものか
精神的・肉体的な苦痛を与えられたら嫌だと思うのが普通である。
これは人間として当然のことだ。友達でも恋人でも相手が嫌がることはやらないようにし、自分も嫌なことをされたら不快に思うものだ。
いじめを克服しようとする時、我慢するようにいったり、気にしないように言う人がいるが、下手をすると、このような感覚を克服しようとする子供いる。だが、こういう感情をなくせば、まともな人間関係は営めない。
相手に攻撃去れたり嫌がらせされたとしても、ある程度の我慢は大切かもしれない。だが、社会ではこれらは継続的・日常に攻撃を受けない事がほとんどだ。いじめのように継続的で日常的な攻撃まで我慢する必要は少ないだろう。
いじめの議論の難しい点
いじめについて書いていて難しいと思うのは、いじめというのが、あまりにも幅が広く、また過激さにも差があるためだ。
例えば、いじめを我慢しなければならないか、という問題でも、軽いいじめと、重いイジメでは大きな差がある。
暴力事件などでも、言い争いになって友達が軽く肩を突き飛ばして転んで怪我したくらいで警察に訴える人は少ないだろう。ところが、さんざん殴られ、失明し、足に後遺症ができた、これは警察に訴えることになる。
会社が被害者となる悪戯電話でも、一度程度なら警察に訴えないが、一日に100回にもなり、一年以上も続くなら、被害届を出す事が多い。
暴力などでも程度によって対応がまったく違うが、これはいじめなどでもそうだ。我慢するのも良いかもしれないが、すべて我慢する必要はないだろう。どのくらいのいじめかによって、その対応が決まるのに、すべてひとくくりに我慢しろとか、目標をもてとか、うまく相手とやれ、というのはおかしいのである。しかしながら、いじめの議論になると、全部ひとくくりの意見として訴える人が多いのも、このいじめの問題なのだ。