暗い海に射す陽光
- 前編 -
小さな山と小さな山の隙間のわずかな平地を町が埋め尽くし、町の中を川と線路と道路とが絡み合う三匹の蛇のように伸びている。
点在する小さな山々は、あるものは開発されその斜面にびっしりと家をはりつかせ、あるものは中途半端に切り崩され、またあるものは昔ながらのたたずまいを残して緑を茂らせている。
その内のひとつ、駅のホームから見る限りこんもりとした小山にしかみえないその緑は、小山ひとつまるごとが私立校の敷地だ。
聖杖学園という中高一貫教育の学園は、旧制中学と旧制女学校が合併したこの地方では由緒正しい名門校である。
学園前駅という駅名があらわすとおり、この駅の乗降客の大半は学園の生徒で占められる。
改札から吐き出されてくる12歳から18歳の生徒たちは、駅前のバスターミナルを横目にまだ開いていないショッピングモールを抜けて、小山のふもとまでのわずかな平地を共有する住宅街を通り、住宅街から小山へと続く階段へと吸い込まれる。
安原厚志は手に提げていた学校指定の3WAYバッグを肩にかけて階段に足をかけた。
いつ誰が名づけたのか『企みの小道』と呼ばれている急な階段と坂道を登っていくと、学園の南門にでる。
学園内でおきる良いことも悪いことも、この小道を歩きながら生徒達が企んできたことからつけられた名前であろうことは想像できるが、今日のところは大した企みがなされているとは思えないのんびりした朝だ。
中等部に入学したばかりのオコチャマたちは昇っていくのに必死で会話が少ないが、高等部にあがる頃には体力もついてきて、じゃれあいながら上がっていく男子やさえずるようにおしゃべりしながら上っていく女生徒も少なくない。
小道の入り口から南門までのタイムトライアルは誰もが在学中に何度も挑戦するイベントである。
厚志は高一の秋に出した自己ベストをどうやっても縮められないと悟った時に早足で登ることをやめた。
この小道を上がる以外のルートは山の反対側から伸びている。こちらの道はバスも通っているが、循環系のため遠回りするうえ、バス停は校舎からは遠い東の正門前となるから利用する生徒はあまりいない。
もっぱら、教職員と学校に訪れる客人──生徒の保護者を含む──が利用するのみだ。
梅雨の晴れ間は陽射しも強く湿度も高い。
あっというまに額に汗が浮かぶが、それも小道に入るまでだ。
あまり人の手の入っていない木々の中を通る道は真夏の盛り以外はひんやりと涼しい。
しかし、階段と坂道を上がっていくうちに今度は背中にじっとりと汗をかく。
小山を三分の二ほど上ると、目の前がぽっかりとひらけ、そこに学び舎が広がっている。
数年前に建替えられた近代的な校舎と校長室や事務室を始めとする職員用の本館、体育館。それから少し老朽化しつつある、講堂、プール、部室棟はそのうち建替えを余儀なくされるのだろう。
特筆すべきは昨年新築されたばかりの図書館だ。
校舎内にスペースを割り当てられている図書室ではなく、地上二階地下一階の完全に独立した図書館の蔵書量は半端でない。
前身の旧制中学や女学校が保存していた資料などは市や県の公共図書館にもない貴重な文献が多く、郷土研究家が調べに来ることも多々ある。
その図書館と、化学室や音楽室といった専門教室ばかりの二号館の間を抜けると一号館の入り口がある。
生徒たちは続々とそこへ吸い込まれていく。
昇降口で上履きを床の上に放り出したとき「おはよう」と声をかけてきたのは同じクラスの川島暢彦だった。
厚志と同じように上履きを出し、今まで履いていた靴を下駄箱に放り込む。
おざなりに「よぉ」と返事をして厚志は背中にはりつく開襟シャツをつまんで風を通しながら歩き出す。
「汗かいたままだと風邪ひくぜ」
追いかけるように後をついてきた言葉に眉間にしわがよりそうになる。嫌いな友人ではないが、正直に言うと最近はすこし鬱陶しい。
ついで「医者の不養生って言葉知ってるか」とにやりと笑ってくるのには肩をすくめてやりすごす。
並んで歩くのも正直なところカンベンして欲しいが、行き先が同じ教室ではそれも我慢せざるを得ない。
「物理の予習、した?」
「一応」
進学校としても有名な聖杖学園の授業はレベルが高い。ましてや高等部三年の授業ともなれば気が抜けない。
特に物理の担当教諭は厳しいから予習はかかせない。そんなことは理系に進んだときからわかりきっていることだ。
「そうだよなー、物理は安原の得意科目だもんなー」
探るように聞いてくる暢彦だってやってないはずがない。2人とも成績はどっこいどっこいの中の上か上の下くらいなのだ。
教室に入ったところで、別の友人が暢彦に声をかける。そのすきに厚志は自分の席につく。
あとは授業が始まるまで暢彦が自分のことを忘れてくれるといい。
いささか後ろ向きな希望的観測に厚志は小さくため息をついた。
化学も科学も生物もキライじゃない。数学だって好きな方だ。
だから一年の冬に進路希望調査では迷わず理系コースを選択した。それを悔やんでいるわけではないけれど。
ただ、流されているだけなんじゃないか、との不安はつきまとう。
自分の将来という漠然としたものに対して向き合わなければならないこの時期だからこそなのだろうけれど。
午前の授業を受けながら、厚志は何度となくため息をついた。
今日は教室移動の多い日で、おのずと近くの席の友人と一緒に動くことになるから暢彦との接触はそれ以上なかった。
となれば、逆に昼休みを狙われるのは間違いないから早々に逃げ出す。
向かう先は図書館だ。
一号館とは渡り廊下で繋がれているが、立地の都合で校舎の二階から伸びた渡り廊下は図書館の中二階につながっている。
小さなホール状のそこは静寂を課せられる図書館で唯一の談話スペースだが、昼休みになってすぐの今はまだ人がいない。久々の晴天だから生徒の大部分はグラウンドに繰り出しているのかもしれない。
螺旋階段を降り、貸し出し手続きをとらずに本が持ち出されることを防ぐためのゲートをくぐって閲覧室に入る。
図書館は設備が充実している。専任の司書もいて学校図書館としてのスペックは呆れるほどに高い。
入ってすぐの新刊本や季節物のコーナーを横目に部屋の中央に配置されているカウンターに近づく。カウンター当番の後輩が挨拶してくるのに手を上げて応え、その先にある視聴覚コーナーへと進む。その一画にはインターネット用にコンピューターもあり、そこに腰を落ち着けようかとしたその時。
何気なく窓の外に投げた視線の先に、渡り廊下を歩いてくる暢彦が入り小さく舌打ちをした。
別に自分を探してに来たわけじゃないだろうが、つかまってしまえば当分解放されないのはわかっている。話したいと思わないどころか、今は積極的に避けたい。
同じ目標を持つもの同士、などと思い込んでいて、悩みや疑問を共有しようとする暢彦が正直に言って疎ましい。二言目には「安原はいいよな」と言われても、環境に恵まれているのは自分のせいではない。
まして、進路指導の個人面談のすぐ後ではなおさらそういう話題は避けたかった。
L字型のカウンターを回りこむように奥へと進む。書架と自習用の机が並ぶスペースに視線を巡らせ、カウンターの脇にある司書室のドアをノックする。
「どうぞ」
専任司書・片桐汀子の落ち着いた声が返る。
「失礼しまーす」
軽い調子で声をかけながらドアをあけたが、パソコンの前に座る汀子は厚志を見ようともしない。
「せんせー、ちょっとかくまってよ」
図書委員も中等部2年の頃から5年目ともなれば汀子の愛想のなさにひるんだりしない。
一部の生徒にはウケの悪い汀子だが、図書委員を始めとする図書館の常連たちにとってはクラス担任や教科担任よりよっぽど話しやすい相手だ。
専任の学校司書はその職務に似合った知識を有しており、この本が面白かったといえば同じ系統の、けれどさらにレベルの高い本を紹介してくれる。
雑談の中で愚痴や悩みをこぼせば、さりげなくその解答が得られるような本を紹介してくれたりする。
何より、生徒たちの話をバカにしたり上から見た意見を押し付けたりしない。
観察するような視線が居心地悪いときもあるけれど、したり顔であれこれと説教する大人たちの方がよっぽど性質が悪いと思っている厚志のような生徒は、いきおい図書館と司書室に溜まる傾向にある。
「何か悪さでもしたの?」
低めの声には感情が含まれてないのじゃないかと思う。
視線は相変わらずパソコンに向いたままで、どうやら新着本をデータベースに登録しているらしい。
「何にもしてませーん」
答えながらもドアの方にちらちらと視線を走らせる。さっきの位置から考えると暢彦はまもなく閲覧室に現れるだろう。すぐに閲覧室のどこかのコーナーに落ち着いてくれればいいが、司書室との間のドアは上部がガラスになっているからドア越しにでも覗き込まれればおしまいだ。
小さく立てた舌打ちが聞こえたのだろう。
「隠れるなら書架の間がいいわよ」
汀子の提案にさんきゅー、と小さく答えて厚志は奥にある可動式の書架へと近づいた。
司書室は通常の教室と同じほどの広さがあるが、そのうちの三分の一を可動式の書架に占領されている。
データベースへの登録待ちのもの、出版社が見本で持ってきたもの、修理が必要なもの。禁貸出のもの、取り扱いに注意が必要な古いもの。
そういった本の詰まった可動書架のハンドルを回す。
ドアに近いほうからひとつずつ全てを右にずらして、一番左の壁際に身を潜めればドアから覗いただけではもちろん、司書室に入ってきたとしても即座には見つからないはずだ。
図書委員でない暢彦が司書室にまで入ってくるとは思えないが、別に司書室は生徒立ち入り禁止というわけでもない。
ひとつ、またひとつとハンドルを回していくと書架はなめらかな動きで右隣の書架に寄り添って止まる。
一番左の書架は他のものの半分しか幅がない。両面に棚のあるタイプではなく片面だけで、ハンドルもついていない。
壁に固定されているその書架と、動かしたばかりの書架の間に厚志は滑り込む。
もし暢彦が司書室に来たとして、汀子は厚志がここに隠れていることを教えるだろうか。
それはたぶんないと思う。
汀子はそういうタイプではないと厚志は思っているが、そのかわり匿うようなことも言わないだろうと思う。
暢彦が探させてくれといえば、勝手にどうぞ、と答えるのだろう。
そして暢彦が書架の間を覗き込んだら?
その時はその時だ。
ここで資料を探しているのだと言い張ってしまえばいい。
万一見付かった時の言い訳ように、何の本が置いてあるのかを確認しようと背表紙を眺める。
可動書架には大きくて分厚い『源氏物語大系』がずらりと並んでいて、これは厚志が探していたといっても信用されそうにない。
狭いスペースで身体をひねって反対側の書架を見る。
ほとんど空の書架の下のほうに、不揃いな本が並んでいる。
なんとなく図書館や本屋といった本が大量に並んでいるところは同じ大きさや種類の本が並べられているイメージが強くて、不思議に思った。
それほど厚さも高さも背表紙の質感もバラバラな本ばかりだったのだ。
しゃがみこんでそのタイトルを読む。
出版社の名前やロゴマークもなく、タイトルも聞いたことのないようなものばかりだ。興味をなくし、立ち上がろうと棚に手をかけた。
壁に固定されているはずの書架ががくんと揺れる。
やべっ、倒れるっ!
とっさに頭を抱えた腕の間から白い光が漏れて厚志の目を射る。
書架と壁の隙間から溢れる光に引かれるように書架と書架の間から出た。
ハンドルのついていない書架に手をかける。
厚志の手の力に逆らうことなく書架は手前にゆっくりと動いた。
「隠れるならそこほど最適な場所はないわよ」
汀子の声が遠いところから聞こえてくる。
白い光に誘われるように、包み込まれるように厚志は足を運ぶ。
「いってらっしゃい」
最後に汀子の声が聞こえたような気がした。