| 『愛しのヘナ』
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1991年/インド映画/ヒンディー語
監督:Randhir Kapoor 音楽:Ravindra Jain
主演:Rishi Kapoor, Ashwini Bhave, Zeba Bakhtiar (新人)
カシミールに住むインド人のチャンダル(リシ・カプール)は許婚チャンドニとの婚約式に向かうため、激しい雨の夜道車を走らせていた。しかしその時事故にあい、車は川に転落。彼はそのまま川に流され、隣国パキスタンの村に瀕死の状態で流れ着く。それを見つけた、若い村娘ヘナ(Zeba Bakhtiar)。村の長でもある父親と一緒に必死に彼を介抱するが、そのおかげでチャンダルは一命をとりとめ、その村で暮らすようになる。彼は事故のショックでみずからの過去をすべて忘れてしまっていた。ヘナの献身的な介護でやがて2人の間には暖かい感情が芽生え、周囲のすすめもあって2人は結婚を決意する。そしてその婚約式の夜、村人たちが賑やかに祝いの歌や踊りを披露しているが、その音楽がきっかけで、チャンダルに失われた記憶が甦ってくる。「自分は早く婚約者チャンドニのもとに行かなくては!」。花嫁衣装を着たまま打ちひしがれるヘナ。そして彼が敵国インドの人間であることが判明して彼をスパイだとののしるものさえ出てくる。しかしヘナは自分の悲しみを乗り越え、彼のことを信じて、彼を祖国へ送りとどけるべきだと言い張る。チャンダルをかばう父親に反発して、ヘナの兄は、彼のことを警察に密告してしまう。その悪徳警官は、実は美しいヘナを自分のものにしようと企んでいたのだった。村人たちは一致団結してチャンダルを国境近くまで送り届ける。そして彼が国境の柵を越えようとした時、そこには悪徳警官がまちかまえていたのだった....
最初は幼く無知な娘だったヘナが、愛を知って、しかも自分の愛がかなえられないと知ってからも、みずからを犠牲にしてまで、チャンダルを助けようとする、その変貌ぶりが痛々しい。「どうして君はこんなに僕のために尽くしてくれるの?」と尋ねるチャンダルに、「あなたはそれを知らなくていいのよ」と答えるヘナ。しかもインドとパキスタンの無益な争いに巻き込まれて悲劇的な最期を迎える可哀相な娘ヘナ。緊迫感のあるストーリーで、2人の運命の行方がいかなる結末にたどりつくのか、最後まで興味がつきない。「あなたのチャンドニに逢えなくて残念だった....」というヘナの最後の言葉は泣かせる。
(JAN.1,2000)
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| 『愛と憎しみのデカン高原』
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1997年/インド映画/テルグ語/155分
監督:ジャヤント・C・バーランジ 音楽:マヘーシュ
主演:ヴェンカテーシュ、アンジャラ・ジャベーリ
テルグ映画は去年のファンタステック映画祭で「バブーをさがせ」以来2本目だ。映画自体がどうのこうのという以前に、普通だったらインド国内以外では見ることのできないような特殊な言語の映画を日本の劇場で見れるというのは、それだけて大変貴重なことだと思う。こういう映画を上映しようと考える人がいるだけで嬉しくなる。
ドラヴィダ系言語に興味があれば、言葉の響きを聞けるだけでも十分に見る価値あり。たしかに同じ系統の言語だから、タミル語の響きによく似ているが、ものすごくよく似てるという程でもなくて、やはり独特の響きがあるように感じられる。
それにしても、このテルグ文字!正直言ってこの映画を見た印象は、映画の中味より、タイトル等に出てくるテルグ文字の方が遥かに強かった。タミル文字は電線がグルグルまわってるようで、最初に見たときにやはり強い印象を残したが、このテルグ文字の方は丸が主体でもっと装飾的。不可思議で、いかにも呪術性の高そうな造形である。
物語の方は、恋愛結婚を貫きます、というシンプルなストーリー。しかしそのシンプルさがわかりやすくて安心して楽しめる。主役のヴェンカテーシュという人はいかにもヒーローらしい堂々としたスター性のある俳優。ヒロインのアンジャラ・ジャベーリの方は美人だけどあまり個性が感じられないのが残念。どうってことはない映画だが、素朴さはインド映画本来の味わい。
(JAN.2,2000)
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| 『バッファロー ‘66』
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awkwardな魂
シネクイントにて『バッファロー '66』
1998アメリカ映画 / 1時間53分 / Cast : Vincent Gallo,Christina Ricci
強迫神経症ビリーの焦燥感にみちた跛行。もどかしさだけが募って行く。生きることに意味はなく、また死ぬことにさえ意味がないような日々。心を心底寒からしめる、アメリカの田舎町の殺伐とした家族の光景。冒頭の冷たい雪景色から始まって、どのシーンも重く締め付けられる。トイレで「生きてゆけないんだ..」とうめきながら泣いているのは、ギャロ本人の心の叫びのようで、こちらまで泣きたくなる。この神経症的で幼児的なビリーの前に現われるレイラは、ほとんどふてぶてしいまでに落ち着き払った確固たる大地母神。レイラの素性が明らかにされないシンプルさも潔くて素晴らしい。彼女はただ愛であるだけなのだから。生きる意味なんてどこにもない。私たちに残されているのは、とりあえず誰かを愛することのみ。
ボーリング場のシーンで唐突に始まったキング・クリムゾンの「moonchild」に驚く。あとでギャロのプロフィールを見てみると、案の定自分と同世代だった。ヴィンセント・ギャロ、怖いくらいに魅力的。帰り道に、ふとマキナニーの小説のなかの一節を思い出した。
「....それが少しでも意味のあることなら、つらくても立ち向かっていけるのだ。ところが、ぼくの周りにあるのはつまらないことばかりで、真剣に戦おうとしているぼくをずるがしこく木の陰から狙い撃ちしてくるんだ。」
(Jan 9 2000)
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| ポンガルの祭り
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『ポンガルpongalは本来は南インドの料理の名前だが、これはまたタミルナードゥ州における収穫祭の名称でもある。これは毎年1月14日に祝われるが、より正確には、祭りの行事は4日間にわたって執り行われる。
まず1月13日に行われるのがBogiの祭り。これはその社会の悪除けの行事で、人々は家をきれいに掃除し、古着や不要なものを集めそれを焼く。家は清められ、その上で(石灰などで)白く塗られる。家畜も水浴びで清められ、色粉やペンキで色を塗って飾られる。
翌日14日に行われるのがポンガルpongalで、これは本来的に農村の祭りだ。この日はタミル暦で縁起のいい月「Thai」の初日にあたる。人々はまずすべての生命を司る太陽に祈りをささげる。田舎では、この日人々は家の前の路上に集まり、素焼き土器で「ポンガル」(甘く味をつけたご飯)を煮る。石の釜を使い、燃料は木である。それが終わると、皆は一種のエクスタシー状態で「ポンガル!ポンガル!」と叫ぶ。素焼きの器から溢れる出るご飯は、来る季節の豊作の象徴だ。人々は太陽に感謝を捧げる。そして、それぞれ友人や親戚を訪ね歩いてお祝いの言葉を取り交わし、ポンガルの食事やお菓子をお互いに交換する。この時期、非常に多くのグリーティング・カードが送られる。この頃はまた、さとうきびの季節でもある。市場には、収穫されたさとうきびが大量に並び、子供たちはみな、このさとうきびを食べながら歩いている。
続く15日はMaattuppongalで、家畜−とりわけ雄牛の日である。農家ではまだ牛を重要な労働力として使っており、牛なしには生活できない。人々は牛やその他の家畜に祈りを捧げる。この日はまた闘牛の日でもある。これをタミルではManju Virattuと呼ぶ。
農夫たちはそれぞれ誇らしげに自分達の牛を広場に連れて現われる。この時、牛の首には布がまかれ、またその布にはポケットが付いていて、その中にお金が入っていることもある。
牛を連れた農夫は、観客に対して、自分の牛を手なずけその首から布を取ることができるかどうか挑戦させる。牛たちは、周囲の太鼓の音やホイッスル、叫び声あるいは煙りなどで、興奮して怒りくるっているので、時に怪我人や死者さえも出ることがある。この牛たちを負かすことは大変難しい。なぜなら、各家では少なくとも一頭の牛をこの闘牛用に獰猛に育てているからだ。彼らの角は定期的に削られ、鋭く尖っている。この牛は家のなかでも特別な場所を与えられ、農耕や他の仕事に使われることは決してない。その家がこのような闘牛用のりっぱな牛をもっていることは名誉でもある。
もし闘牛で牛が負かされたら、牛の持ち主はその勇気ある男を家に招待し、豪勢な食事を振る舞う。いろんな村から来た人々がこの行事で一同に会し、みな誇らしげに自慢の牛をつれて練り歩く。
最後の日はThiruvalluvar Day。Thiruvalluvarはその詩でタミル文学に多いに貢献した。この日が祭日なのは、ひとつにはこの期間に長い休みをとってもらうという行政の意向もある。タミルナードゥにおける最大のお祭り、このポンガルのシーズンには多くの人々がその故郷や親戚を訪問し旅行する。』
(Jan 14 2000)
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| 『太陽の少年』
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青の思い出
今日の映画は、中国映画の『太陽の少年』(陽光燦爛的日子)。
1994年/中国・香港/2時間8分
監督・脚本 : チアン・ウェン 主演 : 夏雨(シア・ユイ)、寧静(ニン・チン)
記憶の中の季節は輝いていた。夏の陽光のように眩しく、頬をなでる風はすがすがしく、自転車で駆け抜けた街路樹はどこまでも永遠に続いていた少年の時。そんな季節のどこかで出会った美しい少女ミーランの思い出は、甘く切なく、時に残酷で、今となっては曖昧模糊としている。ミーランを自転車の後ろに乗せて夏の朝霧のなかを走ったこと、その時季節外れの干し草の乾いた匂いがしたこと、天井の高いミーランの部屋にあった古い望遠鏡....あれらはすべて幻であったのかもしれない。果樹園に消えた少女はまるで風が連れ去ったようでもあり、その時木々をわたるさわさわとした風を、私自身も確かに感じたような気がした。
文革で大人のいなくなった北京の街を我が物顔で走りまわる少年たち。しかし、当時の北京はこんな街であったのだろうか。古いどっしりとした西洋風の石造りの建物、屋根の上から眺める深い緑に包まれた町並み。この風景に、花柄のワンピースを着た美少女ミーランは実に似つかわしい。ミーラン演ずる女優ニン・チンの、愛くるしく高慢な美しさは、いつまでも記憶にどどまるべく燦然と輝いている。それにしても、みずみずしい詩情に溢れた映画だ。空気の匂いや、風のそよぎ、きらきらとした光のさんざめきさえこちらに伝わってきそうで、おもわず息を呑んだ。
プールは青い水をたたえている。少年は果てしなく高い飛び込み台を一歩一歩上って行った。はるか下方のプールサイドで見え隠れするミーランの赤い水着。どこまでも上って行く階段は天にまで届きそうに高く、その上には真っ青な空が広がっていた。
(Jan 20 2000)
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| 『阿飛正傳』(欲望の翼)
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遠い汽笛
三百人劇場での王家衛特集。1988年のデビュー作から97年の「ブエノスアイレス」まで6本全てが上映された。
『阿飛正傳(欲望の翼)』 1990年/香港/97分
出演:レスリー・チャン、カリーナ・ラウ、アンディ・ラウ、マギー・チャン、ジャッキー・チョン、トニー・レオン、レベッカ・パン
この映画は、香港の6大スターを使った豪華な映画でありながら、きわめてミニマルな作品である。この王家衛という監督は俳優の使い方に非常に優れ、常にトップスターを使いながら、映画自体は俳優達のスター性に全く依存することがない。
これだけの人物が登場するのだからにぎやかな感じがするが、実際の映像の中の風景は常にがらんとしている。確かに香港の街なのだが、そこは喧騒を遠くはなれ、夜の街路であったり、ひとけのないサッカー場の売店だったり、雨の降り込める曲がりくねった坂道であったり、あるいは、海鳴りと船の汽笛が聞こえる夕暮れの部屋であったり。
60年代の香港。そのある時を輪切りにして、そこに生きていた若者のそれぞれの人生が描かれる。そこにあるのは、恐らくいつの時代も変らない孤独と絶望にひたされた青春。ヨディは自分を捨てた母を求め、女達はヨディの愛を求め、街をさまよいつづける。ヨディが使わなくなった車に乗り、ヨディが捨てた女に愛を告白する、ジャッキー・チョン演ずる鬱屈した青年。決して笑うことのないマギー・チャン。人生の目的を失い、自堕落に崩れて行くヨディの養母レベッカ・パンの鬼気迫る寂寥感。
それにしてもこの音楽。限りなく陶酔を誘うこの音楽。南国の椰子の葉陰。鉄橋を渡る汽笛。あれはいつか見た風景だったのだろうか ....。きっと遠い記憶のどこかで。
(JAN 26 2000)
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| 『東邪西毒』(楽園の瑕)
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そして音楽。
1994年/香港/96分/出演:レスリー・チャン、レオン・カーフェィ、トニー・レオン、ブリジット・リン、マギー・チャン、カリーナ・ラウ。
相変わらず王家衛監督の音楽センスが冴えわたる。いや、音楽センスの優れた人でなければ、優れた映画監督にはなれないはずだ、きっと。
この映画の撮影は困難をきわめ、制作費と時間だけが途方もなく費やされた。しかし、この映画は一般的に受け入れられなかったようで、香港でももちろんヒットしなかったし、日本でも一部で話題になったものの他の王家衛作品ほどには成功しなかったと思う。(王家衛は香港では全く受けない。それもそうだと思う。あの現実的な国民性の香港人が、王家衛の抽象的世界を好むはずがない。ある意味とても香港映画的なのだが、やはり他の香港映画とはほとんど隔絶しているようにも思える王家衛。)
確かにこの映画はややまとまりに欠けるし、ストーリー自体も一見複雑そうに見えるが、案外平凡な愛をめぐる物語であるような気がする。ただ、映像のもつ魅力はその弱点を補ってあまりあると思う。自分がある映画を見て、それが優れていると感じたり深く感動したりするのは、それが繊細であるかどうかにかかっているということに、私はこの映画を見て気付いた。言葉では決して言い表すことのできない、あの微妙な感じ。それをほのめかすには、繊細さという言葉くらいしか、私には思いつかない。たとえばこの映画では、バタバタと砂漠の風にはためく帆布の切れ目からのぞく一瞬の青い空とか、ブリジット・リンの切れ長の瞳が横目でこちらを睨む瞬間とか、洞窟なかで回転する巨大な鳥かごの影とか。
とにかくこの映画は、さまざまなイメージに満ちている。イメージだけの映画と言えるかもしれない。しかしそれにしても、舞台も音楽も非常に美しい。みずからは手を下さない砂漠の揉め事仲介人の西毒(レスリー・チャン)も実に巧いが、何よりも心を震わせるのはブリジット・リンの、実に潔い存在感。この人の存在の美しさは、これまた筆舌に尽くし難く。
(JAN 29 2000)
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| 『ブエノスアイレス』
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『ブエノスアイレス』。オリジナルタイトルは「春光乍洩」。
Cucurruccu Palomaの音楽に始まり、タートルズのHappy Togetherで終わる物語。そして2000年1月現在私達が知ることのできる一番新しい王家衛。
1997年/香港映画/90分/主演:レスリー・チャン、トニー・レオン、チャン・チェン
冒頭の短いシークエンスのあと。白い飛沫の煙を巻き上げる‘悪魔の口’イグアスの滝の、何とも形容のつかない青黒い色を背景に、cucurruccu palomaの低い弦楽器の音が流れてくる瞬間、これから始まる物語に胸躍らせない者がいるだろうか。この陶酔感に抗うのは非常に困難だ。泣きたいほどに感動的な始まり。
この映画の中では、光りが粒子になって画面の隅々までキラキラ輝いている気がする。3人の登場人物を取り囲む、実に周到に用意された「趣のある」小道具たち。その豪奢な舞台は南米である。プイグを愛する王家衛の南米へのオマージュ。南米という響きは、それだけで朽ち果てた豪奢さを連想させる。かつての栄華。失われた時。そこにあるのは、古いヨーロッパが、古いまま残っているようなイメージ。それらはただ静かに滅びてゆくのを待っている。それに加え、南米特有の空間がスカスカした希薄な感じ。陶酔の舞台には実に似つかわしい。不思議なのは、このブエノスアイレスという魅惑的な辺境に配された3人の中国人という存在が、まったく違和感無く自然に風景に溶け込んでいる点。これは最初に見たときから、ずっと不思議だった。中国人というのは、世界中どこにいても違和感のない人種であるのかもしれない。でも、本当は、この違和感のなさというのは、王家衛が持つ本質的な「ボーダーレス」によるものだと思う。きっとそうだ。真に優れた創作は必ずや国境を持たない。
物語の大筋は、トニー・レオン演ずるところの「放蕩息子の帰還」であると思う。あるひとつのビルドゥングス・ロマーン(成長小説)。しかも、彼が蕩尽するところのものは愛。
それにしても、私は3番目の登場人物チャン・チェンのシーンがどれも大好きだ。なぜだろう、彼が登場するシーンはどこも光りにあふれている。午後、裏道でサッカーに興ずるシーンの印象的な逆光。いきなり画面にあふれる眩しい光の洪水。終盤に、彼が世界の果てに到達する場面。フェゴ島。最果ての地に立つ灯台。この開放的な明るい光景。これらのシーンは非常に示唆的だ。放蕩息子の帰還の契機としてのチャン・チェンの存在。
世界の裏側からの帰還。ブエノスアイレス、そして台北。ダニー・チャンの素晴らしいカバーによる名曲「Happy Together」とともに物語りはそこで一旦幕を閉じる。
...... If I want to, I know where I can find him.
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| 『ポーラ X』
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堕ちる
1月最後の日曜日。晴れ。渋谷のシネマライズで『ポーラ X』を観る。
1999年/フランス/2時間14分/監督:レオス・カラックス/主演:ギヨーム・ドパルデュー、カテリーナ・ゴルベワ、カトリーヌ・ドヌーブ
カラックスは嫌いだ。「ポンヌフの恋人」なんて最悪だと思う。にもかかわらずこの映画を見たのは、「森に囲まれたノルマンディの瀟洒な城館で、美しい母親を姉と呼んで2人で恋人にように暮らす青年の前に、ある日姉と名乗る謎の女性が登場し...」といった紹介文と、主演がギヨーム・ドパルデューであったからだった。
ギヨーム・ドパルデュー。デヴュー作であるアラン・コルノーの「めぐり逢う朝」は1991年の作品だから、もう10年近く前になる。「めぐり逢う朝」は、音楽の本質とはなにかを予感させる、非常に繊細な感性でもって作られた至高の芸術品のような映画だが、父ジェラール・ドパルデューと共演した息子のギヨームは、みずみずしい無垢な少年の魅力で画面に登場した。あれから10年。ギヨーム・ドパルデューは、より一層美しく逞しく成長して、まばゆいばかりだ。
それにしてもこの映画は、嫌らしいまでにカラックスだった。見る側の神経を逆なでするような「ひとりよがり」の世界。この世界を好きだという人もいるのかも知れないが、少なくとも私には殆ど了解不能である。ただ、それでもこの映画はなにかしら私の心をかすかに刺したように思った。たぶんそれは痛いところを衝かれたという、少しいまいましい思い。
この映画は、まるでヨーロッパの映画の神髄のような奇跡的に美しい前半部分と、それを嘲笑的に否定してしまう不条理な暗闇に支配される後半部分からなる。この二つの世界のコントラストが非常に鋭角的だ。前半部分のうっとりする程美しく耽美的な世界は、後にそれが否定され破壊されるためだけに存在する。それゆえにその美しさは殆ど際限ない。ギヨームが、自らと同じく金髪碧眼のフィアンセと2人で丘の上からノルマンディーの風景を眺めるシーンは、一幅の魅惑的な絵画だった。貴族的な美しい光景というのは、たとえばジェイムス・アイボリーの映画や、アン・リーの「ある晴れた日に」といった映画を思い出すが、それらを軽く凌駕してしまうほどの甘美さだ。カトリーヌ・ドヌーヴ演ずる母親の高貴な退廃にもため息が出る。自分はこういう美しい世界なんて容易に創造できる、が、そんなのは目的なんかじゃないんだ、とカラックスが言っているように思えてならない。
その満ち足りた美しい世界に入った亀裂。黒髪のジプシー。暗闇に住むもの。小説家のギヨームは、美しい世界に住む人間でありながら、同時にまた「世界の亀裂」を待っているような人間でもあった。美しい母も、許婚も捨てて、この美貌の青年は「僕はずっと待っていた。この世を越えるきっかけを」などと呟きながら、姉と名乗る怪しげな女性の世界の側へと、自ら望んで堕ちてゆく。それから後は、悪夢だ。長い後半を見続けるのは、かなり忍耐を強いられる。どこにも出口のない迷路に迷い込んだような気分になることは必須。原作は「白鯨」の作者メルヴィルによる自伝的長編小説「ピエール」。
(JAN 30 2000)
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