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ma tranquillo ed espressivo
「adagio」は街の目抜き通りからは一本横に入ったところにある小さなカフェである。 わずか五席のカウンターと、二人がけのテーブルが四つとコーナーを利用した大テーブルがひとつ。 大繁盛とは言えないが、店主のこだわりへの賛同者が多く、そこそこの常連客を獲得していた。 しかし、現在の客は女性が一人。カウンターに頬杖をついて、ぼんやりとマスターがグラスを洗うのを見ている。 やわらかそうなこげ茶の髪は、アップにして大きなバレッタでとめており、歳の頃は20代半ばから後半といったところか。 となりの席には楽器のケースが置いてある。彼女の持ち物ようだ。 カウンターの上のティーカップは湯気をたてておらず、ケーキが乗っていたとおぼしき皿もすでに空になっているが、彼女に席を立とうする気配はない。 彼女と同じ年頃のマスターは手慣れた様子で洗い上げたグラスを真っ白な布巾で拭きはじめた。 「何か淹れようか?」 「梅昆布茶」 客に対するものとは思えないぞんざいな口調を気にすることもなく、彼女は即答する。 小洒落たカフェにおけるオーダーとは到底思えないが、マスターはいたって当たり前の注文であるかのように、カウンター下の引き出しから朱色の缶を取り出した。 薄い白磁の湯呑みに、朱色の顆粒が目立つ粉末を缶の中の小さじで二杯。保温トレーの上にあるポットからお湯を注ぐ。 「おまちどう」 カウンター越しに置かれた湯呑みがコトリと音を立てる。ありがと、と小さく応えて客は湯呑みに手を添えた。 あつつ、と呟きながらゆっくりと持ち上げる。 「どうした? また偉大なる古の作曲家に逃げられたのか?」 アダージョのマスターである小暮啓司と客の松坂理奈は、幼稚園から中学卒業まで、同じクラスでなかった年数の方が少ない腐れ縁の幼馴染だ。今さら構えることなどひとつもない気安い関係である。 「まぁねぇ。私ごときが捕まえられるはずもないんだけどね」 理奈は湯気を吹き飛ばすように息を吹きかけながら、その吐息にまぎれてため息をつく。 「こんなんじゃ、もう一音だって弾けないわ」 ずずっと一口飲んで、また、あつつ、と呟く。 店内に漂う空気はアダージョの店名が示す通りの緩やかさだったが、二人目の客が鳴らしたドアベルの音とそれさえかき消すような元気な声が掻き乱した。 「さっむーいっっ。ケイ先輩、カフェオレちょーだい」 いらっしゃい、と客を迎える店主の口調は営業用のものよりやわらかい。 「美雪ちゃん、今日は休み?」 「うん、理奈ちゃんも?」 横田美雪は首元に巻きつけていたショールをはずしながら、カウンターに座る先客の隣に腰掛けた。 「私は毎日が休みみたいなもんだけどね」 理奈はふふ、と笑って梅昆布茶をすすった。 「毎日が休みなんてよっく言うよ。プロの演奏者に休みなんてあるわけないじゃない」 楽器は毎日弾いていないと指がなまる。1日練習を休めばそれを取り戻すのに3日はかかるというのが通説だ。 人前で演奏する機会のあるなしにかかわらず、毎日のレッスンは決しておろそかにできない。 「はい、カフェオレ、おまちどう」 「ありがと」 「美雪ちゃんは? 最近は吹いてないの?」 「エリザベスは押入れで爆睡中です」 てへへ、と笑ってカフェオレをこくりと飲み下す。 エリザベスというのは美雪が高校入学祝いに買ってもらったフルートの名前だ。高校三年間は吹奏楽部で活躍したエリザベスも、美雪が美容師を目指して専門学校に入ってから休眠したままである。 「真帆は?」 真帆は理奈と三つ違いの妹で、歳が同じせいもあって美雪と仲がいい。 「ちゃんとやり直したいって、オルタンスをひっぱりだしてたわ」 オルタンスとは、真帆のクラリネットの名だ。 「あ、じゃあやっぱり習うことにしたんだ」 そっかー、こないだ会った時に言ってたもんなー、とヴァイオレットは大活躍中だし、エリザベスってかわいそうだなぁ。 美雪はカフェオレの湯気をふうふうと吹き飛ばしながら、独り言めいて呟いた。 理奈は隣の椅子に置いてあるケースに目をやる。 音大の四年生の時に買いなおしたヴィオラにヴァイオレットと名前をつけたのは美雪だ。 「ヴィオラにヴァイオレットなんて安易すぎー」 との真帆からクレームもついたけれど、理奈は気に入っている。小物を揃えるときに紫色を探して購入してしまう程度には。 「真帆や理奈ちゃんの話し聞いてると、吹きたいなー、とか思うけど、なかなかねぇ」 小学校に上がる前からバイオリンを習っていた理奈にとって、音楽は当たり前に自分の身近にあるものだ。妹の真帆にしても物心つく前から毎日姉が弾くバイオリンを聞いていたわけだし、本人も高三の春に受験を理由にやめるまでずっとピアノを習っていた。 しかし、美雪はそうではない。 理奈と真帆の影響か、中学高校と吹奏楽部だったが、身体に音楽が染み付いているタイプではない。 もともと美雪の家はどちらかといえばアウトドア派で、五つ上の兄は近所でも有名なスポーツ万能少年だった。 「あ、そういえば、発表会、もうじきだっけ?」 理奈の恩師の門下生による発表会は毎年春に行われていて、家族ぐるみの付き合いの松坂家・横田家・小暮家の面々は都合のつく限り聴きに行くのが恒例だ。 「うん。例年どおり春分の日」 「絶対、行くからね。お兄ちゃんもひっぱってくから」 「うわっ、カズキ先輩が来るなんてすごいプレッシャーだわっ」 言葉と口調ほどプレッシャーを感じてはいない表情で理奈は笑う。 「ケイ先輩はお店?」 グラスを拭き上げた布巾を熱湯消毒しながら、マスターは二人の女性にむかってすまなそうに頷く。 「祝日は掻き入れ時だからね。花は美雪にまかせるよ」 「まっかせて♪」 胸の前で軽くガッツポーズをつくってみせる。 「都合がつけば今年こそ行きたいって、兄貴も言ってたよ」 「えぇぇ、カズキ先輩だけじゃなくてマコト先輩まで来たら、あたし、弾けないよぉ」 理奈は大げさに身を捩ってみせた。 理奈と啓司が中学一年のとき三年生だった美雪の兄の一樹と啓司の兄である誠は、幼馴染の親友で、文武両道・明朗快活の一樹と眉目秀麗・成績優秀な誠のコンビは当時の在校生のみならず、近隣に名の通った存在だった。 「経歴欄に『中学生の時、小暮誠に師事って書いてくれないかなぁ』とかバカなこと言ってるような兄貴だぜ」 プレッシャーになるようなモンじゃないだろ、と啓司は笑う。 理奈の音大卒業時、就職せずに演奏活動をしていくと決めたことを知って、西中吹奏楽部から音楽家が誕生した、と大喜びしていたのは誠だ。 「精神的にはマコト先輩こそがあたしの師匠なんだけどねー」 与えられた譜面通りに弾くだけでなく、音を楽しむのが音楽だと教えてくれたのが中学に入って吹奏楽部でトランペットを始めた誠だったのだから。 吹奏楽にバイオリンの出番はないし、管楽器は触れたこともなかったけれど、誠と一緒にやりたくて、中学入学と同時に吹奏楽部に入った。あの二年半の経験は、音高受験の時も音大の厳しいレッスンも、乗り越える力の源となっていた。 だから、書けるものなら書きたいわ、とため息をついた。 「そんなこと書いたらお兄ちゃんが大騒ぎだよ、なんでも張り合うんだから」 空になったカップをカチリとソーサーに戻して、美雪は百円玉をじゃらりと脇に置く。 「あ、待って、私も一緒に行くわ」 財布の中から千円札を一枚だすと、理奈も席を立った。 「ゆっくりしていけばいいのに」 意味深にカウンターの中の啓司と理奈を見比べる美雪に理奈は笑いながらコートの袖に腕を通す。 「もう充分ゆっくりしたわよ。雪が降る前に帰りたいし」 じゃぁね、と手を振って出て行く二人に、啓司も同じように手を振った。 入れ違いのように入ってきた中年男性三人組は、慣れた様子で二人掛けのテーブルふたつを寄せあって、四人掛けの席を作る。 「いらっしゃいませ」 と水を出しながら、常連の二人と初めて見る一人に営業用スマイルを披露すれば、マスターのコーヒーを飲ませたくて連れて来たんだよ、などと耳においしい言葉をかけられる。 「コーヒーを出す店は多いけど、おいしいコーヒーを飲める店ってのは少ないからねぇ」 「職人技ってヤツだよな、ここのコーヒーは」 「それは光栄です」 モカとマンダリンとブルマンの注文を受けて、カウンターの空いたカップを持って流しへと戻る。 サイフォンをセットしながら啓司は『職人』というキーワードで思い出した会話を反芻していた。 |
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あれは去年、木枯らしが吹き始めた時分のことだ。 何があったのか知らないが、理奈はアダージョのカウンターで梅昆布茶の入った湯飲みを両手で抱えてため息をついていた。 「どうした?」 「職人って言われちゃった」 それがどういう意味で使われたのか、正直、啓司にはわからない。わからないが、理奈がその言葉で傷ついたことだけは解る。 「褒め言葉だったんじゃないのか?」 カウンターの中から、慰めに聞こえないように気をつけてフォローしてみたが、返ってきたのはもっと大きなため息だった。 「職人、なんていわれているうちはダメなのよ、音楽家はね」 「カズキ先輩に言われたときは喜んでなかったか?」 ずっと以前だが、理奈の演奏を、まるで職人技だ、と一樹が褒めたことがある。その時は間違いなく理奈は嬉しそうに照れていた。 「先輩は純粋に褒め言葉として言ってくれてるって、わかってるもん」 建築士の卵として一流の職人の技を目の前で見ている一樹にとって『職人技』は最高の褒め言葉だ。 「音楽家の場合、技術だけって言われてるのと同じよ」 「技術があって悪いわけではないだろ?」 そんなことは理奈にとっては当たり前のことで、ことさら誰かに──啓司に言われなければならないことでもないだろうけれど。 「そりゃそうだけどね」 啓司にはどうしてもわかってやれない部分で落ち込みつづける理奈に、かける言葉など持ち合わせがなかった。 「お待せしました」 三つのコーヒーセットをテーブルに置いて、いい香りだ、と嘆息交じりの言葉を背中で嬉しくうけとめる。 「うん、うまい」 「だろ」 まるで自分の手柄のように自慢してくれる常連さんが嬉しい。 「だってよ、マスター」 もう一人も振り向いて啓司に笑顔を見せてくれる。 「ありがとうございます」 営業用スマイルよりも若干深い笑顔をのせたところで別の客がドアを開ける。いつのまにか午後の混む時間帯になっていた。 休日ほどではないものの、客の途切れない時間を切り抜けて、啓司はほっと一息ついた。店内には、常連というほどではないが顔馴染みの初老の男性が一人残っているだけだ。 閉店時間まであと30分。さきほどから降りだした雪も相まって、今日はこれで店じまいだろう。 たまってしまった洗い物を片付けながら、在庫が少なくなっているコーヒー豆や紅茶の葉を頭の中でリストアップする。 最近、在庫の減りが早いのは、それだけ客が増えていることを意味する。 採算よりもこだわりを重要視している店だから、客が多少増えたくらいでは増収にはつながらない。雀の涙の売り上げは地道に貯蓄して設備投資に廻している。実家暮らしでなければ成り立たないのが実状だ。店の売り上げだけで生活しろ、と言われたら啓司は店をたたむしかない。 それでも、それが自分のやりたいことだった。 やりたいことをやる道を進むと決めた。 理奈がそうしているように。 大学四年の夏、卒業後の進路を決めたとき、『ギャラで自分の食い扶持を稼げるわけじゃないけど、私はヴィオラを弾くことしかできないから』と、そう言いきったときの理奈の目を啓司は覚えている。 |
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冬晴れの薄い青空の下、理奈はヴィオラケースを片手に電車を降りた。 JRと私鉄と地下鉄が乗り入れている駅は大きく、曜日に関わらず乗降者数が多い。かさばる楽器ケースが他人の邪魔にならならいように気をつけて通路を歩き改札を抜けた。 室内楽コンサートの助っ人を頼まれて、そのリハーサルからの帰り道。同じように所用で出てきているはずの啓司と駅前で待ち合わせをしている。 改札まわりを見回し、携帯に着信もメールも来ていないことを確認する。 思ったよりもリハーサルは早く終わったから、待ち時間は結構長くなりそうだ。雑誌でも買った方がいいかもしれない。理奈は目に付いたコンビニのドアを開けた。 改札が見渡せる駅前のドーナツ屋で、買ったばかりの雑誌をめくっていた理奈の横に誰かが立った気配がする。 「あのっ!」 緊張しきった、けれど確固たる意思のこもった呼びかけに理奈は顔を上げた。 「突然すみませんっ。それ、楽器のケースですよね。ヴィオラですか?」 ケースの大きさから即座にヴィオラだと判断できるのだから、彼も音楽に…弦楽器に携わって生きているのだろう。 待ち合わせの相手がくるまでの暇つぶしに買った雑誌より、目の前の少年の方が断然おもしろそうだった。 ヴィオラはバイオリンより大きい。 高校時代、器楽部のバイオリンパートの中で手の大きさくらべ、一番大きかった彼女はヴィオラに移った。 当時は、なんで私が、と不満に思ったものだが、今ではあの時ヴィオラに転向しておいて良かったと思っている。 バイオリンとヴィオラで、どちらが奏者の人口が多いかといえば、それは断然バイオリンだ。 ソリストとして脚光を浴びることが多いバイオリンへの認知度はヴィオラの比ではないし、個人で習う楽器として手頃感もあるだろう。 反面、ヴィオラはオーケストラや弦楽四重奏などではなくてはならないパートの割りに奏者は少ない。 そして、その絶対数の少なさゆえに、顔つなぎさえしておけば、けっこう声がかかるのだ。 暗譜や初見演奏を含めた技術的なことは音高・音大時代にクリアしている。クラシックでもポップスでも、もしくは童謡や演歌やアニメソングでも、譜面どおりでいいのなら、例えば当日に譜面を渡されてもミスせずに弾ける自信はある。そういう意味でも、ピンチヒッターとしても重宝されていて、演奏するチャンスがない、ということもあまりない。 だから、助っ人として参加したオーケストラや室内楽団のバックステージや練習場で、理奈がヴィオラを弾いているのを見て、もしくは理奈のケースをヴィオラだと判断して声をかけてくる人は少なくない。 こんな街中のドーナツショップで、というのは初めてだったけれど。 メールで連絡をもらっていたドーナツ屋は改札を出てすぐに見つけた。その大きなガラス越しに見知らぬ男と向かい合って座る理奈の姿も。 店内に入ってコーヒーの一杯でも飲んでから帰るか、と思っていたけれど、啓司は予定を変更することにした。 高校生くらいに見えるその男と話しこんでいるのか、改札が見える位置に座っているのに、近づく啓司に気付く様子もない。 理奈の脇のガラスを外からコンコンと叩き、自分の到着をアピール。 びくりと肩を揺らして反射的に音のした方を見て、ようやく理奈は啓司に気付いた。 軽く手をあげてから、正面に座る男にふたことみこと声をかけて、コートを手に立ち上がった。慌てて一緒に立ち上がった男が丁寧に頭を下げるのに、軽く会釈をして笑顔で手を振る。 その一部始終を観察しながら、啓司はイライラと右手に持っていた荷物を左手に持ち替えた。 二人で並んで座った私鉄の車内。啓司はひざに発泡スチロール製の保冷ボックスを、理奈はヴィオラケースを抱えて電車の振動に揺られている。 「ふーん、市民楽団、ね」 面白くなさそうな声と顔で啓司は手の中のチラシをまじまじと眺めた。 ドーナツ屋で声をかけてきた少年から渡されたというその一枚の紙切れを、啓司はもう一度ひっくり返した。 今年はもう終ったんですけど、と前置きをして理奈に渡されたそれは、アマチュアオーケストラの定期演奏会のチラシ。 「うん、けっこう由緒ある楽団らしいよ。万年弦不足なんだって」 ステージ上のオケの写真にかぶせ、日付や会場、曲目、指揮者などの演奏会に必須の情報が盛り込まれた表と、指揮者や主要な出演者の紹介と、オーケストラの活動報告や連絡先などといった詳細情報が掲載された裏面。 中学や高校の部活レベルでは管楽器のみの吹奏楽部は多いが、弦楽部や弦楽器を保有するオーケストラ部は少ない。 すなわち、それが弦不足の最大の原因だ。プロの楽団ならともかく、趣味のレベルのアマチュアが活動する素人楽団はどこだって、いつだって弦の確保に苦労している。 「素人の集まりにプロを誘うなんざ、大した度胸だな」 「私は顔が売れてるわけじゃないもん」 不機嫌な啓司を理奈はあっさりといなす。 「いくら狭い世界だって、顔だけで○○奏者の△△さん、なんて判ってもらえる人なんて日本中に何人いることやら」 返す言葉がないのか、啓司は何も言わなかった。 今更沈黙が気まずいようなつきあいではないので、理奈もそのまま何も言わず、二人で並んで座ったまま私鉄に揺られていた。 地元駅の改札を抜け、アダージョまでの道程を二人で歩き出しても、啓司はまだ一言もしゃべっていない。 「ねぇ、なんでそんなに不機嫌なの?」 台詞ほど気にしてるわけではない証拠に、理奈の口調はのんびりしている。 「……オレが慌てて駆けつけてきたってのに、その間お前は高校生なんぞにナンパされやがって」 三歩分ほど前を行く啓司の背中を追いながら、理奈は反論する。 「在原くんは高校生じゃないよ。こないだの春に卒業して、いまは音大のチェロ科で──」 「そんなこと言ってんじゃねぇょ」 理奈の反論の内容はあんまりで、だから啓司は言葉の途中で遮った。 「じゃ、啓司は何が言いたいのかな?」 少し足を速めた理奈は啓司の隣に並んで、その不機嫌な顔を見上げる。 「理奈の自覚の無さを嘆いてるの」 「自覚がないのは啓司の方でしょ」 「なんでだよ」 「仮に、彼がナンパ目的だったとしてだよ? 私がほいほいついていくとでも思ってるわけ? ってことは、啓司は私に愛されてる自覚がたりないってことでしょ」 「……」 絶句して啓司は立ち止まる。 歩調を変えずに進んでいく理奈との距離が開き、慌てて小走りに追いかける。 「おまっ、それは卑怯だぞ!」 「何が?」 抗議しても理奈の歩調は緩まない。 「何が、じゃねぇよ」 まるで高校生の頃に戻ったように、啓司はがしがしと頭をかきながら、ようやく追いついた理奈に肩を並べる。 中学を卒業して高校はもちろん、その後の進路も重ならなかった二人だったけれど、付かず離れずで数年が過ぎ、結局のところ互いの側が一番居心地がいいのだと二人とも気付いた。 置いていかれたり追い越したりすることがあっても、こうやって二人肩を並べて歩いている時間が一番多いのだ。 「あぁ、寒いっ。早くお店であったかいお茶を飲ませてよね」 つん、と肩先で啓司の上腕部をつつく理奈に苦笑がこぼれる。 「店は本日定休日ですが」 小さくため息をひとつ吐いて口元を引き締め、わざと営業モードの口調で返す。 「それの試食をさせてくれるんでしょ?」 そういう約束だったでしょ? と睨まれる。 「アダージョの新商品として仕入れる価値があるかどうか、忌憚のないご意見を賜りたく存じます」 さらに営業モードの啓司にくすくすと笑う理奈に、啓司もようやく自然な笑顔を返す。 「真面目な話しさ、カフェのスイーツメニューにしては懲りすぎなんだよ」 「でも、未来のカリスマパティシエの出世作なんでしょ?」 「と、本人は主張してたけどな」 啓司の左手の保冷ボックスの中身は専門学校時代の友人の自信作が入っている。 裏口の鍵をあけ、啓司は先にたって店内にはいる。 カウンターの上に保冷ボックスを置くと、ガスの元栓を開け、電気のスイッチを入れる。その間にコートと手袋をテーブル席の椅子にひょいと置き、理奈はボックスの中を覗いた。 「うわっ、これはホントに凝ってるわぁ」 何種類かのケーキやタルトはシンプルで素朴なものもあるけれど、いくつかは丁寧なデコレーションがほどこされている。 「だろ。フルコースのデザートじゃないんだぜ」 「これなんて、職人の技って感じよねぇ」 飴細工のネットのかかったプティングをそっと取り出して理奈は感嘆のため息を付く。 「ウチの雰囲気に合ったものをいくつか選んでくれよ」 手早くティーセットの準備をする啓司に理奈は頷きつつ、ボックスの中身を出していく。 綺麗なスイーツメニューは見て楽しいし大好きだけれど、豪奢なスイーツなんてアダージョには似合わない。 肩肘はらなくたって美味しいものは美味しいのだから。 |
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シンプルなベイクドチーズケーキをケーキケースから出しながら、ドアベルの音に、いらっしゃいませ、と声をあげる。 「ケイ先輩、カフェオレー」 「あたし、ブレンドね」 春の風とともにやってきた真帆と美雪は、それぞれ注文を口にしながらカウンタースツールに腰掛けた。 「やっぱりレベルが違うよねー」 と興奮冷めやらぬ表情で話すのは、聴いてきたばかりの理奈の発表会の話題だ。 二人の話しを耳に挟む限りでは、今回も理奈の演奏は大成功だったらしい。 曲を詰めている間はぐちぐちと言っていても、ハラをくくってしまえば悩んだことなどないといった風情でステージをこなす。 そんなところも職人だと啓司は思うのだが、言葉にするつもりはない。音楽家に対して『職人』というのは決して褒め言葉ではないと今では判っているから。 「毎年、聞くとやりたくなるんだよね」 カウンター越しに出されたブレンドのカップを受け取りながら真帆が吐息をつく。 「それで習うことにしたの?」 「うん、就職したからお金もある程度は自由になるしさ」 真帆も美雪も耳の中でいま聴いたばかり音がなっている気がする。 「あたしもたまには吹こうかなぁ」 永遠に爆睡じゃエリザベスもかわいそうだよね。 ため息交じりの美雪は押入れを開けるたびに目につく黒いケースを脳裏に浮かべる。 「カズキ先輩はこのまま永眠してもらいたいみたいだったけどな」 「えーっ、ひっどーい」 膨れた美雪と真帆の前に、花束の礼な、とタルトタタンを出してやる。 ありがとう、と揃ったユニゾンが微笑ましい。 「美雪がやるならさ、合奏しようよ。かんたんな曲でいいから」 ポップスならブランクあっても大丈夫だよ、というそそのかしに美雪は、今更できるかなぁ、と不安げに、でも目はやりたいという気持ちできらめいている。 発表会の演目の一つに理奈も参加していた弦楽四重奏とピアノのアンサンブルがあって、そのハーモニーが耳の中から消えないのだ。 「真帆と美雪なら問題なくあわせられるんじゃないかな」 昔から一緒にいることが多いせいか何事においても息はぴったりなのだから。 「そう思う?」 またもやぴったりと揃った二人の台詞に啓司は、ほら息ぴったりだろ、と笑ってやる。 |
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春分の日の翌日。 「花束、ありがとね。美雪ちゃんが元気良く渡しに来てくれたわ」 礼を兼ねて店にやってきた理奈はいつものとおりカウンターに腰を下ろす。 「美雪から元気をとったら何も残らないって、カズキ先輩が良く言ってたよな」 銀色のトレイを持って、啓司はカウンターを回って来る。 確かにね、と笑う理奈には演奏会前の屈託がまるっきり抜け落ちている。 「発表会、大成功だったみたいじゃん」 トレイのティーカップを理奈の前に置きながら話を続けた。 美雪と真帆の会話をかいつまんで教えてやれば目を輝かせる。 「私も混ぜてもらおうかしら」 「だったら店で演るか?」 どうせなら人に聴いてもらう場が欲しいだろ、との提案に、素敵、と手を叩き、何曲かレパートリーが出来たらぜひやらせてね、と笑う。 「クラリネットとフルートとヴィオラかぁ。どうせならあと低音が欲しいわね」 何がいいかしら、木管二本と弦だともうひとつも弦の方がバランスが取れるかな、チェロかバスか、でも弦は人口が少ないからなぁ。 ぶつぶつと呟きながら頭の中では人選をくりひろげているらしい理奈に、啓司は不機嫌そうに声をかける。 「おい、あいつに声かけたりするなよ」 「あいつって?」 ティーカップをもったままきょとんとした顔の理奈は、啓司の言いたいことがまるっきりわかっていない。 「こないだの、ドーナツ屋のボウズだよ」 理奈は視線を斜め上に放り上げてしばらく考え、あぁ、と頷いた。 「そういえばそんなこともあったわね」 相手の腕前も知らないのにいきなり誘ったりできるもんですか、と睨む理奈は、やっぱり啓司の意図がわかっていない。 「ま、いいか」 テーブルを寄せれば演奏スペースは出来るわよね、でも、そうしたらほとんどお客さんが入れないかしら。バスやチェロだと余計場所取るからトロンボーンくらいの方がいいかな。あぁ、バスクラリネットって手もあるわね。誰か付き合ってくれそうな人いるかなぁ。 すでに啓司よりも真帆と美雪とのアンサンブルに、気持ちの90%を占められた理奈は楽しそうに自分の思考に埋没していっている。 難解なクラシック曲もなんなく弾きこなすプロの演奏家が、高校吹奏楽部レベルの遊びに本気で付き合うつもりらしい。 実現するのはどれくらい先になるかわからないけれど、きっと居心地のいいプチ演奏会になるだろう。 肩肘はらずに楽しむ音楽こそアダージョにはふさわしいだろうから。 完 |