Girl meets boy
どんな楽しげ言葉とも韻を踏まない「シヴ」という名前をもつ主人公は、オペラ・プロンプター。名前の地味さと同じく、華やかなオペラ舞台の裏方の仕事だ。『はじまりはオペラ』Sufflosen (1999年/ノルウェー/97分/監督:ヒルデ・ハイエル)。このプロンプターというのは、舞台の下にある小さな窓から、歌手に歌詞を教える役目をもつ。その小さな箱の中が、シヴの仕事場。しかし、音楽をこよなく愛する彼女には、それは地味でも楽しい仕事だった。もう若くはなかったが、音楽を愛し、生き生きと仕事をし、そして相手は再婚だけど優しくハンサムな医者との結婚も決まっていた。自分だけの、幸せだけど狭い殻から抜け出して、シヴの本当の人生が始まるはずだった。
しかし、新生活は思ったように行かない。夫には前妻との間に2人の子供がいて、母親を恋しがる子供たちはシヴにいっこうになつかない。料理が下手で不器用な彼女は、努力するが空回りばかり。夫はどうやらまだかつての妻が気になるようで、しかも運の悪いことに、別れた妻が自動車事故で、家にころがりこんでくる。幸せどころか、八方塞がりだった。
しかし人生捨てたもんじゃない。職場のチューバ奏者との出合い、歌詞を間違えてばかりいるオペラ歌手との対決。シヴはみずから人生を切り開いて行く決意をする。舞台をめちゃくちゃにしてしまったシヴは行き場を失うが、夕暮れは美しく、彼女の肩を抱いてくれる男性もいる。生きてるって、きっと素敵だ。
主人公の生き方を愛情を持って描いてるので、見ているうちにどんどん共感がふくらんでいったのだが、案の定女性監督だった。オペラをプロンプターという立場から描くのも新鮮で、彼女の居場所は小さく薄暗いが、いごごちは良さそうだ。主役のシヴを演じるヘーゲ・シュイエンという女優は、ロメール映画のマリー・リヴィエールを連想させる。地味だけど芯の強い女性。こういう若くもなければ、特に美しいわけでもない普通の女性を魅力的に描くのがヨーロッパ映画だ。誰しも人生の美酒を享受する権利はある。みずから、その日々を切り開いてゆきさえすれば。オペラ「アイーダ」の歌声が流れる劇場を後にして、立ち尽くすシヴ。北欧の夜空は白々と明るく、いっこうに暮れる気配がなかった。
(Oct 22 2001 渋谷シネマソサエティ)
運命に追いつかれないうちに
荒涼とした冬空の風景に、黒いからすの死骸。不吉な予感に満たされた冒頭のシーンが、この映画のもっとも素晴らしい部分かもしれない。『日蔭のふたり』 JUDE (1996年/イギリス/2時間3分 監督:マイケル・ウィンターボトム)、原作はイギリスの文豪トマス・ハーディの『日蔭者ヂュード』。田舎者で石工のジュード(クリストファー・エクルストン)は、いつか大学に入ることを夢見て、仕事の合間を見つけては独学で勉強を続けるが、若い日に豚飼いの娘に誘惑されつまらない結婚をしてしまう。二人の間は長続きせず、女は家を出て行き、ジュートは幼い頃からのあこがれである大学町のクライストミンスターに移り住む。石工の仕事を続けながら勉強のチャンスを待つが、そこで聡明で美しいいとこのスー(ケイト・ウィンスレット)と出会う。二人はお互いに惹かれ合うが、まだ離婚していないジュードに対するあてつけに、スーはジュードの恩師と結婚してしまう。しかし、スーも年の離れたその結婚が間違いであったことにやがて気付くのだった。運命にもてあそばれながらも、二人は再び一緒になった。しかし、結婚せずに同棲を続け、またいとこ同士でもあるジュードとスーに社会は冷たく、いつしか彼らをとりまく環境は苛酷なものになっていた。子供をかかえ貧しさの中で破滅にむかってゆく二人を待っていたものは・・
音楽が素敵だ。音楽というか音というか。冷たく不思議な感触が伝わってくる。イギリスの音だ。少年の日に、遥か彼方にかすむ遠い町を見つめながら、未来への夢を抱いた夕暮れ。列車の煙。寒空にかかる木々の枝。子供の亡骸。すべてが物悲しく、幸せは束の間で、暗い運命が迫ってくる。19世紀イングランド。街の石畳には冷たい雨が降り、自由を求める二人が愛し合うにはあまりに窮屈すぎる時代だった。
(Oct 21,2001 NHK衛星第2)
草原に吹く風
主人公が同性愛者のイギリス青春映画といえば、何をおいてもまず『マイ・ビューティルフル・ランドレット』だろうが、この『同級生』 getreal (1998/イギリス/1時間50分/監督:サイモン・ショア) も悪くない。スティーヴンは、イギリスの地方の工業都市に暮らす平凡で内気な高校生。『アナザカントリー』や『モーリス』では主人公たちがみずからの性向を耽美的に思い悩んだりするが、現代に生きるスティーヴンは公園のトイレで相手探しをしたり、くったくがない。それでも両親や学校の友達には一切秘密である。そんな彼が学園の人気者ジョンに恋をする。甘い恋の喜び。二人きりで過ごす週末。でもその幸せも長く続かなかった。自分の恋愛を誇りに思うスティーヴンと、二人の関係を周囲に秘密にしておこうとするジョンの間にはいつしか亀裂が生じていた・・
主人公は最後にカミングアウトすることによって、恋人を失ってしまうが、一方みずからの生き方を肯定することによって彼は解放され自由になる。まだ失うもののない青春の日に、人生に対する誠実さを選んだ彼こそ、実は勝者であったに違いない。そしてスティーヴンの勇気を一番最初に理解したのが母親であり女友達であったことに、思わずにんまりしてしまった。時は春。草原の緑がどこまでも眩しい。
(Oct 10,2001 シネマカリテ)
豊かであるということ
この映画があまりに良くできていて、あまりに簡単に感動させてくれるので、疑いを持つ向きもあるかもしれない。しかも、この映画について語ろうとすると、誰しもとんでもなく凡庸でありきたりの言葉しか思い浮かばないだろう。でもそれはあの可憐な兄妹アリとザーラに免じて許してやって欲しい。そしてこの映画を素直に信じたい。『運動靴と赤い金魚』(1997年/イラン/1時間28分 監督:マジッド・マジディ)
アリが妹ザーラの靴を無くしてしまったために、たった一足のくたびれた運動靴を交代に履いて学校へ通う兄と妹。なんて切ないんだろう。でも幼い二人は貧しさを恥じるということをまだ知らない。時折見せるアリとザーラの屈託のない笑いは、ほとんど天上的である。家賃さえも払えないアリの家族は、それでも貧しい食卓から隣人にスープを分け与える。老夫婦がそのお返しにアリに与えることができるのは、たった一握りのつましい豆だけ。断ろうとする少年の手を取って渡された色とりどりの豆は、確かに宝石のように輝いてはいなかったか?人を思いやる心、人の痛みがわかる心、それらを持てる人々は幸いである。人間だから持てる他者に対する優しい気持ち。この物語は、人間として豊かであるとはどういうことかを教えてくれる。
映画の原題はChildren of Heaven。楽園の夢物語。でもこの嘘は信ずるに値する。
(Oct 7 2001 しんゆり映画祭)
アフガン北部同盟の最前線
10月1日(月)の朝日新聞より
・・・・戦車の横で旧式のソ連製カラシニコフ銃を構えていたのは、まだあどけなさの残る18歳のアブドル・バシール君だった。4年前、タロカン近郊の生まれ故郷にタリバーン軍がやってきて、市場を店を開いていた父と兄二人を殺した。復讐を誓い、14歳で志願兵となりこの最前線に配置されたという。故郷には母と4人の妹がいるが、事件以来一度も会っていない。
「14歳から毎日のようにこうして戦っていると、自分の将来に希望が持てなくなる。(小麦や米で支給される)軍の給料では家族を養えない。死んでしまいたいとよく思う。もし平和でチャンスがあれば、学校に行ってみたかった。」
「愛」?「自由」?冗談じゃない
スペイン内戦前夜の、老教師と少年の心温まる愛情物語だと思っていると、最後に横面をひっぱたかれるような衝撃が待っている。『蝶の舌』 LA LENGUA DE LAS MARIPOSAS (1999年/スペイン/95分/監督:ホセ・ルイス・クエルダ)
ある日老教師は少年を森へつれてゆき、蝶にも舌があり、普段は巻かれて見えないが蜜を取るときにだけそれを延ばすことを教える。、ガリシアの美しい自然に囲まれた小村で過ごされる牧歌的な少年時代。サキソフォンが好きな兄。仕立て屋で共和党の父。敬虔なキリスト教の母親。そして垣間見える大人の世界。子供の無垢さを描いた「けがれなき悪戯」「みつばちのささやき」と同様、このモンチョ少年の愛くるしさもスペイン映画の伝統だ。しかしその牧歌的情景も、ラストの一瞬に至るまでの前奏曲にすぎなかったことが最後に明かされる。
これは喪失の物語。無垢さの、少年時代の。あの最後のモンチョの表情は自分が決して無垢のままではいられないことに気付いた驚きの表情であり、「誰もが愛する人に石を投げる」ことに対する怒りの表情でもある。悲痛にゆがんだ少年の顔を前にして、私達はただ言葉を失うばかりだ。
(Sep 28 2001 シネスイッチ銀座)
現実の反逆
2001年9月11日以前と以後とでは何かが決定的に違う ...、何度も繰り返されるWorld Trade Centerのあの映像を見ながら、漠然とそんなことを考えていた。忠実な愛犬に突然手を噛まれたような、つまり、おとなしく飼い馴らされていたはずの現実がいきなりその本性を露にして、自らの「リアリティ」を主張し出したような感じ。リアリティを決定的に欠くからこそ、現実であり日常ではなかったのか。リアルとは、ただ再構築・再発見された美的現実の中にのみ存在するのではなかったの? しかもこの突然主張をはじめた「本当の」現実は、似非現実を真似てさえいたのだった。
剥き出しの
ほとんど悪意に近い生々しさ。『魚と寝る女』 The isle (2000年/韓国/90分/監督:キム・キドク)。この映画を好きだと言える人は少ないだろうが、いつまでも記憶に残る映画であることは確実。それも悪夢の記憶として。
設定がすごい。沼のような湖のような湾のような、もやの漂う不思議な湖面とそこに浮かぶ小さな小屋のついた釣り舟。まずこの風景に心奪われる。ここで男たちが釣るのは魚だけではない。この小屋付き船は売春宿も兼ねている。そして、女はこの釣り場を管理している。水、女、魚。ぬめぬめ、ひたひたとした淫靡な光景。そこに、自殺の場所を探して辿り着いた男が登場する。これは一応恋愛映画であるとしておこう。だかここでは恋愛の甘美さなぞは一切排除され、見るものは一瞬たりともロマンティシズムに浸ることは許されない。すべてが荒々しい剥き出しのままで、グロテスクなシーンは悪意に満ちたユーモアさえ感じる。
この凄まじい女を演じる女優のソ・ジュン。一言も言葉を発することがないのに、その表情、とくに目が恐ろしいまでにで多くを語り背筋がぞくりとした。言葉を発することがないからこそ多弁である。豊穣な静寂。そして、その悲しみの表情はあまりに痛々しい。
(Sep 26 2001 テアトル池袋)
アジアフォーカス・福岡映画祭2001
音楽ダンス付きのメインストリーム・ムーヴィーと呼ばれる娯楽映画の圧倒的な魅力に対して、いわゆる普通の社会派映画はいまひとつ生彩に欠ける昨今のインド映画。この映画は女性の自立を扱った映画であるが、古い社会的因習が女性を抑圧する構図だけではもはや興味をそそられるテーマとは言い難く、障害児が出てくるところもあざとい。というわけで、『パロミタ』 House of Memories (1999年/インド/132分/監督:アパルナ・セーン)は、監督兼主演のアパルナ・セーンの存在感とパロミタを演じたリトゥポルナ・スエングブタという女優の美貌のみがかろうじて印象に残った。
(Sep 21 2001)
ロシア的神経症
「ロシア映画の全貌2001」で『フルスタリョフ、車を!』 (1998年/142分/監督:アレクセイ・ゲルマン)と『動くな、死ね、甦れ!』 (1989年/レンフィルム/105分/監督:カネフスキー)を見る。スターリン時代を描いたゲルマン監督の映画の方は非常に難解で、しかも忍耐を強いる長さ。モノクロームの美しい画像は印象的だったけど、騒音に満ちた猥雑で混乱をきわめる異様な世界。凄まじいスピードでさまざまなイメージが飛び交ってゆき、あっけにとられる。海外で上映された時には「よくわからないが、すごいパワーだ」と評されたらしいが、この映画を楽しめる人がいるなんてまず信じれない。
一方、『動くな、..』の方は予想に反して抒情的な心にしみる映画だった。ロシア。極東の炭坑町スーチャン。地面はぬかるみ雪も黒ずんでいる。しかしその寒々しい風景の中で、少年と少女は屈託なく生きている。子供らしい明るい目をして。しかし少年の悪戯はだんだんエスカレートしてゆき...。
灰色に垂れ込めた空と荒涼とした景色が彼らを神経症に追いやるのだろうか。誰もがヒステリックで、あと一歩で狂気に陥りそうな苛立たしさを秘める荒野。その中で突然「炭坑節」や「五木の子守り歌」などの日本の民謡が流れる。いかにも唐突に。第二次大戦が終わった当時、極東には日本兵が抑留されていた。気の滅入るような極東の寂しい光景と日本民謡の物悲しいメロディはいかにもよく似合って、不思議な感覚を呼び起す。
(Sep 16 2001 三百人劇場)
またしてもバロック
ブノワ・マジメル演ずる美貌のフランス絶対君主ルイ14世は、優れた舞踏家でもあったそうな。『王は踊る』 Le Roi Danse (2000年/ベルギー・フランス・ドイツ合作/1時間55分/監督:ジェラール・コルビオ)
フランス映画祭横浜で見逃していたので、なんとも待ち遠しかったコルビオの新作を、「カストラート」と同じく渋谷シネマライズで見る。この種の音楽映画は劇場で見てこそ価値がある。17世紀のバロック・バレエ、宮廷舞踏、古楽(ムジカ・アンティクワァ・ケルンによる)、そしてフランス・オペラの誕生−前作と同様、歴史的興味をかきたてられるテーマ。イタリアやドイツのオペラに対して、フランスの古典はバレであり演劇なのだ。王の踊る宮廷バレの数々は華麗で、オペラの楽しみとはまた一味違った魅力がある。このルイ14世にその創作を捧げたのが、イタリア人音楽家のリュリと喜劇作家のモリエール。権謀術策うずまく宮廷を舞台に愛憎劇が繰り広げられるのだが、映画の中ではリュリが男色家で、美しい太陽王をプラトニックに愛するいう設定になっている。
ストーリーの出来はともかく、実に丹念に作られた豪奢なシーンの連続に息をのむ。宮殿でダンスの練習を重ねる王の周囲に立つ人々のポーズひとつをとっても、それはまさに17世紀の宮廷絵画の構図さながらで、動く絵をみているような錯覚にとらわれた。絶対君主と言うと、空疎で人間味のない人格を想像してしまうが、マジメルが演ずる若き太陽王は無垢で神秘的美しさを秘め、この映画の一番大きな魅力となっている。ヴェルサイユの広大な沼沢地帯へ宮殿建設の下見に行く場面の美しさはどうしたものだろう。黄金色の巻き毛が、草原を渡る風にたなびくそのありさまは。美を生み出す装置としてのバロックに、またしても酔わされる。
(Sep 16 2001 シネマライズ)
Never ever 'down-to-earth'!
Lascia ch'io pianga mia cruda sorte,
E che sospiri la liverta!
E che sospiri, e che sospiri, la liverta!
近頃、ヘンデルの歌劇「リナルド」の中のこの曲をいろんなところで耳にする。
なんで?なんで?この珠玉のアリアは、決して、まかり間違っても、街角のCDショップで無造作に流れていたり、陳腐な恋愛映画のテーマ曲であったり、あるいは「朝の連続テレビ小説」で使われたりしてはならないのである。絶対に!
「涙あふるる」 Lascia ch'io pianga / サラ・ブライトマンの輝く澄み渡ったソプラノで。(Sep 15 2001)
蠱惑的ハノイ
「青いパパイヤの香り」「シクロ」に続くトラン・アン・ユン監督の長編3作目『夏至』 a la verticale de l'ete (200年/フランス・ヴェトナム/1時間52分)。
いかにも多くの映画祭で受賞しそうな映画をつくるこの監督の新作は、アジアの映画というより、ベトナムを舞台にしたベトナム人の出てくるフランス映画の趣き。今回は母の命日に集まった3姉妹の心象風景をモティーフに、1ヶ月後にやってくる父の命日を迎えるところで物語りが終わるという、巧みで洒落た構造。ほとんど生活感を感じさせない美しい光景は、リアリティを超えた「美的現実」とかそういった重いものではなくて、どこかファッション雑誌的で、たとえば、同じようにアジアをスタイリッシュに映像化する王家衛の景色なんかとは随分違う。それにこの監督の撮るベトナムの女性は、まるで欧米人が見るアジア女性のごとく、エキゾチックて神秘的すぎる。美しい3姉妹が主人公でありながら、映画は女性映画では全くない。一番心に残ったのは、トラン・ヌー・イエン・ケー演じる三女とその実兄となまめかしい関係。そう言えば二人の部屋で流れていた音楽は、ヴェルベット・アンダーグランドだとかルー・リードだったりするのだった。彼女の部屋にかかってた綺麗な色のプラスチックの簾や、午睡用の赤い小さな枕、真似してみようかな。
(Sep 14 2001 ル・シネマ)
the day after
「そろそろ退院ですね。」
医師のその言葉を聞いた時、父と私は思わず手を取り合った。梅雨時に体調を崩し、夏の始まる頃にはすっかり体が動けなくなって入院生活を送っていた母。その苦しそうな表情を思い出すたびに、どれだけ眠れない夜が続いたことだろう。看病疲れで父親も憔悴しきっている。この不幸がずっと続く気がした。呪わしい夏の太陽。大切な人がいるってことはなんて苦しいんだろう。でも、そんな日々にもついに、ついに終わりが来た。辛い病気を乗り越えてくれた母親にありがとうと言いたくて。気が付くと、どこまでも高く秋空が広がり、次の季節が始まっていた。
(Sep 13 2001)
gaining through losing / ken hirai
すでに陽も高く上った夏の朝。永遠に続くような気だるい日差しの中で、父と一緒に洗濯物を干す。季節の終わりを予感させる涼やかな風を頬に感じながら。その時私は瞬時にして思い知ったのだった。悲しみの原因。
それは至福の幼年期に留まっておけない事。楽園にはタイムリミットがあること。夏休みは終わり、楽園は閉ざされる。私はたぶん本当は、どこにも出て行きたくなかったのだ。(Aug 2001)
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