7月23日、次男の高校野球最後の日は、期待と感動を私の胸に閉じ込めたままで幕を閉じた。
今は無意識に出るため息ばかりが、虚しさを倍増させる。
家族が野球に熱中し始めたのは、長男が小学2年生の時だった。
毎週末、小学校のグランドで練習しているスポーツ少年団に、長男が見学に行き、そのまま入団したのがきっかけだった。
幼い頃から野球とは縁のある生活をしていたし、兄や姉の子供達も野球をしていたので
長男が入団した事は、どちらかと言えば当然のように受け止め、嬉しくもあった。
それから、毎週末のグランド通いが始まった。
息子はどちらかと言えば、体の小さい方だったが、それをカバーするものが何かあったのか?
4年生からはレギュラーで試合に出るようになっていた。
長男と3歳違いの次男も、いつの間にか当然のように見よう見真似で、グローブとバットを手にしていた。
長男が6年生になった頃、チームは市内でも1.2を争う強いチームとなり、長男はその時のキャプテンを務めていた。
5年生頃から体も成長してきて、小学生とは思えない体つきに、このままでは身長が伸びないのでは・・・と監督さんに心配された事もあった。
監督さんの心配通り、成長は高校1年で止まることとなるのだが、その時は体つきにも随分期待したものだ。
3年生の次男は、お情けで背番号を戴きベンチに入るものの、土遊びに忙しく試合に集中など出来るわけがないが、ユニホームの汚れは、何故か長男に負けず劣らずだった。(笑)
長男が中学に入学する時、一つの分岐点に立たされた。
小学校では軟式のスポーツ少年団にいたが、その時の監督さんから、硬式のシニアに入ったらどうかと進められたのだ。
野球少年の夢は誰もが「甲子園」
高校に入った時、すぐにでも通用するようにとシニアに入る事も考えたが
しかしそうなると、今まで一緒にプレーして来た仲間とは一緒に野球を出来ない事となる。
12歳の子供にとって何が大切か?そう考えた時、高校に行った時は否が応でも野球一色の生活になるのだから、中学校の友達と一緒に、野球を楽しんでも良いのではないか、と長男に言葉をかけた。
長男も同じ考えだったらしく、そう悩む事無く答えは出た。
中学野球に胸膨らませ、野球部に入部したが、その期待は1日目にして脆くも崩れ去った。
顧問の先生が野球経験がなく、おまけに練習も中途半端、練習議させ着ずにジャージで練習している様は、小学生以下だと息子ならずとも落胆したものだ。
そのようなチームが試合に勝てる訳も無く、息子はただただ自分たちの代が来る事を願って、我慢の日々を過ごしていた。
練習で補えない部分は、お世話になった少年団に寄る事で発散し、監督さんのお宅にお邪魔してトスバッティングもしていたようだ。
そんな苦労も水の泡となるかの様に、中学1年の夏に不注意から足を骨折し、秋の新人戦はベンチから外れた。
半ば中学校での野球を諦めかけた頃、息子の野球人生を左右する出逢いがあった。
中学2年生に進級した時、野球部の監督に新しい先生が転勤して来た。
後から分かった事だが、その先生は偶然にも、私の兄の高校時代の同級生だった。
秋にベンチから外れたままの体制で春を向かえ、初めての練習試合も息子の出場はないものと思いながらも
出る出ないに関わらず、チームの応援にと行った時、監督さんはいち早く息子を使い出していた。
口にはしていなかったが、骨折してからの長男の気持ちは、只ならぬものだったと想像する。
励ましとも、教えともつかない言葉をかける私も、言葉とは裏腹な気持ちで苦しい想いをしていた。
今にして思えば、あの時、監督さんの交代がなかったら、息子達の野球人生は全く別のものとなっていたに違いないと確信している。
監督さんが交代してからというもの、全てが一変し、待ちわびていたものが舞い込んで来たかのよう思えて
毎日息子の帰宅を待っては繰り返される私の質問攻撃に、少々うんざりぎみの長男だった。
もともと良いものを持っている子供たちが集まっていたチームが、それまでは宝の持ち腐れ状態だったが
監督が変わった途端に、新人戦の地区大会で優勝し、県大会に出場する事になった時、つくづく指導者しだいだと思った。
その年から転勤して監督さんが代わるまでの6年間の間、必ず大きな大会で優勝旗を持ち帰り
息子の母校の野球部は、地元でも一目おかれるようになった。
長男の高校進学は、やはり野球によって決められた。
中学2年の時から何校か誘いはあったが、最後は本人の意志に任せた。
その高校は私の実家の近くにあり、兄姉の子供達も同じ高校の野球部出身だ。
長男はとにかく野球一色の子だった。
高校野球イコール甲子園!!
高校球児が夢見るものは只一つ、それ以外の何ものでもなく、親子共々目指すものに向かう生活が始まった。
冠婚葬祭が無い限り、何を犠牲にしても週末はグランドに足を運ばせ、遠征にも必ず付いて行った。
3歳違いの次男も、中学で同じように野球をしていた為に、なるべくどちらにも顔を出すようにしていた。
練習試合で遠征した際は、高速を使っても少しでも次男の顔を見るようにも心がけた。
しかし、どうしてもメインは長男になってしまい、泊まりの遠征の時などは寂しい思いをさせていたと思うと
今でも心が痛い。。。
息子達は、特に長男は要所で必ず、監督の交代劇があった。
少年団の時も、中学の時も、そして高校の時も例に漏れる事なく、何故かその渦の中にいた。
小中学校は息子にとって、プラスとなる交代だったが、高校でのものはどうだったのか?首をひねってしまう。
どうして首をひねるのか・・・それはここではうまく表現できないと思う。
息子は中学まで、ショートで4番だった。
打つことが大好きで、素振りやトスバッティングを欠かさない子だったが、チーム事情でいつのまにか投手となり、バッテングより走る事に専念させられていた。
投手でも打つ子もいるのだが、新しい監督さんは、投手にバッテングは不要と思っていたようだ。
黙々と走る息子の姿を見て、本当にこのままで良いのか? これがやりたい野球なのか?
・・・疑問でならなかったが、親の私には成す術もなかった。
長男は私とよく似た性格で、時々衝突もした。
それは野球の話から始まる事が多かったが、多感な年頃のせいか、私からのアドバイスは聞こうとしなかった。
「野球を知らない人に言われたくない!」とさせ言われた。
息子にそう言われて、たたみ掛けた洗濯物を息子に投げつけ「何でも自分でやって来たと思ったら大間違いだよ!」と、今にして思えば、大人気ない怒り方をした事もあった。
その後も引くに引けず、無視した生活を2日も続けたのだ。
本当に可笑しな親子だと、我ながら苦笑してしまう。
しかし、高校生になった頃には、その反発心は全く消え去り、逆に調子の良し悪しのフォームを聞いてくるようになった。
私はビデオで息子の投球フォームを録画して、その結果を告げる事が日課になっていた。
息子にとって、投手になった事が良かったのか・・・それは今でも疑問だが
それでもエースナンバーを戴いた時は、「1」の数字がやけに眩しくて、背番号を縫う自分の手を、意味も無くじっと見つめていた事を覚えている。
背番号を縫いに寮に行った時、部屋の机の上に置いてあった、試合用の帽子を手にして思わず感極まった。
帽子のつばの裏に「親に感謝」という文字が書かれていたのだ。
その後、しばらく部屋から出ることができなかった。。。
最後の夏の大会で、嘘のように2回戦で敗退した時は、息子より親の私の方が立ち直れなかった。
息子は進路や今まで出来なかった事に挑戦しようと、どんどん前に進むけれど
親はそこで時間が止まってしまうのだ。
もう週末のグランド通いもしなくて良いのか・・・そう思うと、起き上がる気力もなくなっていた。
後輩の試合を見ても、息子達と同じ様な場面になると、その時を思い出しては涙が出てしまう。
勝ち進む試合を見ると、嬉しさ反面、虚しさが襲って居た堪れなくなったりもする。
その想いは、野球が終わった親にしか分からないと、前に兄から聞かされていたが、本当にその通りだと思った。
この想いは今でも続いていて、当時の仲良かったお母さん方と会えば必ず野球の話となり、決まって涙するのだ。
しかし、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかなかった。
次男が同じように高校生になって、甲子園を目指すからだ。
高校は勿論長男と同じ学校に入った・・・というより入って貰った。
それは次男の意思ではなく、長男が負けた時、もう他の高校は応援できないとう気持ちが強く、その願いを聞き入れて貰ったのだ。
でも、それは次男にとっては酷だったのかもしれない。
次男はいつも「○○の弟」として見られ、比べられていた。
当然入学前から、次男が野球部に入るという事は伝えられていた。
長男は野球一筋だったが、次男は野球よりも楽しい事が沢山あったのかもしれない。
どうすれば野球に集中できるか、長男との違いはどこにあるのか・・・とにかく心配は尽きかった。
見る人によれば、次男の野球センスは長男を越しているそうだ。
良いものを持っていても、それを出す術を知らない・・・歯がゆかった。
次男にとっての1.2年は、力を出すこと無く、あっという間に過ぎ去ってしまった。
それでも3年間、野球を続けられたら良いと、私は思っていた。
この高校の野球部で、3年間過ごす事の凄さを知っていたからだ。
その想いを息子に伝えてみた。
それからだったろうか・・・息子が本気になったのは。。。
雪が解け、最後のシーズンが始まる直前だった。
春合宿の次男は人が変わった様だった。
ガンガン飛ばす打撃に、皆目を瞠っていた。
中学までは、長男の追っかけで蔑ろしていたから、次男が高校に入ってからは、次男の野球一色で過ごして来た。
その想いが今ここで通じたと思うと、嬉しくてならなかった。
春合宿の練習を見れば、今後のメンバーも見えてくる。
次男は、今まで感じたことのない、苦しくも楽しい野球を知り始めていた。
しかし、良い時はそう続きはしなかった。
春の関東遠征に行った時、試合中に人工芝の上でスライディングキャッチをした際に、手首を骨折したのだ。
観客席からうずくまっている息子の姿を目にした時、私の体は硬直し、動くことができなかった。
次男は遠征先から強制退去となった。
自宅に戻った次男は、妙に大人しかった。
春の大会はもうダメだと分かっているからだ。
私は、そんな次男に励ます言葉を懸命にかけた。
焦点は「夏」だと・・・。
今年のチームは、お世辞抜きに選手層の厚いチームだ。
投手も打者も、注目選手が揃っていた。
そんな中、春に出遅れて、夏に間に合うか・・・息子のいない穴はあっという間に誰かが埋める。
しかし、諦める事だけはないようにと、毎日寮にいる息子に電話をし、時間のある時は顔を見に出かけて行った。
私みたいな親は特別ではなく、殆どの親はこうゆう想いで息子達と接していたはずだ。
通い生もいるが、半分以上は親元を離れて寮で暮らしている。
3時間もかけて、ほんの一瞬息子と接する時間を持ち、又3時間かけて帰って行く親もいた。
子も親も目指すは一つ!「甲子園」だから。。。
次男にとっての最後の夏は、私の追っかけ人生の最後でもあった。
夏の大会は異様だ。
秋や春、東北大会といろんな大会はあるが、この大会だけは何かが違っている。
空気も重く、息苦しささえ感じて、めまいを起こしそうにもなるのだ。
負ければ、そこで何もかも終わってしまうから・・・。
でも、今年は自信があった。
息子は残念ながら、レギュラーにはなれなかったが、ベンチには入ることが出来た。
長男の時にそうしたように、次男の時も背番号を縫いに、寮まで行った。
長男が「親に感謝」と書いてあった試合帽、次男の物には「甲子園」と書いてあった。
準決勝のシートノック・・・いつもなら内野の球捌きを重視して見ているのだが
その日は、外野にいる息子の姿だけを追っていた。
一戦、一戦を大事に、終わりは決勝戦と思って挑んで来たが、何故かその日は妙に息子を見ていたかった。
バックホームの返球が矢のように飛び込む様も見逃すほど、私の目は息子に釘付けだった。
そして、それが野球をしている最後の息子の姿となった。
甲子園は遠かった。。。
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