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ha答えのない問い

この映画が発する「痛み」の前には、すべてが軽薄で皮相なものに見えるだろう。『受取人不明』 Address Unknown (2000/韓国/117分/監督・脚本:キム・ギドク 主演:ヤン・ドングン、キム・ヨンミン、パン・ミンジョン)。
のどかな韓国の田舎町の風景にいかにも異様に映る、混血児チャングクの浅黒い肌。黒人米国兵を父にもつ彼は何重にも差別され虐げられ、母親と二人で町外れの赤いバスに住む。この社会で彼に与えられた仕事は、粗暴な犬の屠殺人の下働きだけだった。顔半分を髪で隠した女子高生ヨンオク。彼女は幼い頃に兄が遊び半分に撃った鉄砲弾で片目を失っていた。そのヨンオクは目を手術するお金のために、アメリカ兵の愛人になる。そして、彼らをみつめる写真屋の内気な少年ジフム。チャングクの母親は、アメリカに戻った夫に受取人不明の手紙を書き続ける。社会から疎外され狂人扱いされる母親に対してやり場のない怒りをぶつけるチャングク。彼らをとりまく運命はあまりに理不尽で、彼らはその過酷さに押しつぶされんばかりだ。彼らの重過ぎる運命は、アメリカによって与えられた。しかし一方、若いアメリカ兵はつぶやく、「こんな他所の国で、僕たちは一体何をしているんだ。敵なんてどこにもいないじゃないか」と。彼らもまた目的を見失い、袋小路に迷い込んだ被害者だった。
驚くべきは、このやりきれない閉塞状況の中で、それでも映像に宿るのは、明け方の野良に流れる冷たい空気のごとく、あまりに清冽な詩情なのである。黄金色に輝く畑に上に広がる澄み切った空、その中を走って行く少年、あるいは踏みつけると不思議な音のする地面、階段のある小さな東屋、随所にちりばめられたブラック・ユーモア。その相反するイメージにほとんど目眩をおぼえながら、物語はどこにも出口のない地平へとフェイドアウトしてゆく。
この逃れようのない宿命的な「生」に対して、ギドクは問いかける。「なぜ?」と。答えはどこにもない。風のなかに舞って飛んでいった手紙のように、それはまだ私達の手に届かない。
(Nov.23,2001/TOKYO FILMeX・有楽町朝日ホール)



ha黄泉への道行き


てっきり女性監督かと思って見ていたら、ソル・インゴンという青年監督の長編デヴュー作だった『フラワー・アイランド』Flower Island (2001年/韓国/126分)。
冒頭、女の独白に「マチュピチュ」という言葉が唐突にでてくるが、これは映画を見終わるとその意味がほのかに見えてくるような気がする。歌手である若い女は、舌癌で声を失う。顔中にピアスをつけたパンク少女は薄汚れた公衆便所で出産する。中年の主婦は子供にピアノを買う為に老人相手に売春をしているが、これが家族にばれてしまう。この不幸で傷ついた3人の女達が、ある者は死に場所を求め、ある者はまだ見ぬ母を捜しに、そしてある者は悲しみや苦しみを忘れさせてくれるという「花の島」を探して旅に出るのだが、それぞれが引き寄せられるように同じ道行きをたどっていた。女たちが乗り込んだ南海行きのバスは、一夜明けるとどことも知れぬ雪山に着いている。その時バスに中に立ち込める不可思議な青い光。その瞬間、これが黄泉への旅であることが了解される。困難な道のりの末たどりついたその島は、荒涼とした姿をみせて女達の前に立ち現われた。その島で3人待っていた謎の女性、そして女達の運命は..
「花の島」とは、そこで死と生が接する境界線。その門をくぐって、ある者は黄泉の世界へと旅立ち、ある者は再び生へと回帰する。若い女の死は、再生のための生け贄である。異様なおどろおどろしさで迫ってくるこの神話的物語は、不快であると同時に魂の深いところに触れる根源的な緊迫感をはらんでいる。島で女たちを待っていた催眠術師−しかし、この映画自体がひとつの催眠術なのではないか−映画が終わったときにふとそう感じた。忘れ難い作品である。
(Nov 23,2001/TOKYO FILMeX・有楽町朝日ホール)


halove/hate


それが新しい発見であり驚きでなければ映画に何の価値があろう。「目にみえないものを見せてくれる」映画にこそ出会う必要がある。
あの不愉快な程に魅力的な「魚と寝る女」を見て以来、監督のキム・ギドクという名前は私の引き出しの一番大切な部分にしまわれていた。この人の映画だけは見逃すまい。そして早くもその最新作 『Bad Guy』(2001年/韓国/100分 監督:キム・ギドク 主演:チョ・ジェヒョン)を見る機会を得る。予感は間違っていなかった。大胆不敵にして繊細なその映像は、さらに研ぎ澄まされて私達に突きつけられたのだった。そう、キドクの映画は、それ自体が挑戦状であると言える。ぼんやり見ていると、ナイフでグサリとやられてしまうような映画なのだ。ここでは、これまでの作品にある毒々しいまでの猟奇性は少ないものの、それでも尋常な物語ではない。
売春宿を仕切るヤクザ男ハンギ。男は街角で見掛けた女子大生に心を奪われ近寄って行くが、女は軽蔑の目でさげすむように一瞥しただけで男を無視する。怒り狂った男は、女をつかみいきなり強引にキスをするが、結局は周囲に取り押さえられて女は男につばを吐き掛ける。ハンギの目は憤怒と憎しみに燃えさかった。男はひとさらいのようにこの女子大生を拉致してついには売春婦に仕立て上げてしまう。どん底に落ち込んだ女。それをマジックミラー越しに無言で見つめ続ける男...
「魚と寝る女」が女の情念を表しているとすれば、これは「男の情念」を描き出す。ギドクの描く愛は常に極限状態にある。凄まじく、そして心が締め付けられるほどに切ない。ハンギの目に燃え上がる憎しみは、愛と表裏一体のなのだ。また、みずからを理不尽な運命へと突き落とした男に対して、微妙に変化してゆく女の心。憎しみと愛が絶望的な状況で交差するその瞬間、それはほとんど神聖ですらある。俗悪の極みである売春宿が舞台であるにも関わらず、だ。ここでもロマンティシズムは極力排除され、感傷的な共感をきっぱりと拒絶する。それは、あたかもファンタジーの世界に入り込んで行くような後半部分でもはっきりとしている。二人の憎しみが昇華された後でも、そこは決して私達を安心させたりホッとさせるような場所ではないのだ。また、すべての優れた監督と同様、俳優の選択が素晴らしい。主演のチョ・ジェヒョンは、怒りにみちたハンギそのものであると言ってよく、彼の存在なくしては「Bad Guy」はありえないだろう。
確固たる意志に貫かれたギドク作品は、その一瞬一瞬が私達に決断を迫っている。生半可な気持ちで見るべからず。これは挑戦なのだから。
(Nov 11,2001/釜山国際映画祭)


ha海を見た日


暗い森のなかで道に迷ってしまったような青春の日々。家を出て夜の繁華街をさまよう4人の若者達の目は、孤独で怒りに満ち涙をこぼすことさえない−『ティアーズ』 Tears (2000年/韓国/101分/監督:イム・サンス)
ざらついた彼らの心象風景のような、ソウルの街。ざわめく高速道路脇の土手に暮れなずむ夕闇、バイクで走り回る街並み。そのバイクを乗り回すのはボーイッシュな女の子であり、優しい顔をした男の子はいつもその後ろに乗っている。セックスの主導権も女の子だ。この二人の関係が興味深い。若いアマチュア役者の起用や、スピード感のあるディジタル撮影、センスのいい音楽の使い方等、とにかく「新しい」感じがする映画。とりわけ、現実に疲れ果てた4人が海へ向かうシーンが秀逸だ。夜の闇を走りぬいて辿り着いたその遠い海辺は、ゴミにあふれ腐臭がしていた。夜明けはまだまだ遠い。多くの挫折と絶望をのりこえた先に、いつか水平線は見えるのだろうか。
(Nov 03 2001/東京国際映画祭・シアターコクーン)


ha軽やかな飛翔


『バンジージャンプする』 Bungee Jumping of their Own (2001年/韓国/101分/監督:キム・デスン 主演:イ・ビョンホン、イ・ウンジュ)なんて、ずいぶん奇妙なタイトルじゃない?でもこれはタイトルのみならず、とっても変った映画なのだ。『吠える犬は噛まない』というこれもまたユニークなタイトルの韓国映画があって、実に独創的な傑作だったのだが、この「バンジージャンプ」もそれに劣らないほど独創的でユニークで、もうありとあらゆる讃辞をおくりたい位なのだ。最近の韓国映画って凄い。こういう発想ってどこから出てくるんだろう。大学生の二人はある雨に日に出会い恋をする。いつまでも、生まれ変わっても、ずっと愛し合おうと語り合う。卒業も近づき、ある日二人は駅で待ち合わせるがいつまでたっても女は来ない。駅に向かう途中で交通事故に遭って命を落としていたのだった。それを知らない男はあきらめて、兵役につく列車に乗り込む。そして17年の月日が流れた。主人公の男は結婚し子供もいて、高校の教師をしていた。そしてそこで不思議な出来事がおこる....
このとんでもない恋物語、驚きに満ちた意外性。甘くて、切なくて。時の流れをこえて何度も出会う恋人たち。二人は手を取り合って飛翔する。どこまでも自由だ。どこまでも飛んで行ける。
(Nov 01 2001/東京国際ファンタステック映画祭・渋谷パンテオン)


haそれでも生きてゆく


日本映画を見るのも本当に久しぶりだけど、昨夜の三池監督による『荒ぶる魂たち』がたいそう良かったので、すっかり期待して臨んだ『カタクリ家の幸福』 The Happiness of the Katakuris (2001年/日本/113分/監督:三池崇史)。これには実に驚かされた。やられたと言っていい。日本の「日常的俳優」たちが演じる映画にどれほどの新鮮さがあるのか私には半信半疑だったけど、その予想は心地よく裏切られた。すべての素敵な映画が持ち合わせている良質なユーモア、それがここにもあった。ユーモアというのは、それはもう生きて行くのに絶対に欠かせない何かであって、日々がどんなに辛くても悲惨でも、ユーモアさえあれば生きてゆける。私はそう思う。
思い出すとクスリと笑いだしたくなる…そんな映画こそが本当に至福の映画なのだ。とりわけそのバカバカしいラストは、泣きたいほどに感動的で。「カタクリ家の幸福」に出会える幸福。絶対に逃すべきじゃない。
(Oct 31 2001/東京国際映画祭・オーチャードホール)


ha悲しい目をした殺し屋


無垢な殺し屋、というカテゴリーがあるに違いない。『レイン』Bangkok dangerous (2000年/タイ/106分/監督:オキサイド&ダニー・パン)では、耳の聞こえない孤独な殺し屋が登場する。貧困な環境に育ち、そこで出会った人間はヤクザなチンピラばかり。幾ばくかの金と引き換えに人殺しをするという人生は、人間としての尊厳を捨てた最低限の生に違いないのだが、彼はその悲惨さに気付いていないが故に無垢なのである。それがあまりに痛々しくて、青年の暗い目の奥をのぞいてみると、私はそこに何か見たことをあるものを感じた。何の映画だったろう。しばらくして、ハタと気付いた。それはテリー・ホワイトの小説だった。『真夜中の相棒』。ここにも、己の悲惨さに気付いていない無垢な殺し屋が登場する。まだ殺す意味も、それが帰結するものが何であるのかも知らない幼なすぎる青年。彼はベトナム帰りで心を病んでいた。悲惨さの中で出会った相棒がろくでもないチンピラだったが、彼はその相棒を喜ばせるためだけに、無残な殺人を平気で犯してゆく。その悲しさ、切なさ。テリー・ホワイトの世界に通じる痛切さがここにもあった。主人公のコンには、当然ながら明るい結末など待っているはずもなく、人を愛することで初めて生の大切さ、そして己の悲惨さに気付くのだが、それはあまりに遅すぎたのだった。
(Oct 27 2001/東京国際映画祭・シアターコクーン)


ha
メリメ、ビゼーそしてカルロス・サウラ


『カルメン』CARMEN (1983年/監督:カルロス・サウラ)。感動的なまでの直球。泣きたいほどの単純明解さ。ここには、私が映画を見る理由がすべて詰まっている。一ミリのすきもない完璧な映画。シンプルで豊かで軽快で美的で幻想的。もちろんそれには、私のオペラ「カルメン」好きが影響しているのは確かなのだった。劇場のオペラの演目に「カルメン」を見つけたときの歓びは、なんて言ったらいいだろう。ご馳走の中に、さらに大好物を見つけたような気持ち。初めてこれを見たのは、夏のローマの野外劇場。イタリアの夜風の中に流れた「カルメン」の響きは、愉悦そのものだった。
そしてこのカルロス・サウラの「カルメン」も、まことに誘惑的なのである。時は現代。舞踏団を率いるアントニオは「カルメン」の上演に向けてカルメン役の娘を探していた。オーディションを重ねてもなかなか適役は見つからない。ある日古い知り合いのダンススタジオを見学中に、ひとりの若い娘が目に留まる。彼女の名前はカルメンだった ...
ここで、演技と現実、美的現実と日常が分かち難く溶け合ってゆく様は、ほとんど「奇蹟」であると言ってしまいたい。現代風のダンスに解釈されたフラメンコの素晴らしさも筆舌に尽くし難く。ナイフのエッジのようなアントニオ・ガデスの舞踏、パコ・デ・ルシアの哀愁を帯びたギター、舞台がダンスの練習場であるという簡素さ、極端に少ないセリフ、すべてが私達を深い酩酊に誘う。映画の悦びが、まさにここにある。
(Oct 23 2001 渋谷シネマソサエティ)