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勝手に番外編:スリランカ映画「サロージャー」@アジア映画祭

前から興味のあったこの映画、東京で観られるとは嬉しいことです。実は私、スリランカに2年住んだ経験もあって、民族紛争にはちょっとウルサいんです(笑)。「サロージャー」とても良かったですね。主人公の女の子が異常にカワイイ、変な意味でなく(笑)。ストーリー展開はオーソドックスながら丁寧で、落ち着いて観ることができました。同じく映画祭で上映されたスリランカの巨匠、L.J.ピーリス監督の「運命線」よりもはるかに引き込まれました。まあ、あっちは古くて見にくかったってこともあるんですが。
しかしながら思ったのは、この映画、タミル人には受け入れ難いんじゃないか、ということ。映画の中では、シンハラ人(=政府軍)の敵はあくまでLTTE(タミル・イーラム解放の虎)と呼ばれる反政府ゲリラであってタミル人じゃない、と強調され、主人公の少女の父親はLTTEに無理やり加入させられ、そして脱走した善良な人間として描かれています。
でも、実際には、一般のタミル人にもLTTEのシンパはたくさんいるし、現政府がタミル人への大幅な自治権委譲を可能にするべく憲法改正を目指しているのも、LTTEの「功績」と考えているタミル人はかなりいるわけです。その視点からすれば、LTTEの非道ぶりを強調する一方、古代シンハラ王朝が先住タミル王朝を駆逐したことを婉曲に否定的に描くだけでお茶を濁し、近い過去にシンハラ政権がタミル人を抑圧してきた事実には全く触れないこの映画は、タミル人にとっては納得できないのではないか。そう思わざるを得ませんでした。
もしこの監督が類似のテーマで次回作を作るつもりなら、LTTEのメンバーを主人公にしてほしい。それも自爆テロ決行前の、女性テロリストの内面の葛藤を描いてほしい。自爆テロ要員に選ばれるのは若い女性が多い(セキュリティーチェックに通りやすい、男は戦闘要員として温存したい等の理由による)のですが、自爆テロが「成功」すると、翌日の新聞は一面に必ず犯人の生首写真を掲載し、市民に情報提供を呼びかけます。当のテロリストはもちろんそれを知っています。いくら Freedom Fighter として「洗脳」されているとしても 、平静な心を保つことなんてできるのだろうか。
「Dil Se...」を観つつ、新聞に載ったマニーシャの生首写真をつい想像してしまったものでした。そして、自爆決行直前のテロリストが恋に落ちる(しかも敵側の男と!)なんてことは果たしてあり得るのだろうかと。

ついでながら、「インド映画の掲示板」より
>プラ・サイト...のウェヴマスター氏はスウェーデン在住のタミル系スリランカ人(男性)でした。

1983年のコロンボ暴動で欧州に逃れたタミル人難民なのかなあ、と思った次第。

(dirty mind/aka kubo/Dec.21,2000)


「ディル・セ 心から」の私なりの感想です。「ディル・セ 心から」は、日本では1998年の東京国際映画祭版(歌&踊り無し版)と2000年の劇場公開版(歌&踊り有り版)の2バージョンが上映されました。
この2本を観てどちらが優れているかと問われたら、東京国際映画祭で上映された歌&踊りの無いバージョンの方であると言わざるをえません。その理由は、この映画はベースが社会性の強い、サスペンス・タッチの映画だということです。(もちろんこの映画にはラブ・ストーリーの要素もありますが、それは従の要素でしかありません。また、シャー・ルク・カーンもラブ・ストーリーの主人公というよりはストーカーにしか見えません。)
もちろん映画に音楽はあってもかまいませんし、雰囲気を盛り上げるために必要だと言えるでしょう。しかし、必要以上の音楽はいりません。劇場公開された歌&踊りの有るバージョンを観ていると、歌と踊りによって、この映画の持つ流れが妨げられている、切られていることを感じます。歌と踊りが、この映画の持つ社会性、サスペンス・タッチにそぐわなく、むしろ壊していると言えます。ビデオやテレビで映画を見慣れている人たちには、映画の流れが切れることに抵抗はないのかもしれませんが・・・。まあ、1曲目の「チャイヤ・チャイヤ 愛の影」は、これから映画が始まりますよという意味もありますから、あってもいいと思います。この曲は良い曲です。

「ロージャー」を初めとするマニラトラムのいくつかの映画を観ると、コスタ=ガヴラスを思い出させます。マニラトラムが コスタ=ガヴラスを知っているかどうかわかりませんが興味深いことです。 あくまで私の想像ですが、歌と踊りの有るバージョンは、インド国内向け、お金を稼ぐためのもので、マニラトラムは、歌と踊りの無い「ディル・セ 心から」を作りたかった、というのが本音のような気がします。東京国際映画祭に歌と踊りの無い「ディル・セ 心から」を持ってきたのは、それが彼の一番の自信作だからではないのでしょうか。もし、歌と踊りのあるバージョンが彼の自信作なら、映画祭側から歌と踊り無しバージョンを要請されても断ればいいわけです。まあ、映画祭で上映してくれるのだから、言われたとおり持ってきたと言われると困りますが・・・。ちなみに今年の釜山国際映画祭でもスケジュールやカタログを見ると、彼の最新作の“Waves(Alaypayuthey)”が2時間15分の短い版で上映されたようです。

歌と踊りの有る無しには関係がないのですが、キャスティングも気になるところがあります。主演のシャー・ルク・カーンです。誤解のないように書いておきますが、私はシャー・ルク・カーンが嫌いなわけではありません。日本で上映された「シャー・ルク・カーンのDDLJラブゲット大作戦」や「ラジュー出世する」などでは、彼は魅力的な演技を見せていました。ライトコメディでその才能を発揮する俳優です。 しかし、この映画では違います。シャー・ルク・カーンは、インドにありがちなあくの強い男優です。マニーシャ・コイララを含め、彼以外の俳優はこの映画に溶け込んでいるのですが、シャー・ルク・カーンだけがどうしても浮き上がってしまっています。確かに主演ですから目立つことは必要かもしれませんが、この映画の主役は、単に目立つのではなく、控えめに存在感を強く出す必要があります。そのような男優がインドにいるのかどうかはわかりませんが・・・。マニラトラムは興行を考えて、つまり、この映画をヒットさせるために客を呼べるシャー・ルク・カーンを主役に持ってきたのではないでしょうか。
・・・と、まあ長くなりましたので、ここまでにしておきましょう。

(Zさん/東京/Oct.22,2000)


この映画は壮大なラブストーリを描いた娯楽映画ではあるが、同時にストーリを通して訴える社会的問題提起が非常にリアルに感じた。
最初にこの映画を見た時(見終った時)、大変重いものを感じていた。それは少しあっけにとられてしまった非劇的なラストシーンの瞬間だけでなく、その後からじわっと心の中に押し寄せてくるものであった。それはなんなのか。そんなことを考えながら、2度目の観賞(映画館では初めて)をおこなった。

まず、2度目に観賞するとメグナの発する言葉の一言一言が非常に印象深かった。
たとえば、
アマルとの会話でメグナが「私には時間がないの」と言う。
また、なにげなく「私は死ぬわ」とつぶやく。
そして、アマルから去る際に砂の上に書いた文字。
「砂に書いた名前のように、一陣の風に吹き消されるはかない命」

この時点では、アマルには全く本当の意味が理解できない。そして初めて見る観客にも。しかし、2度目に見るとメグナの覚悟とラストシーンへのつながりを感じずにはいられなかった。
ラストシーンでメグナはアマルの愛に必死になって応えようとしていた。しかし、言葉を発するか発しないかの内に爆風とともに消えてしまった。この最後の爆破を迎えるまでの瞬間がクライマックスであるが、そこで一言「愛してる」というはっきりした言葉の後にあのシーンがあれば見終わった後の印象はかなり違ったものになり、少しは気が楽になっていたと思う。
そこでやはり言えなかったところに、社会問題の切実な訴えを感じ取らずにはいられない。それがこの映画を見終わった後にこれまで重くのしかかってきたものであることが今回見て分かった。
つまり、愛の言葉を発することは自己犠牲の上に成り立っている同胞達を裏切ることだけでなく、自分の過去を許し、自分自身のこれまでの人生を否定することにつながるがそれはやはり出来なかった、とどうしても受け取ってしまうのである。

また、この映画では社会的問題のリアルさは描写にもあらわれていて、前半、具体的に地域を特定するようにネパールやチベットの美しい景色を映し出したり、後半、この地方の人々が政府からひどい扱いを受けてきたことがなまなましく描かれていた。
これは単にフィクションの中の出来事でなく、現実問題の切実な問題であるということを感じずにはいられなかった。
ただ、この映画では訴えているものにはあまり強い主張がないようにも思えた。それは、最後のシーンでメグナが言葉を発するか発しないかの内に吹き飛ばしてしまった点に表れてはいないだろうか。監督自身が主張を迷ってしまったのかもしれない。

今回、このように映画を見ると見た後に本当に疲れた。しかし、この疲れを癒すように(あえて?)挿入されているミュージカルシーンはよかった。特に最初の「チャイヤチャイヤ」は。しかし、ストーリに集中すればするほど少しミュージカルシーンがストーリを中断しているように感じる点もなきにしもしもあらずであった。特に最後の2つのミュージカルシーンは、もう少し控え目なものでもよかったのではないかと思う。確に映像は非常に美しく曲自身もそれ単体で聞けばいいのだが。
まあ、娯楽映画なので壮大なラブストーリを盛り上げるための道具として社会的問題を扱っている程度に考えることもできないことはなかったのですが。なんか今回はかなり真剣に考えてしまいました。

(TMSquareさん/奈良/Sep.25,2000)


メグナとアマルを殺したのは誰。
私にとってこの映画のラストがあんなにも感動的だったのは、きっとそこに愛の本質が垣間見える気がするから。それは不可能性の探求であり、永続を望んではならない何ものか。愛の成就は瞬間であり、またその瞬間が永遠なのだから、アマルは安らかな顔で最期を迎える。
二人が出会う最後の朝。あの廃虚にはのどかな小鳥のさえずりさえ聞こえる。メグナは最後まで決して「愛している」という言葉を発することはない。が、言葉は無くとも、その目が唇が表情が、アマルに「愛している」と告げてはいなかったか?そしてその声無き言葉をアマルは確かに聞いたのだった。

この愛の絶頂、純粋さの結晶を抽出するためだけに、テロリズムやら何やらの舞台が周到に準備された。つまりこれは究極のラブストーリー。

Miki♪/ Sep.11,2000)


唐突にやって来る、あのラストシーンへの違和感を残したまま東京での上映は終わってしまったけど.........

二人を殺したのは誰。
メグナの哀しみと怒り、そして二人の愛ゆえ?ならば二人の愛はなぜ死に向かったの?愛の成就はほかのかたちでは成り得なかったのだろうか?
ふたりに、とくにメグナには微妙な心の揺れをもう少し語って欲しかった。それゆえ二人の心情を察しきれず、ぼくには唐突なラストに映ってしまう。
「現在のインドにこのような問題がある限り、このような悲劇でしか物語は終わらないだろう」と監督は語っている。が、同じように社会問題を扱った「ボンベイ」のラストシーンの、多少楽観的であったにせよ、光が見えるもののほうがホッとする。いっそのことテロリズムも社会正義もヘッタクレもあるものか、生きていればこそ、と逃避行してくれたらよかったのに。(監督の意思からまったく外れてしまうが)

荒野に冴え渡る銀の月の如きメグナの対極として描かれたプリティの健康的な明るさが印象に残った。

(鵺人さん/埼玉/Sep.10,2000)


僕のうちのネコはマニーシャといいます。知ってるかな?彼女は、生まれて1ヶ月後くらいに僕のうちにやってきました。最初は、食が細くって生きられるか心配でしたが、ある時、僕がホタテの刺身を手の平に乗せて、口の前に出してやると、おいしそうに食べてくれました。そして、食べ終わっても、ぺロぺロと僕の手を掃除して、おかわりを要求するのです。完全に食べ終わると、僕のひざの上であくびをして一休みするという可愛さ。 僕は、当時見た映画「ボンベイ」のヒロイン。そう、マニーシャの名前を彼女につけました。大人になってからの彼女は、それは美しい、シャム猫ぶりで、テレビの上で横を向いて遠くを見つめる仕草は、もうマニーシャそのものと言っていいエスニックで憂鬱そうな雰囲気。
ところが・・・。大人になってからの彼女は僕に見向きもしなくなったんです。僕が、仕事に行く間、別の人がエサをやるもんですから、そっちになついちゃったんですね。そうなると徹底的につれないマニーシャ。 そんなある日、何を思ったのか、逃げ惑う彼女を無理やり抱き寄せ、ほうずりをして・・・

「お願い。一度でいいから、僕を好きだと言って・・・。」

ビリっ!!!と、はっきり音がして、その後、突然右手に走る激痛。マニーシャが僕の手をひっかいたんだと分かるまでしばらくかかりました。朦朧とする意識の中で、僕の手をすり抜けて、悠然とテレビの上に座るマニーシャが見えました。
「お。おのれえ〜。化け猫。成敗してくれるわ〜!!」と追いかけると、さっとどこかに消えてしまうのでした。やらせっぽい話はこのくらいにして、本編にまいりましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 −永遠に交わることのない男と女−

普通は、女はいい男が好きであり、男はいい女が好きである。僕の好きな、ハードコアマサラ(従来のインド映画)の場合、はっきりとそう言う前提で映画は製作されていると思います。そして、観客の男性・女性の両方を正確に同じ分だけ納得させるようになっているわけです。 ところが、この「ディル・セ・・・」は、違うんですよ。絶対に違う。この映画の考え方はですね。
−女性が喜ぶように、男性は努力しなさい− いや。 
−女性が喜ぶのを、男は横で見ていなさい−
ってところでしょうか?いずれにせよ、観客側の男性・女性別にいうと、不公平な映画だと思います。 本当ですよお。僕は、一人で見に行きましたが、周りの女性は皆うっとりとして見てます。分かりますが、シャールクがあそこまで徹底的に口説いてますと。(あ。この人。今シャールクに口説かれてる)
で、悔しいから、「僕もマニーシャに・・・」と思う。ところがマニーシャ・コイララは、終止一貫して冷たい訳ですね。徹底的に・・。

この辺、なんとかなりませんか?マニラトナム監督〜!

と叫ぶ間もなく、ストーリーは見事に展開しては行くし、映像も、見事に美しい訳で、もちろん飽きないんですが。 私の場合、ヒーロー(シャールク)に自分を同化させるなんて一切ありませんでした。あまりにも、マニーシャが煮え切らないんで、イライラしてきます。そして、ついに僕は叫ぶ。

「止めろ。シャールク!この女だけは、どうにもならんぞ!」

それでも、言い寄るシャールク。(ウン、君はやっぱりキングオブボリウッドだ)
ところで、マニーシャには、最高の舞台が与えられます。メグナは、爆弾を身体に巻きつけて、政府要人を殺害に行く、過去に不幸を背負った悲しいテロリスト。 その、ルックスと雰囲気にこれ以上マッチしようがない、見事なシチュエーション。誰もが壷にはまった、最高のカッコよさ、カタルシスを期待する・・・。 ところが、見事にはずしてくれる。最後まで。炸裂しない訳です。 ほんとにもう。へたくそな女優さんだね。全く。
と、思ったのは僕だけでしょうか?皆思ったのでしょうか? 
そして、この映画、いったいどうなるんだ?と思いつつ、駆けどうしに駆けて、終にクライマックス。なんと、ここでも煮え切らないマニーシャ。恐るべき女。 「あわ。あわ」言ってないで、愛してるって言ってあげてよ。お願いだから。

そして、ズドーン。おおおおおおおお〜〜〜お!

最後にやっと言葉を発したな。やっと。
いやはや、マニ監督。すごい映画ですな。こんな映画初めて見ましたわ。 と、これは素直に言いましょう。 (でも、かなり不公平な映画だと思います。やっぱり。)

(kuwataさん/東京/Sep.10,2000)


「ディル・セ・・・」は公開直後のデリーで見た。
後半になって舞台がデリーに移り、映画館のすぐ近くの路上などでシャー・ルクが追跡するシーンなどではまた内容とは別の感興を観客たちに与えていたようだが、知り合った何人かのインド人が別の映画を見ることを勧めたように、全体的に観客のノリは今一つだった。それはやはりストーリーの重さから来るものだろうと思ったが、個人的には批判精神、特にマニーシャーがテロリストになった原因が、軍による集団暴行だとする、軍・国家批判に未だかつてない新鮮さを感じた。映画の中で、シャー・ルクは常に直情径行に疾走しているというイメージがあった。これも彼の肩書き同様、ある種インド人、またはインド国家そのものの一傾向を体現しているように、今となっては感じられる(勘違いか?)。

インド人にとってウケがよくなかったラストだが、タイトル通り「心から」の想いに突き動かされ、爆死によって二人がそれぞれの抱えてきたものから解放、超越されたことから、やはりこのラストは必然だし、いいラストだと思う。ただ、ストーリーの流れに、やや生硬な印象は受けた。
しかし当時は専ら映画の中のダンスシーンが一番のお目当てであり、美しい風景をバックにした独創的なダンスと映像美に非常に満足した。「チャイヤチャイヤ」をはじめとして、大変印象深く残っている。

(小林真樹さん/デリー/Sep.05,2000)


実は見る前は少し不安でした。どうも監督の発する‘社会派’っぽい雰囲気が私には苦手で。でも結局それは取り越し苦労だったようです。そのへんは気になることなくストーリーに入りこんでいけました。
見終わって今思い出すのは、色。全体的に落ちついたトーンのなかで時折輝く青い空、白い砂、燃える炎。アマルとメグナという決して互いに混じりあうことができないであろう2色は最後にああいう結末を迎えるしかなかったのでしょう。
どうもうまく言葉が出てきませんが、頭の中に焼き付いた色は当分消えそうにありません。

(ちゃるさん/東京/Aug.24,2000)


今日、日本の終戦記念日は、インドの独立記念日。昨日のニュースで、カシミールでインド軍のトラックが爆破されて死傷者40人出て、式典が行われるニューデリーは厳戒体制だとのこと。この映画 Dil Se はまさにそうしたインドの社会問題を描いているのですね。映画が撮影された風光明媚なラダックでは、2週間ほど前にトレッキング中のドイツ人が誘拐され殺され、昨日は、ハンガリー人観光客が負傷した爆破事件があったそうです。映画撮影も決死の覚悟(?)だったのでは。それが、多分、ちらしにある「極秘裏のロケ」のわけでしょう。

メグナは、嫌だ嫌だと言いながら、遠くから彼を熱い視線で見つめ、実は最初から彼以上に相手にめろめろだと思いました。キスされると膝から崩れ落ちてしまうし。「子供8人」と言う爆弾発言、好きです。

日本語字幕になってなかったけど、DVD の英語字幕には、彼が彼女に無理矢理キスする前の会話、「お前は何者なんだ? あの男達は誰だ?」「兄弟よ」「本当か?」(←大体の感じ)の後に、「ラジブ・ガンジーだって兄弟って言うんじゃないか?」という一言があるんですよ。この超男前首相は、女性の自爆テロで殺されました。その人の名前をここでちょこっと出すところが芸が細かい。日本語字幕で削除は仕方ないでしょうが。絶対、(英語字幕にも無いけど)字幕に入れてほしかったのは、最後のシーンで、メグナが、アマル、アマル、と振り絞るように彼の名を口にするところ。

DVDがあっても、音楽シーンの字幕、彼がラジオで流す音楽の部分は映画館の日本語字幕でないと分からないし、そして、なんといっても大画面。激しい愛にまたどっぷり浸りに行きます。

(minamiさん/東京/Aug 15,2000)


ラストとオープニングが巧妙にリンクしている。これは、二度観れば解ります。
映像と台詞の一つ一つが、隠喩の形でガッチリと結び付いていて。
やるね、マニ・ラトナム。断罪する相手が身近に居過ぎたんだな。
という訳で
これは「マニ・ラトナムの政治的な作品」ではなく、
「情愛と殺戮と政治でがんじがらめになった世界を、
マニ・ラトナムの視点で、自問自答を込めながら描いた」作品。

マニーシャが主演で、マニ・ラトナムが監督・脚本。となると、
個人的には『ボンベイ』の対屏風として本作を観てしまいます。
が、『ボンベイ』で顕著だった "私の見解はこうなんです" 的な自信と勢いは、
本作の場合、非常に希薄。
なぜだろう、なんでこんなに迷いが生じているんだろう、彼独自の作風に。
と、感じる反面、愛こそが全て。といった、強情な正論一本やりで
本作を一気にまとめ上げようものなら、それは
むしろ、テロリズムを加速させるだけの話。
テロルに身をゆだねている当事者(達)にしてみれば、
その原動力は「憎悪」のみならず、愛も希望も平和もぜんぶひっくるめたもの
として、心に存在する訳で。
その為か、本作でのマニ・ラトナムは "生き様として正論を吐ける登場人物" を
誰一人として用意していない。
誰もが迷っている。
テロルの首謀者ですら、今から死に行こうとする者に対して、
本音すら打ち明けられずにいる。
数時間後に死ぬ同胞へ向けて人生の教訓を述べるのは、本音じゃない。
それは、単なる "団結力の確認" です。
死線をさまよった人間が、同様の人間に向けて述べるには相応しくない、
そんな言葉を吐く彼は、ここで何かに迷ってる。だから無表情なんだろう。
きっと、何かを押し隠しているんだろうな。
楽器を奏でている時は生気のある表情だったから、隠していても私にはわかる。
シャールクの演ずる主人公が、終始、己の足場のみでノタウチ回る理由も判る。
マニーシャと共にどこか別の地平を目指したいのだが、
その場所が、彼には判らない。
シャールクは、マニーシャよりも遥かに広い視野を持っている。と、本人は考え
つつも、ならば自分達がどこへ行けば良いのか? が、判らずにいる。
どうあがいても、選択枝が無いのだろう。彼らには。
そういうものを得られる時に得ようとせず、また、
得ることのできなかった人々の衝突が、ここに描かれていて。
マニ・ラトナム自身、描いた人々を一概に断罪できぬ想いも、
同様に描かれており。時折、迷いを目一杯生じさせながらも。
彼らと私(マニ・ラトナム)には、
死以外の方法をもって救われる道は無いのか?と。

計画的に生きていたマニーシャと、情愛に行き当たりばったりなシャールク。
人間は、死の直前に一生の記憶が甦るそうですが、
爆発の中に記憶すら飛び散る。
それを拾ってつなぎ合わせたのがマニ・ラトナム。だと思います。
無論、起承転結の一辺倒でまとめようとはせず、死者への哀悼を込めた
散文詩として。
一見、散漫に思える展開も、散文詩だからこそ当然に。
そのほうが記憶に残るんです。映画は、あの世の代弁者。
これは、二度観れば解ります。

〜二度目に御観賞される皆様へ〜

冒頭にシャールクが愚痴る「世界で一番短い恋の物語。」
ここが真のラスト。個人的には。
黄泉の国、あの世行きの夜行列車、葬式は駅長に頼めばいい、
所詮人間は一人なんだ、そこから始めればいい、
駅長さん、この世の葬式は頼んだよ、でも、
その荷物には触れちゃいけない、爆発するから、熱いチャイを2つおくれ、
彼女が待ってるんだ、急いでくれよ、世界で一番短い恋の物語だから。
さようなら。元気でね。

(レーカー出演作以外の映画を観ることもある田中さん/東京/Aug 15,2000)


やっと見てきました。やはり、この映画は「酔わせる映画」です。
たしかに不完全なところはありますが、それを補ってあまりある圧倒的な魅力にあふれた映画だと思います。まだ酔っている状態だなあ。帰りに電車乗り間違えちゃうし。
私はこの映画のシャールクが一番好きなのですが、なぜかと考えるとたぶん、他のマニラトナム映画のキャラクターと同様、アマルがものすごくリアルな現実感のある人物として描かれているから、そして演じられているからだと思います。
いやホントに惚れちゃいました、あらためて。
他の映画のシャールクもいいですが、やはり何本かに1本はこういう役柄を演じてほしいものです。私の好みって、もしかしたらインド映画の王道からはずれてるかも。

(さゆりさん/東京/Aug 6,2000)


Uyire ["My Life" - meaning how a lover is life itself ] was a big flop.
Although well made, Tamil moviegoers rejected the movie. Firstly, Tamil film fans respect Mani Retnam greatly and they expect something different from him. As Roja and Bombay were also films about errorists, they just didn't want another movie on terrorism from Mani Retnam. Tamil film goers were also not happy that unlike Roja and Bombay which were made in Tamil and then dubbed into Hindi; Uyire was made in Hindi and dubbed into Tamil. Tamil film goers also don't really accept Hindi actors as heroes in Tamil films - and so they could not accept Sharukh Khan as the hero. The film may have had a better run if it was made in Tamil with a Tamil hero.

My personal comments - not a bad movie; but I too accepted more from a Mani Retnam movie and so I was disappointed with this movie. It was a bit draggy at times, too - which is very rare in a Mani Retnam movie.

I really liked his Iruvar [Two people] but this was a flop in India because of personal and political reasons. The 'two people' refer to MGR [the Chief Minister from 1977 till his death in 1987 and the biggest hero from 1956 to 1978 and still adored by millions of his fans] and Karunanidhi, the current Chief Minister of Tamil Nadu. As it was a realistic portrayal - indicating their womanising and corrupt ways, the fans of these two [who probably form more than 90% of Tamil Nadu's population] rejected the movie. I believe that this movie was ahead of its time will be well regarded in 10-20 years time when it is watched more objectively.

(Arasuさん/シンガポール/Aug 5 2000)


もうすぐですね。歌踊り付き大画面で見られるのを心待ちにしてたので、とっても楽しみ。一人でも多くの人に見てほしいので、友人にチラシ送ったりしています。今のところ4人ほど行く約束できました。ヒットしてほしいです。

(さゆりさん/東京/Aug 4,2000)


もうそろそろ東京で上映開始!しかし、私の住む町ではもちろん上映されないのだが、せめて福岡あたりで上映しないかと思いきや、9月には大阪で上映されるとか。(インドセンター情報)
これからの上映地域の決定は、東京や大阪でどれだけこの映画が人気があるかどうかにかかっているそうだ。みなさーん、福岡でも「Dil Se」が上映されるよう何回も映画館に足を運んでください。お願いします。日本語字幕のついたのが見たい!!

(のりえさん/山口/July 31,2000)


ボンベイ以来のマニーシャコイララに会えるのがとっても楽しみです。DILSEの中のヒット曲のCHAIYA CHAIAをVCDで見ました。ちょっと田舎くさい映像でしかもマニーシャが出ていなかったのですが、シャールクがいつもと雰囲気が違ってドキドキしました。早く8月になーれ。 福岡でもぜひ上映して欲しいです。

(のりえさん/山口/July 10,2000)


Dil Se 愛は何よりも強いか

(Miki♪/May 20,2000 徳間ホールにて試写)