| Happiness
『The Hours』(めぐりあう時間たち) ネヴァ河のほとりで
『Russian Ark』(エルミタージュ幻想) 永遠のカルメン
フランコ・ゼフィレッリの『Callas Forever』(2002年)は素晴らしかった。カラスを演じたファニー・アルダンは実に魅力的で、シャネルの衣装に身を包んだカラス=アルダンの美しさは圧倒的だった。 しかしそれにも増して、私を本当に打ちのめしたのは、カラスの声とともに甦った幻の「カルメン」だった。この底知れぬ歓喜と悲哀に満ちた、どこまでも通俗的でわかりやすい楽曲に、私はどれほど胸を熱くしたことだろう。もう20年近く前にローマの古代野外劇場で初めて見たこのビゼーのオペラは、瞬時にして私を虜にした。あの時から何度繰り返し聞きつづけても、その魅力はいや増すばかりだ。どんな人に歌われようと、どんな演出であろうと、それなりに魅力的で新しい発見がある。そして、ゼフィレッリの解釈も素晴らしかった。胸踊るような魅惑的音楽の中で、男は男らしく、女はどこまでも女で、互いに一歩も引かない死のみがその答であるような情熱。その陳腐すぎる物語を私は心の底から愛している。 Vyatcheslav Kagan-paley
スラヴァの声を聞いた。六本木ヒルズアリーナでの野外コンサートという決して良い環境ではなかったが、それでもその透き通ったカウンター・テナーの歌声は、聞く人すべての心に優しく染み入ったに違いない。スラヴァの名を一躍世界に知らしめたデビューアルバム『アヴェマリア』(1994年)。アヴェマリアといえば、まずシューベルトやバッハ・グノーのものが思い浮かぶが、他にもなんとさまざまなアヴェマリアの曲があったことだろう。スラヴァ自身による選曲と編曲の素晴らしさ、そして人の声のもつ可能性に改めて感動を覚えるはずだ。カッチーニはカストラートのために多くの美しい曲を書いたが、スラヴァによって再発見されたそのアヴェマリアは、優美でもの悲しく、まさにカストラートのための旋律だ。サンサーンスの明るく伸びやかな曲は暖かく素朴で、祝祭的な響きを持つ。Tostiの作品も実に美しく優しく、敬虔な祈りの声が聞こえてくるようだ。そして、ストラヴィンスキーのアヴェマリアの、宝石のような輝き。中でもとりわけ気に入っているのがアントン・ブルックナーの一曲。荘厳でありながら、変調を繰り返す不思議な旋律は何度聞いてもうっとりとする。スラヴァの表現も素晴らしい。他にもリストやビゼー、モーツァルトの曲も素敵だ。アヴェマリアは多くの作曲家の創造の泉であるのだろう。それが19世紀という比較的「最近」に作られたことが何とも不思議な気さえする、シューベルトのアヴェマリアの根源的旋律や、深遠な厳かさを持つバッハのそれの素晴らしさは、改めて言うまでもない。 『ベルリン、アレキサンダー広場』
このタイトルを聞いてなつかしく思うのは私だけだろうか。ベルリンは現実の都市でありながら、どこか歴史めいた、過去の匂いのする所だ。モノクロームの映画の中の光景のように。Berlin Alexanderplatz - ドイツの現代作家デブリンによる長編小説。原書が私の本棚のどこかに並んでいるはずだが、そんな大作を読んでいるはずもなく。この作品がファスビンダーによってテレビ映画になっていた。 映画の授業
アテネ・フランセ文化センターにて。
今年の春は、まるで世界中が悲しみに包まれたように、いつまでも冷たい雨が続き、爛漫に咲いた桜の季節も足早に過ぎ去った。赤坂の桜並木を歩いてみたが、宵闇にうかぶ薄い花びらは、なぜか不吉な影のような気さえしたのだった。しかし、その桜も散って木々はもう若葉色をつけ始めている。ぬるい水、暖かい風。時が過ぎて行く。でも私の時間は4月1日で止まったまま・・ 再会の時、恩寵の時
『デスペラード・スクエア』(1999年/92分/イスラエル/監督:ベニー・トラーティ)は悲しみの広場。かつてそこには映画館があったが、25年前に閉ざされたまま朽ち果てている。 未亡人のシニョーラと二人の息子。今日は亡くなった父親の一周忌である。その朝、息子の夢枕で父親が‘映画館を再開してくれ’と告げる。 ジョージとニッスィムの二人の息子は昔の映写技師に相談して映画を再び上映しょうと決心する。当時一番人気のあったのは、歌や踊りの楽しいインド映画で、なかでもラージカプール主演の「サンガム」は一番のロングラン作品だった。二人の親友が同じ女性を愛してしまい、三角関係の悲劇を迎える物語だ。これなら村人も大喜びのはず。だが、他の映画はあるのにこの映画のフィルムだけが見つからない。その時、父親の弟であるアブラムが突然姿を表した。25年前に姿を消したまま、どうやら兄の一周忌に訪れたらしい。そして「サンガム」のフィルムは、当時の共同経営者であった彼が所有していることが判明する。一方、母親のシニョーラはこの映画の上映には大反対だった。どうやらアブラムと母親の間に特別な関係があったらしく、二人で「サンガム」を深夜上映して見ていたという噂も。しかし、息子たちは父親がどうしてもこの映画を望んでいると信じて、ついに上映にこぎつける。会場には村人がつめかけ、上映は大成功に終わった。シニョーラにも拒絶され、一人そっと村を去ろうとするアブラムは映画の上映の終わった人気のない映画館に立ち寄る。25年前、親友の為に愛する人をゆずった「サンガム」そのままに、アブラムはシニョーラと相思相愛だったのに、婚姻が決まり喜ぶ兄の姿に真実を告げることができず、自ら姿をくらましたのだった。心引き裂かれる思いでシニョーラと見た映画。その時、カーテンのかげから人影が現われた。シニョーラだった。長い回り道のすえ、二人はまた巡り合った、思い出の映画に導かれるかのように。 イスラエル−海の見える風景
ヘブライ語の古風なくぐもった響きは、どこかもどかしく、手を伸ばしてもなかなか届かない思いようだ。 母と子供たちとの壊れそうで壊れない絆を切なく描いた『ブロークン・ウィングス』(2002年/87分/イスラエル/監督:ニル・ベルグマン)は、子供たちの息苦しい生の苦しみに圧倒される。誰の記憶にもあったはずだ、互いに傷つけるつもりはないのに、憎しみの言葉で心がすれ違ってゆく親子、兄弟。愛し合っているばすなのに。誰よりも大切なはずなのに。舞台はイスラエル北部の街ハイファ。夫を事故で失い、助産婦をしながら4人の子供を育てるダフナ。その顔には夜勤続きの疲労で微笑みさえ浮かばない。高校生のマヤはロックにのめりこみ、双子の弟ヤイルは父親の死以来登校拒否を続けている。小学生のイドーは水のない空っぽのプールに飛び込む危険な遊びを続け、幼稚園のバールは送り迎えしてくれない母親に泣きべそをかいている。家族は崩壊寸前であり、それぞれ思い通りにならない人生に絶望的になりそうになる。そんな時、イドーが水のないプールに飛び込み頭をぶつけて瀕死の重傷を負う。彼と一緒にいた幼い妹が、泣きながら雨の中を走り回る。病院に運ばれたイドーはしかし目覚めない。余裕をなくした家族たちは互いに心無い言葉で傷つけあい、マヤは母親に「お父さんじゃなくて、お母さんが死ねばよかったのに!」と叫んで家出する。ひとりテルアビブに向かってロック歌手になろうとするが、父親に捧げた詩を歌っているうちに、涙が止まらなくなった。お母さん、ヤイル、可哀相なイドー! 一方母親はマヤを一晩中探し続け、テルアビブからの電話でマヤの居所を知るや車を飛ばした。道端に疲れ果てて倒れた娘を抱き上げる母親。その胸に安堵の表情で抱かれる娘。 その時病室で、ヤイルの弟への必死の呼びかけに奇蹟がおころうとしていた…。 人生はうまくいかない。ただ生きるだけがどうしてこれ程辛いのか。マヤやヤイルの痛みは彼ら個人のものではなく、誰しもが青春の時期に体験することと本質的には同じである。暗い表情でプールに飛び込むイドーや、ひとり夕闇の迫る路地で母親の迎えを待つバールの姿は、家族の崩壊が幼い子らにどれほど無残なものかを暗示している。それでもイドーは意識を取り戻した。ダフナの家族の幸せを祈らずにはいられない。
March 29 2003 |