時は流れ、そして再びめぐり合う
結構辛いことばかりで八方塞りなんだけど、それでも人生のほのかな愉しさを伝えてくれるような映画となると、これはもうイギリス映画をおいて他にない。『シャンプー台のむこうに』 Blow Dry (2000年/イギリス/95分 監督:パディ・ブレスナック)
かつてイギリス一の美容師だった父親→コンテストで妻がモデル(女性)と駆け落ち→田舎の片隅で息子と地味な理髪店を経営→その片田舎で突然全英ヘアドレッサー選手権が開催されることになる→異様に張り切る市長→ライヴァルはキザなカリスマ美容師→一度は人生をあきらめた父親が紆余曲折の末、再びコンテストに挑戦する。このストーリーをみただけでも絶対に面白そうだけど、果たして、期待した以上に、人生の味わい深さと幸せの気分を残してくれる秀作なのであった。息子役は人気のジョシュ・ハートネットだけど、それ以上に素敵なのが父親のアラン・リックマン。「いつか晴れた日に」では、苦虫噛み潰した堅物の大佐がハマリ役だった演技派。この人がハサミを持ってヘアドレッサーっていうんだから可笑しい。嫌味なカリスマ美容師は見覚えがあると思ったら、「スティルクレージー」でボーカリスト役を怪演したビル・ナイ。妻やその恋人など、周囲の俳優たちも味わいがあって、みんないい。そして驚いたのは、突然の全英ヘアドレッサー選手権開催で舞い上がった田舎町の市長を演じていたオッサン。最後にはプレスリーばりに舞台で歌い出してしまったこの印象的な市長、カタログによるとデヴュー作が「時計仕掛けのオレンジ」とある。はて?
よくよく記憶をたぐってみると、そう、確かに彼はあの映画でマルコム・マクダウェルと徒党を組んで悪さをしていた少年の一人だった!そして、そこには少年をオヤジに変えた30年近い時の流れがあったのだった。その時、時間の流れが恐ろしいほど鮮明に私の前に立ち現われた。シャンプー台のむこうに、遥かな追憶の日々が見え隠れする。
(Jan.30,2002/シャンテ・シネ)
パンソリの歌にのせて
イム・グォンテク監督による『春香伝』(2000年/韓国/120分)を見る。韓国の古典で、何度も映画化されている物語だが、初めて見る「春香伝」は非常に興味深かった。儒教的なモラルに縛られた春香像ではなく、監督独自の新しい解釈による春香伝は、とりわけ夢龍と春香が結ばれるシーンのきわめて官能的でなまめかしいのに驚いた。映像が美しく、森の中でブランコに乗る春香のシーンなど忘れ難い。全く無名の若い俳優を起用している点も、映画に硬質な魅力を与えていると思う。
面白いのは、現代の舞台でパンソリが歌っているシーンから始まるこの映画は、その歌の中の物語が映画で再現されるという構成になっている点だ。歌とドラマが分かち難く同時進行してゆく構造が、この映画の一番の魅力であると言ってよい。そしてそのパンソリの力強い歌声。シンプルでありながら、何か遠いむせび泣きにも似たその旋律は、新鮮な驚きと奇妙な懐かしさを呼び起し、不思議な感動を私に与えた。
(Jan.26,2002/池袋新文芸座)
静謐の美学
アン・リーの美学は健在だった。大好きな監督なのに、ハリウッド風の大作だったらどうしようという危惧が見ることを躊躇させていた『グリーン・ディスティニー』(CROUCHING TIGER,HIDDEN DRAGON/ 2000年/アメリカ・中国合作/2時間)。ミッショル・ヨーとチャン・ツィイー演じる二人の凄腕女剣士の凛々しいこと!映画の主役は、この戦う二人の女だ。ユンファもチャン・チェンもここでは影が薄い。思えば、アン・リー監督の映画の主人公はいつも女たちではなかったか。「ウェデイング・バンケット」こそゲイの青年の物語だが、「恋人達の食卓」も「いつか晴れた日に」も女姉妹たちが主人公で、そこでは女性が実に生き生きと魅力的に描かれていた。そして今回の映画では、女たちは巧みに剣をあやつり、空を飛び、水の上を走り、命がけで戦う。
冒頭。静まり返った月夜に、つらなった屋根の上を自在に飛び回る覆面の剣士。これは、まさに幼い頃に見た夢ではなかったろうか。子供のころに夢見た物語世界。それがここにあった。そしてその映像の、音の、なんと繊細で美しいことよ。アン・リーは夢想的な物語世界を作り出す天才だ。この人もまたきっと、物語が好きだったに違いない。派手なワイヤーアクションやCGを使っていても、それが目的ではなく、ただの手段にしか過ぎないことが感じられる。大作でありながら、それでも上質で繊細な美学を感じさせてくれる映画なんて、めったにあるもんじゃない。娯楽映画は、こうあるべきだ。
(Jan.22,2002/池袋新文芸座)
モレク神−ヨーロッパ文化の文脈
週末にかけて、引き続き古いイタリア映画を見る。
いずれも1910年代近辺のサイレント映画。判事の娘が女優になろうとして、家族を巻き込み一大騒動を引き起こす『大女優チカラ・フォルミカ』は、愉快で軽妙なコメディ。同じくルーチョ・ダンブラによる『妻たちとオレンジ』の主人公は、独身の青年公爵マルチェロ。彼の一日ときたら朝の11時過ぎにようやくベッドを離れ、身繕い後に軽く乗馬をして目を覚まし、友達とテラスでシャンペンを飲みながら昼食、また運動をしたあと、女友達と午後のティータイム、それが終わればフェンシングで汗を流す。ようやく日も暮れ始め、マルチェロは正装して出かける。まずバーで食前酒、それから観劇かオペラへ繰り出し、10時にレストランで正餐。その後は仲間とカード遊び。場所を移って友達とさらに飲む、しゃべる…マルチェロが家に帰り着いた頃には時計の針はすでに4時をさしている。そして翌朝11時に目を覚まし...毎日がその繰り返し。そんな生活の挙げ句に彼は頭痛に悩まされるようになり、医者の勧めで湯治に出るのだが、その郊外の湯治場も暇をもてあました老人貴族たちの溜まり場だった...というのが話の導入部分なのだが、それにしても、このマルチェロの優雅で無為な生活ぶりときたら、ほとんど私の理想に近い。
そしてイタリア無声映画の代表的一本と言われる大作『カビリア』。これには驚かされた。紀元前3世紀のローマとカルタゴの争いであるポエニ戦争の時代を扱った歴史劇だが、セットの壮大さといい、特殊効果といい、実に豪華な映画。舞台装置が巨大であるせいか、時々人物がすごく小さいのが不思議な効果を与えている。ローマの兵隊が、壁をよじ登るために盾をつかって段々状に人間階段をつくっていく個所や、ローマ奴隷マチステの造形的おもしろなど、場面場面に驚きがいっぱい。
さらにこの映画で私の関心を一挙にひきつけたのが、富豪の娘カビリアがエトナ噴火の混乱の折りに海賊に誘拐されカルタゴに売り飛ばされ、挙げ句はモレク神の生け贄にされそうになった、というくだり。
またしてもモレク神。ソクーロフのヒットラーを主人公にした映画も「モレク神」だ。これが何なのか私は知らなかったのだが、なんでも古代セム族が祭った子供を犠牲に要求する恐ろしい神で、キリスト教時代以降は災いを意味するシンボルとなったという。この映画の中のモレク神は、三つの目をもった恐ろしい牛の姿をしている。その神への生け贄として、男の両手の上に高々とかかげられた全裸の少女が壇上へと運ばれゆくそのシーンを見て思わずアッと叫びそうになった。それは、レッド・ツェッペリンの5枚目のアルバム『聖なる館』のジャケットの構図と同じだったからだった。この古い異教徒の生け贄の記憶は、長い歴史を経てなお、現代でもヨーロッパ人の潜在的イメージとして生きているのであろうか。ヨーロッパ文化の奥深い源流にふれたような気がして、一瞬目眩を覚えた。
(Jan.20,2002/国立近代美術館フィルムセンター)
音楽・物語・映画
イタリア無声映画のピアノ伴奏にすっかり心を奪われる。演奏者はスクリーンを見ながら譜面なしで演奏していたので、即興的な部分も多いのだろう。だとするなら演奏者の感性や技量で、映画の印象が随分変るはずだ。
今回のイタリア映画大回顧で登場した奏者のひとり、アントニオ・コッポラ氏の伴奏は、ことのほか素晴らしかった。なんて言ったらいいだろう...優雅で情感に満ち、そして繊細で。解説によると、25年前に無声映画の音楽作りに関わった時に衝撃をうけて、以来すべての音楽的野心を捨てて、無声映画の伴奏や作曲に生涯をささげた、とある。さもありなん。それ程までにコッポラ氏の演奏は、絶妙に映像と一体化し、その価値を限りなく高め、至福の時を生み出していたのだった。語りすぎもしないし、語り足りなくもないピアノ伴奏。職人芸的な器用さを要求されるだろうが、しかし楽しい作業に違いない。なぜなら、音の無い世界に、音楽で生命を吹き込むのだから。
それにしても音楽の力!あるひとつの映像と、あるひとつの旋律の出会いが、どうしてこれ程までに感動的なのだろう。コッポラ氏の夜が忘れられない。
(Jan.13,2002/国立近代美術館フィルムセンター)
チョコパイの味
日本での韓国映画ブレイクのきっかけとなった「シュリ」も素晴らしい映画だったけど、『JSA』(2000年/韓国/110分/監督:パク・チャヌク)は、それを遥かに超えて、見るものにいろんなことを考えさせる傑作である。物語の時制は複雑に前後し、事件の本当の姿はすぐには見えてこない。この映画は絶対に二度見るべきである。結末を知った上で、もう一度最初から見直すと、さらによく理解できるばずだ。一回見るといろんな疑問が浮かんでくる、そして二回、三回と見たくなる。そしてその問いかけはとても重い。
韓国の人々にとってはもちろん悲劇であるが、政治的緊迫はさまざまなドラマを生み出し、それらをテーマにした映画はリアリティに裏打ちされて、さらに劇的なものになる。韓国映画の強み、と言ったら不謹慎だろうか。それにしても、あの衝撃的なラストには驚かされる。この映画が断固とした意志によって作られた映画であることは明らかだ。スヒョクの死の意味を、私はずっと考えている。
(Jan.15,2002/池袋・新文芸座)
鯨のなきごえ
韓国の原子力潜水艦が日本に向けて核ミサイル発射、というショッキングな内容の『ユリョン』(1999年/韓国/103分/監督:ミン・ビョンチョン/製作:ウノ・フィルム)。主演の二人の俳優チェ・ミンスとチョン・ウソンの熱演が印象的だ。潜水艦という狭い限定された空間の中での密室劇は、最後まで息をのむ緊迫感に満ち、ドラマチックな展開にみちた骨太な映画。エリート将校役のチョン・ウソンの美男子ぶりもさることながら、狂気の副艦長を演じるチェ・ミンスの男臭さ、精悍さはため息ものである。(「リベラ・メ」では、なんであんなに太ちゃったんだろ?)。「祖国は常に蹂躪されてきた。核は、弱い私たちにも主権を与えてくれる。放漫なアメリカや日本の言いなりにはならない」とつぶやくチェ・ミンスの言葉は、リアリティがあって、単なる娯楽映画の枠をこえている。その異様な祖国愛に燃えるチェ・ミンスに対して、核が日本を、ひいては世界を破滅させることを防ぐべく、命をかけて阻止しようとするチョン・ウソン。閉じられた「幽霊船」の中で悲劇のドラマが繰り広げられていたことは、ついに誰に知られることもなく、潜水艦は深い海の底に静かに沈んでいった。悲しい結末が胸に痛い。
(Jan.15,2002/池袋・新文芸座)
失ったものは何?
「じゃあ、君はいったい誰なんだ?」そう問われて、スージーは大きな目を見開いたまま押し黙ってしまった。『耳に残るは君の歌声』The man who cried (2000年/イギリス・フランス合作/1時間37分/監督・脚本:サリー・ポッター)
ここに登場するのは、皆故郷を遠く離れた者ばかりである。舞台は第二次世界大戦前夜のパリ。ロシアの森でかつてフィゲレ(小鳥)と呼ばれた少女は、父を追ってたった一人冷たい北の海を渡った。チェーザーは住処を追われたジプシーであり、故郷を捨てたローラは遠いモスクワの寒さを思い出す。オペラ歌手のダンテは貧しい南イタリアからやって来た。皆たどたどしい「外国語」を話して生きのびてゆく。人は故郷を追われ言葉や文化を失うと、否応無しに自らのアイデンティティーを問わざるを得なくなる。自分はいったい何者であるのか。自分はどこから来たのか。
アメリカに渡った父は家族も言葉も宗教も捨て、社会で成功をおさめていた。少女は再び海を渡り、困難の果てにこの父親のもとに辿り着く。そしてそこで、幼い頃に父親が歌ってくれたイディッシュ語の子守り歌を歌う。感動的な場面である。しかしスージーの旅はここで終わりではないはずだ。自らの歌を歌い、自分達の言葉を話すことだけがアイデンティティーの全てではない。本当の自分探しが始まるのはこれからなのだ。
「オルランド」「タンゴレッスン」と個性的で独特の世界を作り出してきたサリー・ポッター。いずれの作品でも音楽が非常に重要な役目を演じているが、今回の映画も音楽がもうひとりの主役である。オペラ、ジプシー歌謡、ユダヤの伝統音楽等がふんだんに使われ、言葉の代わりに人々の心情を情感的に伝えてゆく。「スターを使いたくない」と前作で明言していたボッターが今回起用したのは個性的ハリウッドスター。表情だけで演技することのできるクリスティーナ・リッチはこの言葉の少ない役柄にぴったりである。そして、深夜のコンコルド広場を馬に乗って駆け抜けて行くシーンが幻想的なジョニー・ディップ。
迫害された民族、人々の間の普遍的感情、言葉とは何か、音楽とは何か−多くの重要な問題をテーマにしているが、その表現方法はいたって平易で直接的である。不思議な雰囲気をもつ抽象性が特徴のポッター作品の中では、かなり「異色の」映画と言っていいのではないだろうか。スターを使いテーマや表現方法をわかりやすくしたことで、これまで以上に広範な話題性を呼ぶであろうが、しかしその声がどれだけ深く観客に届くかはまた別問題である。
(Jan 14 2001/シャンテ・シネ)
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