デイヴ・デイヴィス(キンクス)インタビュー
祝!キンクス・オリジナル・ジャケット・コレクション12タイトル一挙発売!でもってデイヴ・デイヴィスのインタビュー完全版をお届けしよう。
実はこのインタビューは昨年(99年)7月30日にニューヨーク滞在中のデイヴ・デイヴィスを国際電話にてキャッチ、僕(小松崎)とデイヴとのやり取りを纏めたもので、ビクター(JVC)のオフィシャルなものとして使用されてきたものである。このうち一部を抜粋したものは「ザ・キンキー・ファイル」(シンコー・ミュージック刊)やタワーレコードのフリーペイパー「bounce」等で既に使用されてきたので、ご覧になられた方も多いだろう。字数の定められた原稿ということもあって、それらはある程度エディットや大幅なカットをせざるを得なかった。今回は、その完全版である。というわけで、一部のオフレコ話を除き、ここではデイヴが語ったことをほぼありのままに掲載してみた。通訳は大ベテランの川原真理子さんにお願いした。それでは純度100%のデイヴ節をご堪能ください。
(●=小松崎、○=デイヴ・デイヴィス)
●本日はお忙しい中、JVCのオフィシャル・インタビューの為に、お時間を割いていあだきありがとうございます。まずは貴方の近況からお伺いしたいのですが、昨年の夏には息子のラッセルさんとの共作でアルバム『PURUSHA AND THE SPIRITUAL PLANET』をリリースされましたよね。このアルバムを出すことになった経緯について教えてください。

○『PURUSHA AND THE SPIRITUAL PLANET』は、ラッセルと僕が書いた物語のサウンドトラックなんだ。息子は20歳で、クラシックの教育を受けて来たがコンピューターにも興味を持っている。音楽は実はまだ進行中で、これから作るアニメ映画の物語に沿って作っているんだ。最初は断片的なアイディアしかなかったんだが、突然二人とも全体のアイディアが湧いて、小さな男の子がファンタジーの旅に出て不思議な惑星へ連れて行かれる、という物語が出来上がった。要するにスピリチュアルな旅なんだが、ファンタジー・ストーリーでもある。これは僕のホーム・ページを通じてしか手に入らないんだが、じきに店頭にも並べられればと思っている。そして来年には実際にアニメ映画も制作したいと思っているんだ。とてもエキサイトしているよ。音楽が物語全体を際立たせていて、音楽で情景を描いているといった感じなんだ。それに、息子と一緒に仕事をして二人のアイディアをまとめるというのは素晴らしいことだよ。すごくエキサイティングだ。

●日本でも話題となったのが、昨年の秋にイギリスではCASTLEから、アメリカではVELVELから発売された2種類のアンソロジー『DAVE DAVIES ANTHOLOGY 〜 UNFINISHED BUSINESS 』でした。貴方自身のお気持ちの中で、これまでの35年間のキャリアを振り替えるとい った作業はどのようなものでしたか?

○これには新曲も入っていて、それこそがこのアルバムを出した目的であると言ってもいいんだ。アンソロジーとしては、「You Really Got Me」から80年代から今までのソロの 曲が入っている。そして僕はまだ音楽をやっているんだよということがテーマになっているんだけど、昔を振り替えるのは面白いね。こんなに早く過ぎて行ってしまったのが本当に不思議だ。一番不思議なことだよ。ミュージシャンの息子がいるなんてね。ミュージシャンの息子はもう一人いて、サイモンと言うんだが、年月がほとんどたったの1分で過ぎてしまったかのように感じられるのが本当に不思議だ。あれだけたくさんのことを一体どうやってこなして来たのかも不思議だよ。でもこのアルバムには満足している。やっている最中は、なんで自分はここにいるんだろう、なんて思うものだけど、最後に作品全体を見てみるとすごくいいなと思ったんだ。だからリリースしたいと思ったんだよ。

●時代を溯って質問させてください。そのアンソロジー『UNFINISHED BUSINESS』には、THE KINKSの前身バンドだったTHE RAVENSのナンバー「I Believed You」が収められていますが、これは貴方がお書きになったものですよね。THE RAVENSのレパートリーの多くは貴方が書かれていたのですか?

○そうだね。おかしな話なんだが、僕はレイが曲作りを始める前から曲を作っていたんだよ。そしてTHE RAVENSも元々は僕のバンドで、レイはHAMILTON KING & THE BLUES MESSENGERSというバンドにいた。僕は学校でベーシストのピート・クウェイフと一緒に、THE RAVENS(訳注:”カラス”の意)というバンドを結成した。全身黒づくめだったよ。『THE RAVEN』というブラック・コメディ映画があってね、ピーター・ラリーなんかが出て いたんだが、僕はそれに興味があったんだ。とにかく、僕は若い頃から曲を作っていて、「I Believed You」はその中の最初の頃のものだね。レコーディングはしたけど、今回日の目を見るまでリリースはしなかったんだ。

●THE KINKSとしてデビューされる直前に、貴方はDECCAレーベルの歌手、SHEL NAYLORに 「One Fine Day」というナンバーを提供されていますが覚えていますか?

○覚えているよ。結構売れたっけな。(笑)

●「You Really Got Me」における貴方のギター・ソロは今日ではハード・ロック、ヘヴ ィ・メタルのルーツとして高く評価されていますが、60年代当時に、あのギター・ソロは革命的なものだったんじゃないか、と思います。当時ああいったサウンドが熱狂のうちに迎えられたことについてどのようにお感じになられましたか?

○きっとすごく熱心でクレイジーだったからだろうな。スタジオではそんなに時間がなかったんだ。200ポンドしか使えなくて時間に限りがあったんで、ちゃんとやらないといけ なかったんだよ。当時僕はすごく怒りっぽい性格だったしね。だからあのギター・ソロには緊張感がすごく感じられるんだ。サウンドやレコーディングそのものにしてもそうだけど、それがかえって良かったんじゃないかな。だからこそ、あの曲があんなに特別なものになったんだからね。

●60年代当時のTHE KINKSのサウンドには、ブルースやR&Bなどアメリカの黒人音楽か らの影響をダイレクトに受けた、例えばTHE ROLLING STONESYARD BIRDSのような連中とは、まったく異なるテイストがあったように感じられます。これには貴方たち兄弟の幼少期に身近にあった雑多な音楽が影響しているのでしょうか?

○まさにキミの言う通り!うちは大家族でね、姉が6人いたし、伯父や伯母や従兄弟なんかもいた。レイと僕は一番下だったんだ。で、姉の一人がカナダに住んでいたんで、その姉がいつもアメリカのレコードを持って来てくれた。それで、まだヨーロッパでヒットを飛ばしていない頃既にチャック・ベリーを聞いていたんだ。とにかく家には音楽があふれていた。父親はミュージシャンだったし、母親は歌手だったし、姉達はピアノを弾いていた。そしてそれぞれが別のアーティストを好きだったんで、僕は子供の頃ファッツ・ドミノペリー・コモから、バッハハンク・ウィリアムス、ヴォードヴィル・シンガーまで、実に幅広く音楽を聴いていたんだが、その影響はあとになってから出てきたと思う。もちろん、一番の影響は、ビッグ・ビル・ブルーンジージョン・リー・フッカーといったブルース・ギタリスト達から受けたけど、それはもっとあとになってからで、ギタリスト達を聴くようになってからだった。
 あと、エディ・コクランや、リッキー・ネルソンのアルバムで弾いていたジェイムス・バートンなどのギタリスト達からも影響を受けたね。これだけ幅広い影響があるから、きっと僕達の音楽はYARD BIRDSやTHE ROLLING STONESとは違うんだろう。僕達の音楽は、R&Bがベースになっていて、それをクリエイティヴにミックスしようとしていた。スタジオでは、僕達のバックグラウンド、子供の頃に受けた家族からの影響などを引き出した。そしてそれは音楽的なものだけではなく、性格的なものも含まれていた。初期のカントリー&ウェスタンもTHE KINKSの音楽に影響を与えているんだよ。
 広い意味ではTHE KINKSの音楽はフォーク・ミュージックであったとも言える。そもそ もフォーク・ミュージックというのは、家族が演奏して出来たものだからね。土曜の晩にみんなでビールを飲みながらピアノの伴奏に合わせて歌う、といったものだったんだからね。というわけで、THE KINKSの音楽は実に幅広い影響を受けているんだけど、それはす べて子供の頃の家族にあったんだ。家族の性格がインスピレーションになったんだな。

●65年のアメリカ・ツアーからの帰国後、THE KINKSのサウンドはますます英国の香りを 漂わせたものになっています。初めて訪れたアメリカは、貴方たちにとってはがっかりするような国だったのでしょうか?

○僕にとってアメリカは、好きなミュージシャンのいる国だった。ジェイムス・バートンは素晴らしいギタリストで、僕のアイドルだったから、そういった意味でのインスピレーションはあったけど、実はアメリカにはがっかりしたんだ。マディ・ウォーターズやビッグ・ビル・ブルーンジーやバディ・ホリーといった人達がやっていたものと違って、60年代の音楽には中身がなくて、独自のものがなかったからね。でもTHE BEACH BOYSTHE BYRDSの大ファンではあったよ、この2つのグループだけは最高だった。THE BYRDSは、初期のアメリカのロック・バンドの中で影響力が大きかったと思うけど、アメリカの若者よりもヨーロッパの若者の方が彼らからのメッセージを早く受け取ったんじゃないかな。エルヴィスに代表される50年代のロックンロールなど、僕達はアメリカから音楽をいろいろと借りはしたけど、僕が初めて訪れた時の60年代中頃のアメリカの音楽は死んでいて、まだ50年代に生きているような感じだった。中身がなかったんで、僕はかなり失望したね。
  で、帰国後、僕たちはオリジナルな路線を歩むことになったんだ。そこで、さっきも言ったような幼少期の家庭環境が多いに役に立ったってわけさ(笑)。

●67年は世界的にサイケデリックなサウンドがもてはやされたわけですが、貴方自身のギター・プレイにはこういったムーヴメントは、いくらかでも影響を与えましたか?

○ある意味でTHE KINKSは影響を受けたね。「See My Friends」という曲があったんだが 、これはインドっぽいサウンドで、損失や孤独といったことについて歌っている。普通のラヴ・ソングとは違ったメッセージを打ち出していて、また別の考え方をさせるような曲だった。「See My Friends」は、同性の二人が会いたがっている曲とも取れるんであって、単純に男と女が出会って、結局男が女に捨てられる曲というわけではなかったんだ。アルバムのサウンドとしては、サイケデリックっぽくなっていたんじゃないかな。東洋からの影響がロックンロールに入り込んでいたけど、それはブライアン・ジョーンズがTHE ROLLING STONESにもたらしたもの、そしてジョージ・ハリスンがTHE BEATLESにもたらした ものと同じだ。
 当時サイケデリックが流行っていたのは、ドラッグやる人が多かったというのもあっただろうけど、僕達は幸いにも60年代後半にまたアメリカへ行く機会に恵まれた。アメリカへ移住したんだ。そしてヨーロッパ・ツアーを行なって音楽に専念することにした。その結果生まれたのが『VILLAGE GREEN PRESERVATION SOCIETY』といったアルバムだったけど、ここの曲はすぐには受け入れられなかった。物事を保存することについて語っているんだけど、当時はすべてを破壊してやろうという風潮にあったからだ。でも実際問題としては、古いものでもいいものは取っておき、中身のないつまらないものだけ排除すれば良かったんだよ。そういった意味で、今思うとTHE KINKSは時代の先を行っていたんだと思う 。当時は社会から阻害されていたけどね。アルバム『VILLAGE GREEN PRESERVATION SOCIETY』を見てみると、扱っている題材はとても90年代的なんだよ。だからとても90年代風のアルバムであると言える。

●『VILLAGE GREEN PRESERVATION SOCIETY』をTHE KINKSの最高傑作アルバムに挙げるフ ァンが多いのですが、貴方自身にはどのような思い入れがこの作品にありますか?

○僕はこれが最高傑作だとは思わないね。それぞれにいいところがあるもの。僕はその後に出た『ARTHUR』が大好きだな。あとTHE KINKSとしては一番最近出たアルバム『PHOBIA 』も好きだ。『LOW BUDGET』も好きだけど、『MISFITS』は思い入れのあるアルバ ムだ。というのは、あの時THE KINKSは解散していたかもしれないからだよ。でもやっぱ り続けようと僕とレイで決めたんだ。というわけで、とても重要なアルバムなんだよ。THE KINKSがTHE MISFITSに変わっていたかもしれないし、THE MISFITS(訳注:うまく合わ ないこと)っていう名前はピッタリだったかもしれないね。でも、あのアルバムのレコーディング中に解散しなかったのはすごいな。 とにかく、どのアルバムも振り返って見てみると、それぞれに思い出があるんだ。絵と同じで、その絵が好きなのには理由がいろいろあるだろう?絵はいろんなことを語りかけてくれるからね。インスピレーションや考えやフィーリングやイマジネーションもいろいろに違うんだ。

●「Creeping Jean」「Rats」といったナンバーでの貴方のギター・プレイには、再び初 期のハードな方向性が戻ってきたような雰囲気があります。当時はLED ZEPPELINなどのハードでヘヴィーなサウンドが主流となってきたわけですが、「元祖ハード・ロック・プレイヤー」としての貴方の目にはどう映りましたか?

○僕はジミ・ヘンドリックスの大ファンだったし、初期のLED ZEPPELINもすごくいいと思う。LED ZEPPELINの場合は大ファンというわけではなかったが、ジョン・ボーナムはロックンロール・ドラマーとしては最高だったんじゃないかな。当時はああいうバンドは他にもいたけど、ZEPPELINは当時とても重要なバンドだった。才能あるミュージシャン達だったしね。あそこのベーシストのことはよく知っていたけど、彼にも才能があったな。みんな才能があったよ。

●67年には貴方はソロで「Death Of A Clown」の大ヒットを放ちます。THE KINKS のギタリストとは別に、以後ソロ・シンガーとしてキャリアを積む選択肢もあったわけですが、結局そちらに比重を置くことはしませんでしたよね。それはなぜだったんですか?

○当時のマネージメントや友人はみんな、ソロでショウをやってソロ・アルバムを作ればいいと言っていたんで、僕も実際スタジオへ行ってソロ・アルバムのレコーディングを始めたんだ。楽しかったけど、ソロ・パフォーマーになりたいとは思わなかった。だから、あれは突如として起こったことなんだ。自分で歌って楽しめる曲を書いて、それでテレビ出演して、気がついたら大ヒットしていたんだけど、なんか心地悪かったんだな。やっぱり僕はバンドでやりたかったんだ。やっぱり僕にはバンドが一番なんだ。複数の人間と一緒に作業するのが好きだったんで、ソロでやるのがいやだったんじゃないかな。

●60年代後半から75年までTHE KINKSは、いわゆる大作主義というかコンセプト・アルバ ムを次々に発表していきます。貴方自身はレイ・デイヴィスのこういった路線には否定的だったという証言もあるのですが、実際のところどうだったのでしょうか?

○70年代初め当時の僕は、ロック・ビジネスに幻滅していた。当時流行っていた音楽も好きでなかったし、人間としても楽しい時を過ごしていなかった。『LOLA』のあとレイは個人的な問題をいろいろと抱えていて、自殺未遂したこともあった。僕がいやだったのは音楽ビジネスだけだったけど、そろそろ終わりにした方がいいかなと思ったんだ。ところがその後スタジオを建てて、僕は機材の調達とかを手伝った。
  そうして『PRESERVATION』などが生まれたんだ。あのアルバムのエンジニアリングは、実質的には僕が全部やったけど、それは機材のことを知っているのは僕だけだったからだよ!(笑)  そうして次から次へと事は運んだけど、クリエイティヴなものを吐き出すという点ではとても興味深い時期だった。アイディアはたくさんあったけど、それがどうまとまるかわからなかった。でもそうして出来たのが『PRESERVATION』だったんだ。このアルバムのコンセプトが好きだな。いつかこれが映画になったらいいと思うんだけど。だって長い話なんだもの。『TOMMY』や『ROCKY HORROR SHOW』もいいけど、『PRESERVATION』はもっと内容が深いから、素晴らしい音楽ドラマが映画になると思うんだけどねえ。
 SOAP OPERA』の頃になると、コンセプトものをやるのにちょっとウンザリしてしまって、またロックンロールに戻りたいと思うようになったんだ。アルバム『SLEEP WALKER』はTHE KINKSにとってターニング・ポイントとなった。またロックバン ドに戻ったからだ。僕も生き返った気分だったよ。72年〜74年当時は精神的に死んだも同然だったから、内面から新しく生まれ変わる必要があったんだ。音楽ビジネスは過酷だから、食い尽くされてしまうことがある。そして何も残っていないことに気づくこともあるけど、僕はまさにそう感じたんで、やり直さないといけなかった。ヨガのレッスンを受けて、精神性といったものに興味を持つようになった。ヨガが僕のクリエイティヴな命を救ってくれたと言ってもいいだろう。僕の内面に恵みと希望をもたらしてくれた。新たに生まれ変わったんで、70年代後半に『SLEEP WALKER』を作った頃にはTHE KINKSの音楽はさ らにパワフルになっていたんだ。

●ちょうどその頃パンクが出て来ましたが、イギリスでのパンク・ロックの出現はどう感じられましたか?

○ほっとしたよ。SEX PISTOLSは作られたバンドではあったけど、それまで音楽業界に巣 食っていたガラクタがすべて一掃されたという点でほっとしたね。ビジネス的には音楽が産業となって、不実で、アーティストの才能ではなくエゴの方に焦点があたってしまっていた。それがイギリスで新しいものが生まれて、すべてを一掃してくれたんだんで、僕は素晴らしいことだと思ったね。CLASHなんか大好きだったけど、偶然彼らもTHE KINKSのファンだったんだ。JAMもTHE KINKSが好きだったんだよ。みんな僕達の音楽にインスパイアされていたんだから、おもしろいよね。世代は違っても、考えていることは同じだったりしたんだ。あれはとても重要な時期だったと思う。
 アメリカではDEAD KENNEDY'Sがとても重要で、政治色の濃いアグレッシヴな音楽をやっていたけど、彼らには同時にユーモアもあった。そこが重要だったんだ。

●80年にはファン待望のファースト・ソロ『AFL1-3603』を出されますが、この中のナン バー「Run」が日本のファンには今なお人気があります。アルバムは、ほぼ貴方お一人の 多重録音によるものですが、このアルバムをこの時期に制作するに至った経緯について教えてください。

○何曲かでドラマーとベーシストを起用したし、「Run」では友達でドラマーのニック・ トラヴィジックを起用したし、ベーシストも起用した。でもその他はほとんど自分一人でやったんだ。デモを作った段階で既に満足していたんで、スタジオ入りして他のミュージシャンとやると、どう表現していいのかわからなかったからだよ。僕としては、僕が何も言わなくても僕が思っている通りにみんなにやってもらいたいんだ。あまりにも長い間レイと一緒にやって来て、レイとだと以心伝心で言いたいことが伝わっていたから、言葉にして時間を無駄にしなくても良かった。そういうやり方で他の人達ともやりたかったんで、コミュニケーションに問題があったんだな。それで、うまくやる唯一の方法は僕一人でやるという結論に達したんだ。ジョン・ローロという素晴らしいエンジニアと一緒にアルバムを作ったんだけど、すごくうれしかったな。いまだにこれは僕のお気に入りのアルバムだよ。  セカンド・アルバム『GLAMOUR』では、僕の中にある哲学的、精神的なアイディアをも っと出したかったけど、業界の人達はちょっと暗すぎるアルバムだと思ったんじゃないかな。今世紀が終わってホロコーストが起こる、みたいな感じは80年代の人々には理解できなかったんじゃないかな。彼らは富や車や株式市場に興味があったんであって、暗い部分のことは知ろうとしなかった。ちょっと早すぎたんだろうな。アルバム・タイトルは『GLAMOUR』(訳注:”魅惑”の意)だったけど、実際には逆のことについてで、”魅惑でな いもの”についてなんだよ。「”魅惑”には気をつけろ。袋小路にはまってしまうかもしれないから」という警鐘の意味が込められているんだ。

●83年のサード・ソロ・アルバム『CHOSEN PEOPLE』は、サー・ジョージ・キングなる人 物に捧げられたものだとのことですが、その人物との出会いについてお聞かせください。

○僕は1982年にものすごく奥深い心理的体験をしたんだ。THE KINKSがアメリカ・ツアー を行なっていた時だったけど、そのことについては僕が書いた本「KINK」に載っている。今度日本でも発売されるんじゃないかな。その体験の中で、音楽、エネルギー、音、光、エフェクト、考え方、世界に対する見解といったものがすべてつながっていることがわかったんだ。それまでは人間のイマジネーションが音楽、音、色などとつながっているなんて思ってもみなかったのが、実はすべてつながっていて、一定の振動をしていることがわかったんだよ。そういった奥深い体験をしたんだ。知的生命体とテレパシー交信したんだが、そのうちの一人は僕の魂を常に導いてくれていたそうだ。そして人間の相互関係、大変なのにあえて関係を結ぼうとするかなどについて教えてくれたし、好むと好まざるとに拘らず、人はそうしなければならないんだということも教えてくれた。見かけがどうであろうと、常に相手のいいところを探すこともね。人それぞれに状況は違うけど、魂が輝く時というのがあるから、人の中にそれを探さないといけないんだよ。  あと、この地球上に実際に暮らしている知的生命体もいた。彼もまた、その他の知的生命体と魂がつながっていたんだが、その人の名前がサー・ジョージ・キングだったんだよ。彼とは後にロサンゼルスで会ったんだ。彼は僕の体験についていろいろと説明してくれたし、彼自身に起こったことについても説明してくれた。2年前に78歳で亡くなったんだが、彼は僕がこれまで会った人の中で最もサイキックだったよ。人を癒せるものすごいパワーの媒体であったんだ。実際彼が人を癒しているのを見たことがある。この人の存在にいたく影響されまた感動したし、僕に起こった様々な不思議な現象についても彼は説明してくれた。あの頃の僕は、精神的に成長する時期にあったんだな。だからあの男と出会えて幸せだった。

●95年には映画『VILLAGE OF THE DAMNED』の音楽を担当されていますが、実際に映画音楽の領域に入ってみて如何でしたか?

○素晴らしかったよ。以前からやりたかったことだったからね。『PURUSHA AND THE SPIRITUAL PLANET』みたいな感じだけど、これは基本的には映画のためのサウンドトラックなんだ。但し、映画はまだ作られていないけどね!(笑)バックグラウンド・ミュージックの仕事をするのは好きだよ。あの映画でジョン・カーペンターと一緒に仕事ができてとても楽しかった。こういうことはまたやりたいな。

●THE KINKSとしてのオリジナル・アルバムは『PHOBIA』以来、7年もリリースされてい ないのですが、またいずれ合流する可能性とかはおありでしょうか?

○THE KINKSのアルバムをまた作れればいいなとは思っているよ。僕とレイがいなければTHE KINKSじゃないけど、僕は楽観的にとらえているんだ。またアルバムを作るかもしれないし、僕としてはぜひともそうしたいね。

●今後の貴方自身の活動予定について教えてください。

○『UNFINISHED BUSINESS』のプロモーションのためのソロ・ツアーがアメリカでちょう ど終わったところなんだ。今度はヨーロッパでツアーをやりたいね。そして日本でもソロ・ショウが出来れば最高だな。僕の今のバンドはとってもいいロック・バンドだし、ミュージシャン達もとってもうまいからね。  あとはまた本を書いていて、音楽、エネルギー、数学、物理学などについて語っている。だから結構忙しいよ。僕が管理しているホームページも2つあるけど、こっちも楽しいんだ。

●息子さんと一緒に仕事をする時は、あなたから何かアドヴァイスなさったりもしているのでしょうか?

○たまにはね。僕はギヴ&テイクが好きなんで、息子のアイディアに対してもオープンだ。だからこそ、『PERUSHA AND THE SPIRITUAL PLANET』がとてもうまく行ったんだと思う。息子も僕もそれぞれに提案した、すごく自然なプロセスだった。すごく調和が取れていたし、とても興味深いプロセスでもあった。こんなに親密に誰かと仕事をしたことはこれまでなかったんだ。この世界にいる若者の中にはすごい連中がいるよね。暖かい人達がいるから、彼らが未来を建て直して作り直してくれるといいなと思っているよ。

●今後の音楽の方向性についてはどうでしょう?

○ただ来るもの拒まずだよ。でも今年はスタジオ入りして、新曲をレコーディングしたい。ロックン・ロールの曲になるよ。僕の心はやっぱりロックン・ロールにあるから、そこの分野で曲作りをやりたいんだ。それだったらまだまだやれる気がするんで、早くやりたいね。そして人間について、これまでまだ表現したことのないものについて表現したい。未来に対してはポジティヴにとらえているよ。

●貴方にとって音楽とは今後ともどういったものであり続けるのでしょうか?

○当初思っていたよりももっと意味のあるものになって来たと思う。最初はただ楽しんでパーティするだけのためのものだった。今でもそれはあるし、あってうれしいけど、年と共にわかったのは、人間にとって一番のコミュニケーションの一つが音楽であるということなんだ。音楽は言葉の壁を乗り越えられるし、イギリス人にも日本人にもアメリカ人にもインド人にも理解できる。音楽は、いろんなもののコミュニケーションに役立つと思うね。知性なくして、魂からの根源的な感情を表現しているのかもしれない。音楽だったら、魂からの感情を他のどの手段よりも早く伝えることができるだろう。たとえそれがちょっとしたフォーク・ソングだろうが、壮大なシンフォニーだろうが同じだよ。本物の表現でさえあればいいんだ。

●最後に、日本のデイヴ・デイヴィス・ファンに、何かメッセージをお願いいたします。

○あ〜、今夜君達のためにプレイできたらいいのに!(笑)日本は本当に楽しかったよ。日本の文化、日本の感性、日本人の人に対する敬いの気持ち、日本人の人に考える余地を与えるところ、すべてがうれしいね。早く行きたいから、また行ける日を楽しみにしているよ。その日はじきにやって来るはずさ。

●今日はどうもありがとうございました。

○こちらこそ今日は楽しかった。電話なんかじゃなく、そのうちキミの国でまた実際に会える日を楽しみにしてるよ。

(1999年7月30日:国際電話にて)