| 2002-09-07 |
| もっとメキシコ |
| 良質な映画は人を饒舌にする。何かを語らずにはいられなくなる、語り尽くせない何かを。Y TU MAMA TAMBIEN 『天国の口、終わりの楽園』(2001年/メキシコ/106分)。
季節は終わり、彼方へと過ぎ去って行く、自然の季節も、そして人生の季節も。不安、期待、焦燥の入り交じった人生の祝祭である少年時代は、ある日突然その扉を閉じる。それが祝祭であったことにさえ気付かないうちに。突如目の前に現われた輝く青い海は、天国への入り口であったに違いなく、だが人はそう簡単には天国へなど行けはしない。少年達はまた踵を返して現実へと、人生へと連れ戻される。海辺に広げたピクニック道具は、いつしか片付けられる。そして私達が目撃してしまった、苦くそして甘美な秘密は閉じられた扉の中。 メキシコの埃っぽい乾いた風景の中に流れるブライアン・イーノ。そしてフランク・サッパ。監督のアルフォンソ・キュアロンは61年生まれ。官能的なスペイン語の響きと、陶酔をさそうメキシコ音楽、そして主演の若き二人、ガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナの魅惑はほとんど危険ですらある。今年のベストワン間違いなし。 (恵比寿ガーデンシネマ) |
| 2002-04-05 |
| 恋する惑星 |
| 久しぶりの香港は、思いがけない懐かしさで私を迎えた。アジアの都市に感じる、外国のようで外国でない感触が好き。とりわけ香港は、まるでよく見知った故郷のような気がするのはなぜだろう。すこし歩くだけでぐったりするムシ暑さ、喧燥、騒がしい広東語、不況下でも元気な人々。もちろん彼らにだって悩みはあるだろうけど、あの旺盛な食欲を見ていると、人生を十分に謳歌しているのは間違いない。
金曜日の夕方日本を発って、その日の夜にはチムサーチョイの劇場の座席に座っていた。翌日から友達と合流。2002年の香港国際映画祭−昔のキャセイの特集上映やタイ映画、最新の香港映画や韓国映画を見る。ホテルの高層階からみる街の眺めは、相変らずシュールで、切り開いた山の傾斜地に目も眩むような高層ビルが林立してるさまは、何度見ても見飽きない。 |
| 2002-03-30 |
| ささやかな日々 |
| じめじめした雨の続いた春先からこの初夏にかけて、確かにいろんな映画を見ることには見たのだが、ひとつひとつをじっくりと噛み締める余裕もないままに、時間だけがどんどん過ぎ去って行く。脳裏をよぎるのは、わけもなく目にやきついた幾つかのシーンばかり。
『荒ぶる魂たち』(2002年/日本)三池崇史作品。硬質のハードボイルド。ヤクザ映画なのにスタイリッシュなのは主演の加藤雅也を始めとする俳優たちがみなキマっているからに違いない。ただ、『チング』を見てしまった後では、どんなヤクザ映画も私には物足りないものになってしまった。(渋谷シネマソサエティ) 『美しい人生』C'est Quoi La Vie ? (1999年/フランス) 予告で見た映像のあまりの美しさに惹かれ、おもわず劇場に足を運ぶ。静かでささやかな幸せが、実はなにものにも代え難いものであるのに、人はなかなか気づかない。それはきっと、十分に長い年月を生きてこないとわからないものなのかもしれない。 ある貧しいフランスの農村。両親、祖父母、妹と暮らす主人公の青年は決して今の生活に満足していない。しかし、狂牛病騒ぎで家業の酪農が行き詰まり、父親は自殺して一家はバラバラになる。祖父の痴呆、事業の失敗…すべてに行き詰まった青年は、しかしもう一度生きるために、祖母の田舎であるセヴェンヌに移り住み、家族を集めて新しい生活を始める。暗い物語ではありながら、人々が真摯に生きようとするさまが胸をうつ。悲惨な状況で、でも青年はひとりの女性と出会う。彼女もまた人生に傷つき、再生の地を探しているひとりだった。二人の間に生まれる深い共感、そして愛。どんなに絶望的な時だって、救いはある、絶対に。(新宿武蔵野館) |
| 2002-03-08 |
| 聞こえない音楽 |
| ホンサンス監督の『江原道の力』、そっけないくらいに地味な女の子が汽車に乗ってどこかへ出かけ、何の変哲もない郊外の駅に到着する。彼女は駅前の広場に立ち、途方にくれたように広場の前にのびる道を見ている…という何でもない冒頭シーンを見た瞬間に、私はこの映画に対して深い愛着を感じた。この「ざわざわした日常」感。こういうのが好きだ。で、さらに別の女の子がでてきて、そこに男の子も加わり、でも何か事件や物語が始まるわけではない。そこにあるのはただの日常。でも間違いなくそれは「映画的」日常だった。
静けさがある。予兆を含んだ豊かな静けさが。今の韓国におけるもっとも繊細で洗練された監督であることは間違いない。 (新宿武蔵野館) |
| 2002-03-05 |
| 島 |
| 「...すべてが無残で残酷だった。運命は親切でなく、人生はむら気で、むごく、自然には親切も理性も存在しなかった。しかし、偶然にもてあそばれるわれわれ人間の中には親切と理性が存在するのである。私たちは、たとえ短い間だけであるにせよ、自然や運命より強くありうるのだ。私たちは必要な時には互いに近より、互いに理解する目を見合い、互いに愛し合い、互いに慰め合って生きることができるのである。」 (ゲルトルート/Hermann Hesse)
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| 2002-03-02 |
| 人生の味わい |
| マヌエル・ド・オリヴィエラの『家路』 Je rentre a la maison(2001年/ポルトガル・フランス) 老大家オリヴィエラの映画の残酷性についての物語。不自然でしっくりしない仮面を被り、焦燥と疲労困ぱいの果てに、ミッシェル・ピコリ演ずる老俳優ヴァランスは、撮影を放り出して家へ帰る。映画に命を吸い取られたかのように。そこで物語は終わる。1908年に生まれ、20世紀全部を生きてきたこの監督によるなんと諧謔に満ちたラストであろう。にもかかわらず、この映画全編に満ちた光が眩しい。さりげないパリの街角、青空に映える観覧車、タクシーの窓から見る、レパブリック広場のブロンズ像に書かれた「自由、平等、博愛」の文字。新聞を読みながらコーヒーを飲む毎日のカフェ、ウィンドウを眺めながら、気に入った革靴をみつける−パリはヴァランスの生活そのものである。あの愛らしい孫息子は、朝の寝室で寝たふりをしながら突然口笛で小鳥の真似をしてみせたヴァランスおじいさんに、また会うことができただろうか。
(日比谷シネシャンテ) |
| 2002-02-20 |
| 言葉のエロティシズム |
| 自分は本当に生きているだろうか、という現実感の希薄さ。そのリアリティの欠如を埋めたくて、ほの暗い映画館の、確実に非・現実である映像のうちに、まごうことなき「リアル」を探そうというのだから、ずいぶん皮肉な話ではある。もちろん、そんな「生きた映画」に出会えるチャンスは極めて希なのであるが。『アモーレス・ペロス』 amores perros (1999年/メキシコ) 喧燥に満ちた混沌のメキシコシティで、人々は愛し合い、憎しみ合い、血を流し、死んでゆく。だたそれだけなのに、どうしてこの映画はこんなに生々しく息づいているのだろう。生きていることの本物の息吹が、画面の隅々からほとばしり出ている。猛スピードで走り抜ける車は、生の焦燥感そのものであり、犬たちの血なまぐさい闘いは人々の怒りと酷似する。皆それぞれが苦しみもがきながらも、どこへも行けない。その血の滲むような悲哀を包むのが、あのよく回る巻き舌の、暖かく肉感的なスペイン語の響きと、スペイン語で歌われるメキシコのポップ・ロック。このラテンの響きは、何か官能的で、夏の午睡の気だるさを伴って私達を誘う。兄嫁のスサナを愛してしまう純真な青年オクタヴィオ、交通事故で人生の絶頂から突き落とされるスーパーモデルのバレリア、殺し屋の顔をもつ謎の老人エル・チーボ−ある日、車同士が激突する路上で、この3つの生きざまが目くるめくスピードで交差する。それは物語の始まりであり、結末でもあり、また新たに始まる次の物語の端緒でもある。この2時間半にもおよぶ物語が、まるで一瞬の甘美な夢のように感じられるのは、青年オクタヴィオの目が、あまりに純粋に美しく輝いていたからに違いない。ラストに流れる「ルチャ・デ・ヒガンテス」に涙。
(シネセゾン渋谷) * * |
| 2002-02-17 |
| イタリア映画大回顧(3) |
| 全身毛むくじゃらの女が、男に騙されて見世物にさせられる『猿女』(1964年/マルコ・フェッレーリ)
修道院に胡散臭い奇蹟劇の巡回上映にきた撮影技師の男が、スライドを上映する合間に、昼飯にありつこうと台所の裏口に入り込み、そこで働くオバサンたちと軽口をたたきながら、ふと片隅で顔を隠すようにして働いている娘の後ろ姿を目に留める…という実に巧い物語の始まり。ナポリ−奇形や貧しさや悲哀の似合う街。女を見世物にしながらも、それでも完全に冷酷無比にはなれなかったこの男の、最後のため息が味わい深い。 『ポケットの中の握り拳』(1965年/マルコ・ベロッキオ)あまりに衝撃的で、何か途方も無い深淵が見え隠れするフィルム。イタリアの郊外の古びた邸宅に住む、陰惨な一家。母親は目が不自由で、健全なのは長男ただ一人、あとの妹、弟たちは癲癇もち。彼らは常に、絶望と破滅の一歩手前の崖っぷちに立たされている。無能で、優雅で、無垢な魂たちの、神経症的な笑い、神経症的な怒り。雪の残った遥かな山並み、古びた屋敷のベランダから見晴るかす遠い地平−この不吉な物語の舞台はあまりに美しく印象的だ。暗く不安な旋律で始まる冒頭から、驚くべきラストまで、そしてまたそれぞれの人物の細かいディティールに至るまで、切ない愛おしさを感じずにはいられない。この映画のことを、決して忘れることはないだろう。 (国立近代美術館フィルムセンター) * * |
| 2002-02-13 |
| LE VENT DE LANUIT 『夜風の匂い』 |
| 闇に沈んだパリ、夜風に吹かれるセーヌ河岸の若葉、地中海、パリ、ベルリン。フィリップ・ガレルという作家の個人史が滲んだ物語。年老いた女も、大学教授のその夫も、女の愛人の彫刻家見習いの青年も、謎めいた建築家の中年男も、みな愛を渇望しながらも、同時にその孤独を楽しんでいるようにも見える。始終どこか取澄ました印象のある登場人物たち。生きている人間ではなく、何か過去の亡霊をみているような気にさせられる。最近は、作家性の強い映画で、しかも脇役や汚れ役でも厭わず登場するカトリーヌ・ドヌーブ。しかもこの作品では、有に20歳以上の年の離れた青年に執拗につきまとい疎ましがられるという痛い役柄。残念ながら、「成熟した女の愛と苦悩と悦び」というよりも、気の滅入る陰鬱さばかりが残った。
(銀座テアトルシネマ) |