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八百万の神々

コミュニティ・カレッジのインド入門講座、今日はB先生最後の授業で、テーマはインドの宗教。話は多神論と一神論の違いに及んだ。世界の主な宗教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教を考える場合、まず、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は間違いなく一神論だ。仏教はそのあたりは曖昧で、よくわからないそうだ。しかしヒンドゥー教に関して言えば、西洋人はそれを多神論と見るが、インド人である先生から見ればヒンドゥー教はむしろ一神論に近いという。多くの神様がいるように見えるヒンドゥー教も、実際は神は「ただ一人」であり、それ自体は体もextentionも持たない神が、いろんな形で現われているだけである。神はどんな形でも現われるから、もちろんそれは宗教によって、ヤハウェであったり、イエズズであったり、アラーであったりする。
それにしても、典型的多神論だと思っていたヒンドゥー教が、実はむしろ一神教であるという話はなかなか示唆的である。ひるがえって、私達日本人は、一見多神論的な世界観を持っているように見えるが、よく考えてみると、私達日本人が漠然と「かみさま」を考えるとき、それもやはり、ひとりの/ひとつの人格ではないだろうか。それははっきりとした具体的姿を持たないが、それでも「あるひとりの誰か」であるという漠然としたイメージがある。少なくとも私はそうだ。神というものの性質上、それはきっと絶対的なものであるのだから、やはり唯一のものであろう。(だとすると、そもそも多神教とは一体何なのか、なかなか想像するのが難しい。)ただ、日本人の場合は、唯一の神という観念はあっても、それが何らかの具体的イメージを持たないから、さまざまな神様が存在するのだろうか。あらゆるところに偏在する神様。あるいは、どこにでも感じられる精霊的なもの。そして、求心的なイメージを持たない故に、その中心は空位であり、場合によってはそこに何でも入り込める。
(JUN 26 2000)

ドレイクの方程式


私達の銀河系に通信能力を持つ文明の数をNとする。
N = R x fp x ne x fl x fi x fc x L

R : 銀河系で一年間で誕生する恒星の数
fp : その恒星が惑星を持つ確率
ne: その惑星が生命を生み出す環境を持つ確率
fl : その惑星で生命が進化する確率
fi : その生命が技術文明を持つに至る確率
fc : その知的生命が宇宙に電波を発する確率
L : 文明の寿命

フランク・ドレイク博士によると、Lの文明の寿命は一万年、そして7つの因子から導かれるNの値は、「一年につき一個」。博士の「SETI研究所」では「SETI@home」を発足し、ここに登録して解析ソフトをダウンロードすれば、誰でもアシレボ電波望遠鏡が蓄積した宇宙からの膨大な電磁波の記録を解析できるそうな。この中に何らかの人工的な波形が見つかれば、それはETからのメッセージである可能性が高い。
THE SERCH FOR EXTRATERRESTRIAL INTELLIGENCE at home !

これだけ宇宙が広くて莫大な数の恒星があるのだから、惑星の存在だってごく一般的だろうし、だとすれば地球に似た環境の星だって、宇宙全体には沢山あるはずだ。にもかかわらず、宇宙のこの静けさは? 私達が気付いていないだけ?知的生命同士が出遭うには宇宙はあまりに広大で、文明の寿命はあまりに短すぎるのだろうか。この時間的・空間的広大さを前にしたら、偶然に出遭う確率なんてほとんどゼロに近いのかもしれない。でも、「生命」というのは、それほど普遍的でどこにでも存在するものではないんじゃないかと漠然と思う。条件さえそろえば、簡単に生み出されるもの?観察者がいなければ宇宙だって存在しないのであれば、私達がいるからこそ宇宙はそこにあるとも言える。この知的生命を生むためだけに、これだけの広大な宇宙が存在すると考えるのは傲慢だろうか。
(JUN 29 2000)


マジェステック・シアター


恵比寿ガーデンシネマでの映画が始まるまで、カフェでお茶。デパートがあるせいか、小奇麗なヤングマダムで一杯の店内は、なんとなく取澄ました雰囲気が漂っている。人気の「ロッタちゃん」を上映しているせいか、映画館も似たような主婦族で込み合っていた。
「FOREVER FEVER」(1998年シンガポール映画)は、前評判に違わず、えらく素敵な映画だった。私がエリック・ロメールの映画を愛するのは、それが「ささやかだけど本当の幸せ」を感じさせてくれるからだと思うが、このシンガポール映画も、それと同質のじっくりとかみしめたい幸せに溢れたものだった。あの愛すべき主人公。至福のラストシーン、誰しもがあの主人公のホックになってその幸せを共有するに違いない。こういう映画との出会いは貴重だ。ニセモノの薄っぺらい幸せはいくらでも捏造することができるけど、本物の幸せはなかなか出遭えるものじゃないから。

シンガポールの街は、中国人の街そのもののようでもあり、不思議な英語が飛び交うコロニアル風でもあり、混沌としている。実際は、いろんなものが混ざり合った結果、それぞれの文化自体が希薄になって、なにやら捉えどころの無い浮遊感のようなものを感じる街でもある。
映画の中の劇場マジェステック・シアター(大華大戯院)は、チャイナタウンに実在した映画館だったそう。シンガポールは、いたるところに特色のある映画館があるが、「映画館」はシンガポール映画の舞台として実に似つかわしいのかもしれない。
(JUL 22 2000)


渋谷シネマソサエティ


12時20分の回の「アシュラ」(アンジャーム)を見る。初めて行く映画館だが、小奇麗なミニシアター。中には小さな劇場が一つあるだけだが、入り口の感じはなかなかオシャレ。最近できた渋谷マークシティの横の道をまっすぐ行ったところにある。場所がちょっと分かりにくいかも。ガラガラかと思ったが、思ったよりも人が入っている。夜の回の上映が無いので、大抵の人は休みの日にしか見れないわけだし。
確かにうんざりするような内容だけど、それでもこの映画は好きだ。こんなに陰惨な映画を大真面目でつくってる、その感じが好き。悲惨な内容と全くそぐわない明るい歌。しかも、どれも素敵な歌ばかり。そこらへんの、唐突さ、意外さ、奇想天外さこそがインド映画の魅力のひとつだと思う。もしインド映画を初めて見る人がこれを見たら、シャールクが車のトランクの中から出てきて歌いだすミュージカルシーンや、始まってたっぷり30分くらい経ってからいきなり出てくるタイトル文字に度肝を抜かれないだろうか。私なら、それだけで感動してしまう。「アシュラ」はかなり昔の映画だけど、最近のやや洗練されて、ますますハリウッド風になりつつあるヒンディー語映画にはないパワーを感じる。それにしても、肉を食いちぎるわ、人を殴り殺すわ、天下の美女マードゥリーもよくこんな役を演じたものだと感心することしきり。ファンでなくとも、彼女の熱演に感動する作品。
(JULY 30 2000)



思い出の夏


「男優はとっても素敵だったけど、相手役の女性がちょっとねぇ…」
映画が終わった岩波ホールの会場を出たあと、エレベーターの中で隣り合わせた年配の女性達の会話。その素敵な男優はレオン・ライ(黎明)で、女優の方はシュー・ケイ。

『玻璃の城』(1998年/香港映画/1時間50分)
岩波ホールで見るにはかなり甘たるい映画だが、去年の超ロングラン映画『宗家の三姉妹』に続く、香港の女性監督メイベル・チャンの1998年の作品。評判の高い『誰かがあなたを愛してる(秋天的童話)』は、あまり好きになれなかったが、歴史に翻弄される女性の生き方をドラマチックに描いた『宗家の三姉妹』は堂々とした大作で、大好きな映画だ。そのメイベル・チャン監督ということで期待は大きかったが、前作とは別の意味でこの映画も私の好きな映画の中に入りそうだ。監督の自叙伝的要素も入っているのであろうか、70年代香港大学を舞台にして、恋、学生運動、忘れがたい青春の日々、そして海外への留学、結婚、結ばれなかった恋人との再会....ありとあらゆるロマンテックな要素が満載されている。とりわけ青春の回想部分はほとんど少女マンガ的甘さ。繰り返される偶然の出会いもリアリティに欠ける。
だがこの映画の退屈な部分を救っているのがシュー・ケイの魅力的な演技だと思う。ファニーフェイスのこの台湾出身の女優は、「色情男女」以来あれよあれよという間に人気者になって、最近の香港映画でこの人の顔を見ない日はない。コケテッシュな感じがあまり好きになれない俳優だったが、この映画ではとても素敵な女性を演じている。学生運動に燃える恋人(レオン・ライ)に翻弄されながらも彼を一途に愛するあどけない女の子から、時を経て、裕福な夫をもつ人妻で、自らも仕事を持つキャリアウーマンとなった大人の女性。この二つの年代の女性をうまく演じ分け、彼女の変化がそのまま時の流れを反映する。メイベル・チャンは女優の魅力を引き出すのが巧い監督なのかもしれない。レオン・ライのほうは悪くはないがインパクトは無し。彼は絶対にハードボイルドの方が似合う!あの「天使の涙」の圧倒的カッコよさ。「ヒーロー・ネバー・ダイ」も素敵だった。甘いマスクにはクールな役柄の方が絶対にいい。
あんなに愛しあっていたのに、成就しなかった恋。長い時を経て再会した二人が追い求めたものは、失われた愛だったのか、あるいは遠い青春の日であったのか。香港が中国に返還されるその記念的な年。失われた思い出を抱いたまま、二人は新しい時を迎えることなく、ガラスの城の中に消えて行く。思い出の中の透明な城の中に。
(AUG 3 2000)


異常気象−「日本はすでに亜熱帯」


今年の夏の暑さときたら。7月の後半にすでに30度を超す猛暑だったが、先週末は9月に入ったというのに、なんと40度近くまで気温が跳ね上がる。テレビニュースでは東京で38度だとかアナウンスしていたが、その日我が家の空調の室外温度は確かに40度を示していた..。確かにクーラーでこんなに室温を下げてるのだから、その熱は外にゆくに決まってる。この調子だと、南極や北極の氷がどんどん溶けてるんじゃないだろうか。地球はやばいんじゃないだろうか。

数日前の新聞に、米サン・マイクロシステムズの創設者でもあるビル・ジョイという科学者が「このまま科学技術が進歩すれば人類の滅亡を招きかねない」という論文を発表して大きな反響を呼んでいる、という記事が載っていた。その技術とはとりわけ、遺伝子工学、ナノテクノロジー、ロボットの三分野。たとえば、ナノテクロノジー。それは分子で機械をつくり、それを体内にいれて細胞を修復させたりすることも夢ではないらしい。そうすれば、人の老化が細胞が傷ついて壊れてゆくことならば、そのテクノロジーで人間の寿命を飛躍的に延ばしたり、あるいは不死に近いことまでできるのかもしれない。あるいはコンピューターによる遺伝子情報の完全な解読。クローン人間の製造。どれもが夢のようなテクノロジーであるのだけど、それらが私達にもたらす未来は、なんだか陰惨としてはいないだろうか。寿命をどんどん延ばして、ヒトという種の自然な新陳代謝を止めてしまっていいのか。あるいは、もしヒトが不死に近いような存在になれば、それはあらゆる進歩の終焉であり、その時点で全てが停滞してしまう墓場のような生に違いない。少なくとも時間の概念や、生きることの意味なんかが根底から覆されてしまうはず。
これらの技術が私達にバラ色の未来をもたらすと単純に信じることは、もはやどんなナイーブな精神をもってしても難しいだろう。そして、今すでに、技術革新の最先端にいる人達からも、もはや自分達では制御できないスピードで進歩してゆく技術に対する、危機感や恐怖感が語られ始めている。「人類滅亡」などというSFじみた言葉が少しづつ現実味を持つようになる時代、それが21世紀なのかもしれない。
(SEP 7 2000)