2002年12月8日 父が他界した。
享年77歳、大往生だと皆が言う。
何をもって大往生と言うのか・・・年齢的にはまだ若いはずだが
逝き方が静かに安らかだったから、そう言うのか・・・。

臨終時間は正式には定かではない。
病院で臨終を認められた時間が、9時36分という事にはなっているが
実際はそれよりも、かなり早い時間だったはず。
朝起きて来るのが遅いので、義姉が様子を見に行った時には、もう息はなかったと言う。
朝方にトイレに起き上がり、布団乾燥機をかけた形跡があり、その為父の体は温まっていて
救急車を呼んでも断られることなく、病院まで運んで頂いたのは、父の計算通りに思えてならない。
逝く前の行動や言動は、無意識ではあっても、予知しているかの様な事があるとよく聞くが
父も今にして思えば・・・というエピソードは数多く、その出来事を聞いて驚く人も多かった。

その日私は、とある温泉にバレーボール仲間との忘年会で、前日から泊まっていた。
朝食を済ませて、そのまま朝の露天風呂を満喫していた頃、実家では大騒ぎとなっていたのだ。
部屋に戻ると、私に外部からの電話が入っていて、電話の向こうは、親しい親戚だった。
家族以外の人からの電話に驚くと同時に、咄嗟に察するものがあり、冷静では居られなかった。
親戚からの電話は、父が倒れたから病院に早く行くようにと、ただそれだけだった。
今度こそ駄目かもしれない・・・誰かに聞かせる訳でもなく、独り言をつぶやいていた。
携帯を見ると、何件もの着信履歴と1件の留守電があった。
留守電は兄の声で、父の死を知らせるものだった。
私に電話をくれた親戚の人は、病院までの道中を気遣って、倒れたとだけ知らせてくれたそうだ。

幸いにも泊まった温泉は、実家から車で30分ほどの場所にあり、病院にも近かった。
しかし、温泉を出てから病院までの時間はいつもより長く感じられ
その間、実家の甥から私の到着を待ちわびて、何度も携帯に電話が入った。
病院に到着した時、義姉が中から出て来た。
その時の義姉は、言葉を発する事を忘れたかの様に、何度様子を聞いても
手を病院内に向けるだけだった。早く父に会いに行けと言わんばかりに。。。
病院の中へ入ると、呆然とした兄と姉の姿があり、本当に父が逝ってしまったのかを確かめると
姉は首を縦に振り、兄が「本当だ・・・。」と静かに口を開いた。

父は小柄な人だった。体重も50Kgあるかないかの・・・。
若い頃はとても丈夫な人で、風邪で寝込んでいる姿を見たことも無いほどに。
反対に母は、父より体重的にも勝っており、それに反比例して体は弱い人だった。
私が結婚してからの母は、入退院の繰り返しで、手術した回数も両手では足りない程だ。
そんな時の父は、献身的に母を看病し、離れた病院にもよく通って行った。

6年前のある夜、お酒に酔った父は足元を滑らせ、転んだ勢いで頭を怪我した。
打った場所を心配し、一応大事をとって検査した時、偶然にも脳の中の瘤が見つかった。
母と私たち兄妹、それに近くに住んでいる叔母(父の妹)が病院に呼ばれ、検査説明を受けた。
丈夫な父が入退院を繰り返す事になるのは、この時がきっかけだったと思う。

医師は、瘤を早期に取り除いた方が良いと説明した。
瘤のある場所が場所だけに、通常以上に家族への説明が必要だったらしく
兄はその時、幾度か医師に質問をし、納得した上で手術に同意をした。
手術はその説明を受けた日から、そう日を空けずに行われ、当日私は朝早く病院へ向かった。
父の病室のドアを開けた瞬間、頭の毛を綺麗に剃られた父が椅子に座っていた。
その姿が痛々しく、やけに老けて見えた父に、不本意にも涙を流してしまった。
その事を兄と姉に一括され、気持ちの弱さに反省した事を覚えている。

手術はかなりの時間を要した。
私たち兄妹は、母の手術で何度も病院で顔を合わせているが、あの時程長い時間待ちわびた事はなかった。
朝一番に手術室に入った父が戻って来たのは、辺りが暗くなってからだった。
手術後の説明で、瘤は手術中クリップで止めた瞬間破裂したそうで
あのまま知らずにいたら、間違いなく1年以内に脳の中で大出血を起こしただろうと伝えられた。
酔って転んだのが不幸中の幸い、父は間違いなく長生きするだろうと、冗談のように兄妹で話したものだ。

その後の両親は、とにかく入退院の繰り返しだった。
何の病気で何処で手術したか、誰かに尋ねられても首をひねる程で
兄は両親の事を笑い話の様に「入院が趣味だ」等と言うくらいだった。
しかし母だけは、自分と父の病名と手術日を明確に覚えていた。
一覧表にして記載もしてあるのにも驚いた。
入院を繰り返す度に、看護婦さんによる今までの病状調査なるものが有った際に、その紙を見せるのだ。
それを得意げに見せる母を横目に、決まって私と姉は、顔を見合わせて苦笑していた。
その数ある闘病生活の中で、大げさな表現かもしれないが、父と母の運命を変える出来事が2つあった。
1つは母の脊髄腫瘍を取り除いた時だ。

あれはどれくらい前になるだろう・・・。
父の脳の手術後、2年位後だったと記憶しているが、あの時も心の何処かで覚悟して母を手術室に見送った。
母は随分前に足を骨折して、その時から持病の腰痛と膝通が、より重いくなり悩んでいた。
本来は膝の手術の為に、私の住む町の病院の名医を頼って来たはずだったが
膝と同時に腰も診て頂き、検査をしている段階に、腰の担当の若い女性の医師が
症状が普通でない事に疑問を持ち、何度も自分の尊敬する医師に相談に出向いてくれ
結論が出るまで幾度もの検査を行い、結果、母の脊髄腫瘍を発見してくれた。
早急にその腫瘍を適切せねば、命に関わるとの事で、緊急に大学病院に転院し、即、摘出手術となった。
手術の際、1本の神経切断をやむを得なく要求され、その結果、母は下半身麻痺となった。

あれから4年も経つだろうか・・・母は車椅子の生活をしている。
切断されてた神経は、母の足の自由を奪った挙句、胸部の痛みを起こして、日夜となく母を苦しめている。
その痛みがどれ程のものか、残念ながら私には理解できない。。。
しかし、脊髄腫瘍を見つけて下さった、若い医師には本当に感謝している。
もしあの時、そのまま知らずにいて、膝の手術を行っていたとしても
一時歩行はできたかもしれないが、命は無かったかもしれない。

運命の出来事の2つ目は、2年ほど前の父の入院だった。
それまでの父と兄との関係は、実の妹の私が見ても、お世辞にも良い親子関係とは思えなかった。
私にしてみれば、優しい父と頼もしい兄だったが、結婚して外に出た私では理解できない蟠りがあったようだ。
しかしその関係が、父のその入院を期に一転する事となったのだ。

2年前の冬の夕方、私の携帯がなった・・・相手は実家の義姉だった。
「父が倒れたから直ぐ来るように」との知らせに、私は高速を飛ばして病院へ向かった。
通い慣れたはずの道も、父や母の様態に気を病みながら走る時は、まるで違う道を走っている様だった。
夜中に父の心臓が止まったと、入院先の病院から連絡が来た時も、母の卵巣腫瘍敵失手術の時も・・・。

病院に到着して見た父は、まさに生死をさ迷っている様で、あまりにも痛々しかった。
病名は「脳痙攣」という事だったが、医師からは覚悟するようにと伝えられた。
例え持ち直す事があったとしても、寝たきりは免れないだろうとさえ言われた。
医師の言葉通り、父はそれから何日も息をしているだけの状態だった。
お見舞いに来てくれた親戚も、その姿に涙して帰るほどに・・・。
それが急変したのは、どれくらい経ってからだったろう。
父の手先が動き、足が動き、言葉を発し、体が起き上がり、日に日に父は回復して行った。
それは、まるで奇跡が起きたかの様だった。
脳の動きが鈍い時もあって、可笑しな事を口にする事はあったが、父は復活した。

退院後の父は、まるで別人のようになった。
兄や義姉を慕い、いつも笑顔で、感謝を忘れない、可愛い老人となったのだ。
兄に言わせると「病院に悪いもの全てを落として来た」と、いう事らしい。
その代わり、兄とうまく行っていない時、私と姉が父と母が入退院する度に
通い続けた事も、綺麗さっぱり忘れてしまったらしいが。。。(苦笑)
それからの兄は、本当に父と親子らしい時を過ごしていた。
実質的な親子関係は逆転していたが、それが尚更、兄には可愛い父となって心に残っているらしい。
義姉も本当に父を大事にしてくれた。
可笑しな事を言う父をからかって、笑い話のように私達に日々の暮らしを教えてくれた。
そして孫たちも・・・実家は、絵に描いたような楽しい家庭となっていった。

義姉と姉と私の3人の関係は、単なる兄の連れ添いという事から始まったが
父や母の看病を共に協力し合う事により、私たちは深い絆で繋がったと言っても過言ではないと思う。
確かに最初から心の優しい人で、私が中学2年から一緒に暮らしていた事もあるだろうが
嫁いだ私が、実家に行く回数が少なくなると、わざわざ電話をかけてよこし
「来ないの?」と、誘ってくれるような人だったが、「血の繋がり」に勝てるものではないと思っていた。
しかし今では、その「血の繋がり」以上のものもあると確信している
兄には遠慮する事はあっても、義姉には何でも相談できる。
実の姉と行動する時は、必ず側に儀姉もいて欲しいと思う。
それは、父を本当に大切にしてくれた、義姉への私と姉の心からの想いだ。

そのような幸せな時を過ごして、父は独り静かに逝った。
兄は父と母の為に、車椅子でも生活できるようにと、家を新築したばかりだった。
しかし、父はその家で生活する事はなかった。
仏壇と神棚だけを収めて、新しい家を孫におぶさりながら眺めた翌日に旅立ったのだ。
あれ程、何度も死の境をさ迷って、三途の川の前まで行っても戻ってきた父だったから
そう簡単に命を落とすことは有るまい、絶対長生きすると思っていたのに
最後は本当に呆気なく、誰にも会わずに逝くなんて・・・。

父との最後の別れの時、いつも気丈な兄が泣いてるのを見た時、私は自分の目を疑った。
確かにここ数年は、父とも平穏には暮らしていたものの、私の心のどこかでは
この人は、例え親が亡くなったとしても、決して涙する事はないだろうと思ってた。
それなのに、兄は堪え切れなくなり、人目もはばからず声を出して泣いた。
父との最後を悲しむと同時に、兄の人間味溢れる姿に、私の胸は言い様のない感情で溢れ
それは、泣く事でしか表す事のできない想いだった。
葬儀の席で兄は、「父親の分まで母親に親孝行の真似事をしたい。」と言った。
私たち姉妹は、この言葉に感動し、母も一番心に残ったそうだ。
その事を兄に言うと、一種の照れ隠しだろうか「真似事と言ったはずだ。」と、そう応えるのだ。

ともすれば暗くなるような両親の闘病生活だったが、もって生まれた性格と
何事も笑い飛ばしてしまう兄妹だったがゆえに、淡々と時を過ごして来れたのかもしれない。
兄はよく「家は両親健在ではなく、両親不健在だ!」と言って私たちを笑わせてくれたが
今となっては例に漏れることなく、どんな形にせよ、親には生きていて欲しいと思うものだ。
母は今回の自分の入院生活が長く、4年も父と別々に暮らしていた為に、父の死を知った時
「1ヶ月でも、1週間でも、1日でも良い、最後に一緒に暮らしたかった。」そう言って涙した。
親孝行の真似事と言って建てた家に、父を住まわす事は出来なかったが
最後の退院となる事を祈って、父が逝って丁度2ヶ月、4年振りに母が帰って来た。
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