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Happiness

『The Hours』(めぐりあう時間たち)
メリル・ストリープの素敵なセリフがあった。自分のこれからの人生は何でも可能で、今は幸せのスタートだわ、これから本当の幸せが始まる!と感じた青春の日。「でも実際はそれから幸せなんて始まらなかった。本当に幸せだったのは、そう感じた青春の日だったんだ」。幸せが来ると予感したその時が真に幸せの時であるということ。私達はいつまでも際限なく渇いていて、完全な幸福なんて永遠にやって来ないもの。だとしたら、それを予感できた時こそが、本当に幸せの一瞬なのに違いない。残念なことに、人がそれに気づくのは十分に人生の時の重ねた後のことなのだが。
この映画ではHappinessという言葉がたくさん出てくる。女達は日々を生きながら、本当は何一つ幸せを実感できない生活に怯えている。ジュリアン・ムーアは、まやかしの幸せと生活の空虚さに消え入らんばかりだ。メリル・ストリープも、マンハッタンで編集者としてバリバリ働いているように見えて、「日々のスケジュールやパーティのことばかり考えている」自分を知っている。幸せって何?
最後にクラリッサ=メリル・ストリープはつぶやく「この人生を受け入れること。そしてそれを愛すること。」 ヴァージニア・ウルフは6月の明るい小川の中に身を沈めたが、ローラ(ジュリアン・ムーア)はなんとか生き延び、そして2001年のクラリッサは諦念をもって、人生を愛することを決意したように見える。時を超えても、私たちはいつも同じ悩みを悩み、また一から始めるのだ。

Oct 13,2003




ネヴァ河のほとりで


『Russian Ark』(エルミタージュ幻想)
心地良いものを人は忘れない。それは、老いた女帝エカテリーナが雪の積もった中庭を駆けて行くシーン。その一瞬が、なにか麻薬のような甘美さをもって私の記憶に刻み込まれた。歴史の迷宮の中を、時間と共に旅する快楽。絵画たちが言葉も無く人々を見下ろしている回廊を、ソクーロフと共に軽やかに駆け抜ける。至福の時間。ああ、この旅がいつまでもいつまでも続くのならば。この優雅な旅に我々を導くのは、「ヤギ男」のフランス人外交官、そしてぶつぶつとつぶやく監督自身の陰気な声である。何と素敵な同伴者だこと。まやかしの回廊の、なにか温度の失われた豪奢さ、これが何を連想させるかと言うとキューブリックだ。唐突だろうか。「2001年」でボーマンが辿り着いた超未来、あの不気味なフェイクの世界になぜかとても似通っている。青ざめた未来。青ざめた歴史。そこで最後に開催される大舞踏会のざわめきは、時間を超えてこの21世紀にまで響いてくるかのよう。しかし最後にキャメラは、ふと視線の方向を変える。そこは凍てつくネヴァ河の流れ。川面から立ち上る霧のぞっとするような冷たさを、頬に感じはしなかっただろうか・・

Oct 13,2003


永遠のカルメン


フランコ・ゼフィレッリの『Callas Forever』(2002年)は素晴らしかった。カラスを演じたファニー・アルダンは実に魅力的で、シャネルの衣装に身を包んだカラス=アルダンの美しさは圧倒的だった。 しかしそれにも増して、私を本当に打ちのめしたのは、カラスの声とともに甦った幻の「カルメン」だった。この底知れぬ歓喜と悲哀に満ちた、どこまでも通俗的でわかりやすい楽曲に、私はどれほど胸を熱くしたことだろう。もう20年近く前にローマの古代野外劇場で初めて見たこのビゼーのオペラは、瞬時にして私を虜にした。あの時から何度繰り返し聞きつづけても、その魅力はいや増すばかりだ。どんな人に歌われようと、どんな演出であろうと、それなりに魅力的で新しい発見がある。そして、ゼフィレッリの解釈も素晴らしかった。胸踊るような魅惑的音楽の中で、男は男らしく、女はどこまでも女で、互いに一歩も引かない死のみがその答であるような情熱。その陳腐すぎる物語を私は心の底から愛している。

Sep 27 2003



Vyatcheslav Kagan-paley


スラヴァの声を聞いた。六本木ヒルズアリーナでの野外コンサートという決して良い環境ではなかったが、それでもその透き通ったカウンター・テナーの歌声は、聞く人すべての心に優しく染み入ったに違いない。スラヴァの名を一躍世界に知らしめたデビューアルバム『アヴェマリア』(1994年)。アヴェマリアといえば、まずシューベルトやバッハ・グノーのものが思い浮かぶが、他にもなんとさまざまなアヴェマリアの曲があったことだろう。スラヴァ自身による選曲と編曲の素晴らしさ、そして人の声のもつ可能性に改めて感動を覚えるはずだ。カッチーニはカストラートのために多くの美しい曲を書いたが、スラヴァによって再発見されたそのアヴェマリアは、優美でもの悲しく、まさにカストラートのための旋律だ。サンサーンスの明るく伸びやかな曲は暖かく素朴で、祝祭的な響きを持つ。Tostiの作品も実に美しく優しく、敬虔な祈りの声が聞こえてくるようだ。そして、ストラヴィンスキーのアヴェマリアの、宝石のような輝き。中でもとりわけ気に入っているのがアントン・ブルックナーの一曲。荘厳でありながら、変調を繰り返す不思議な旋律は何度聞いてもうっとりとする。スラヴァの表現も素晴らしい。他にもリストやビゼー、モーツァルトの曲も素敵だ。アヴェマリアは多くの作曲家の創造の泉であるのだろう。それが19世紀という比較的「最近」に作られたことが何とも不思議な気さえする、シューベルトのアヴェマリアの根源的旋律や、深遠な厳かさを持つバッハのそれの素晴らしさは、改めて言うまでもない。

May 11,2003





『ベルリン、アレキサンダー広場』


このタイトルを聞いてなつかしく思うのは私だけだろうか。ベルリンは現実の都市でありながら、どこか歴史めいた、過去の匂いのする所だ。モノクロームの映画の中の光景のように。Berlin Alexanderplatz - ドイツの現代作家デブリンによる長編小説。原書が私の本棚のどこかに並んでいるはずだが、そんな大作を読んでいるはずもなく。この作品がファスビンダーによってテレビ映画になっていた。
以前ドイツにいたころ、たいそうグロテスクな映画をみたおかげで、ファスビンダーと聞くだけで拒絶反応の回路ができあがってしまっていたのだが、これはなかなか興味深いかった。なんと全部で15時間もあるらしい。1980年の製作だが、非常に質の高いテレビドラマで、その前衛性に驚く。第15話−女を誑し込んでは捨てる男と、その捨てられた女をいつも引き受ける男。どのフロイライン(お嬢さん)も、色香のあせた中年女性にしか見えない毒々しさ。セットの中、まるで演劇を見ているかのような緊迫感をもって物語は進む。登場するのは、なにかしら謎めいた不思議な人物ばかりで、しかし見ているとそれぞれが、「典型」と言っていいようなくっきりとした輪郭をもっていることに気づかされる。音楽もずいぶん奇妙だ。どう見ても、一般的には受け入れられそうなドラマじゃない。テレビ映画ゆえに直接的表現は少ないが、でも根底を流れるのは、やはりなにか得体の知れない不気味なグロテスクさなのだ。

Apr 17,2003


映画の授業


アテネ・フランセ文化センターにて。
5月20日「大いなる幻影」ジャン・ルノアール
5月21日「素晴らしき放浪者」ジャン・ルノアール
5月22日「航空都市」アレクサンドル・ドヴェジェンコ
5月23日「ビックーヒート/復讐は俺にまかせろ」フリッツ・ラング
5月24日「快楽」マックス・オフュルス
5月27日「流れる」成瀬巳喜男
5月28日「白夜」ヴィスコンティ
5月29日「渇き」グル・ダット
5月30日「恋人のいる時間」ジャン=リュック・ゴダール
6月03日「道中の点検」アレクセイ・ゲルマン
6月04日「法と秩序」フレデリック・ワイズマン
6月05日「ぼくの小さな恋人たち」ジャン・ユスターシュ
6月06日「O公爵夫人」エリック・ロメール
6月07日「田園詩」オタール・イオセリアーニ

Apr 20,2003



桜の季節も過ぎて


今年の春は、まるで世界中が悲しみに包まれたように、いつまでも冷たい雨が続き、爛漫に咲いた桜の季節も足早に過ぎ去った。赤坂の桜並木を歩いてみたが、宵闇にうかぶ薄い花びらは、なぜか不吉な影のような気さえしたのだった。しかし、その桜も散って木々はもう若葉色をつけ始めている。ぬるい水、暖かい風。時が過ぎて行く。でも私の時間は4月1日で止まったまま・・

Apr 13 2003




再会の時、恩寵の時


『デスペラード・スクエア』(1999年/92分/イスラエル/監督:ベニー・トラーティ)は悲しみの広場。かつてそこには映画館があったが、25年前に閉ざされたまま朽ち果てている。 未亡人のシニョーラと二人の息子。今日は亡くなった父親の一周忌である。その朝、息子の夢枕で父親が‘映画館を再開してくれ’と告げる。 ジョージとニッスィムの二人の息子は昔の映写技師に相談して映画を再び上映しょうと決心する。当時一番人気のあったのは、歌や踊りの楽しいインド映画で、なかでもラージカプール主演の「サンガム」は一番のロングラン作品だった。二人の親友が同じ女性を愛してしまい、三角関係の悲劇を迎える物語だ。これなら村人も大喜びのはず。だが、他の映画はあるのにこの映画のフィルムだけが見つからない。その時、父親の弟であるアブラムが突然姿を表した。25年前に姿を消したまま、どうやら兄の一周忌に訪れたらしい。そして「サンガム」のフィルムは、当時の共同経営者であった彼が所有していることが判明する。一方、母親のシニョーラはこの映画の上映には大反対だった。どうやらアブラムと母親の間に特別な関係があったらしく、二人で「サンガム」を深夜上映して見ていたという噂も。しかし、息子たちは父親がどうしてもこの映画を望んでいると信じて、ついに上映にこぎつける。会場には村人がつめかけ、上映は大成功に終わった。シニョーラにも拒絶され、一人そっと村を去ろうとするアブラムは映画の上映の終わった人気のない映画館に立ち寄る。25年前、親友の為に愛する人をゆずった「サンガム」そのままに、アブラムはシニョーラと相思相愛だったのに、婚姻が決まり喜ぶ兄の姿に真実を告げることができず、自ら姿をくらましたのだった。心引き裂かれる思いでシニョーラと見た映画。その時、カーテンのかげから人影が現われた。シニョーラだった。長い回り道のすえ、二人はまた巡り合った、思い出の映画に導かれるかのように。
父親の一周忌、映画館の再開、かつて人気のあったインド映画の上映、母親と叔父の秘められた恋。イスラエルの牧歌的な田舎町を舞台に、甘くノスタルジックで、人生のほろ苦さもにじませ、なんとも味わい深い作品だ。かつてこの地で、歌や踊りがたっぷりはいった3時間のインド映画が大人気だったこと、ラージカプールがみんなのアイドルであったこと、今でもその歌をみんな覚えていること、そして25年ぶりの上映に人々の嬉しそうな顔々。インド映画好きにはたまらない設定だ。中近東におけるインド映画受容を知る上でもきわめて興味深い。そしてその「サンガム」という映画のストーリーがそのまま母親の秘められた恋になっているという妙味。こういう映画に出会えることこそ、幸福に違いない。

March 30 2003


イスラエル−海の見える風景


ヘブライ語の古風なくぐもった響きは、どこかもどかしく、手を伸ばしてもなかなか届かない思いようだ。 母と子供たちとの壊れそうで壊れない絆を切なく描いた『ブロークン・ウィングス』(2002年/87分/イスラエル/監督:ニル・ベルグマン)は、子供たちの息苦しい生の苦しみに圧倒される。誰の記憶にもあったはずだ、互いに傷つけるつもりはないのに、憎しみの言葉で心がすれ違ってゆく親子、兄弟。愛し合っているばすなのに。誰よりも大切なはずなのに。舞台はイスラエル北部の街ハイファ。夫を事故で失い、助産婦をしながら4人の子供を育てるダフナ。その顔には夜勤続きの疲労で微笑みさえ浮かばない。高校生のマヤはロックにのめりこみ、双子の弟ヤイルは父親の死以来登校拒否を続けている。小学生のイドーは水のない空っぽのプールに飛び込む危険な遊びを続け、幼稚園のバールは送り迎えしてくれない母親に泣きべそをかいている。家族は崩壊寸前であり、それぞれ思い通りにならない人生に絶望的になりそうになる。そんな時、イドーが水のないプールに飛び込み頭をぶつけて瀕死の重傷を負う。彼と一緒にいた幼い妹が、泣きながら雨の中を走り回る。病院に運ばれたイドーはしかし目覚めない。余裕をなくした家族たちは互いに心無い言葉で傷つけあい、マヤは母親に「お父さんじゃなくて、お母さんが死ねばよかったのに!」と叫んで家出する。ひとりテルアビブに向かってロック歌手になろうとするが、父親に捧げた詩を歌っているうちに、涙が止まらなくなった。お母さん、ヤイル、可哀相なイドー! 一方母親はマヤを一晩中探し続け、テルアビブからの電話でマヤの居所を知るや車を飛ばした。道端に疲れ果てて倒れた娘を抱き上げる母親。その胸に安堵の表情で抱かれる娘。 その時病室で、ヤイルの弟への必死の呼びかけに奇蹟がおころうとしていた…。 人生はうまくいかない。ただ生きるだけがどうしてこれ程辛いのか。マヤやヤイルの痛みは彼ら個人のものではなく、誰しもが青春の時期に体験することと本質的には同じである。暗い表情でプールに飛び込むイドーや、ひとり夕闇の迫る路地で母親の迎えを待つバールの姿は、家族の崩壊が幼い子らにどれほど無残なものかを暗示している。それでもイドーは意識を取り戻した。ダフナの家族の幸せを祈らずにはいられない。
長編処女作とは思えない程の秀作である。家族の絆の本質を見据えながら、辛く耐え難い苦しみの後の再生を真摯に描き切っている。イスラエルのハイファという街は港街で、どこからも海が見える。あれは地中海だろうか。そう、遠くに見える海の輝きが、きっと希望をもたらしてくれる。

March 29 2003