シェルディア・テ・フィン号は相も変わらず宇宙を飛んでいた。
艦橋外に広がる星の海は肉眼で見てわかるほどの違いはどこにもない。航法シート前に表示されている数字や座標から、その目的地がケマラSTに変更されたことが伺えるだけだ。
超光速航行と超光速航行の間の短い通常空間の間にやることはたっぷりとある。
通信シートに収まったまま、救助本部が設置されたケマラSTの広報と事故現場付近の正確な航宙図をチェックするコウの後頭部をシレーネは見ていた。
一応、現時刻のブリッジ当番は自分のはずだが、今はやることがない。
忙しそうにしているコウを手伝いたい気持ちはあるが、何をどうしてよいかわからない。
何か指示をもらえたらすぐできるよう、気分だけは臨戦態勢で待っているのだが。
それがわかっているのかいないのか、コウは指の動きとは逆にのんびりとした口調でシレーネに声をかけた。
「シレーネは気に入らないみたいだね」
「気に入らないわけじゃないわよ。ただ、せっかく中央まで行ったのにもったいないな、と思ってるだけよ」
辺境で産まれ育った自分にとって、中央星系は憧れなのだと。前回の寄港地は中央と辺境のちょうど境目あたりで微妙だったけれど、次に予定していたフレンスバークは確実に中央と言っていい位置にあって、新発売のお菓子だとか辺境に伝わってくるころにはすでに廃れているゲームだとか流行のファッションだとか、そういうものを目の当たりできると期待していただけだと、主張する。
たたみかけるようにまくしたてるのは、それが自分を納得させるための理由だとわかっているからだ。
針路変更が気に入らないとか、リョウの行動が気にいらないとか、そんな風に思っているわけではない。
ただ──
コウとリョウは幼馴染で共同経営者で、自分は雇われスタッフで。それだけでしかないと知ってはいるけれど、そろそろ事情を教えて欲しいと思うのは間違ってないと思う。
「説明しただろ。リョウにとって恩人とも言うべき大切な人が事故で行方不明になっているから探しに行くって」
それは聞いた。けれど、リョウが行ってどうなるというのだ?
シレーネは辺境区産まれの辺境育ちだ。宇宙船事故の厳しさは身を持って知っている。
どんなニュースでも報道された時点でそれはすでに過去のものだ。
ニュースを聞いて駆けつけたところで広大な宇宙では大いなるタイムラグが生じる。
中継点や軌道ステーションが整備され、すでに開発も終わった有人惑星も多い中央星系ならタイムラグも減少されるが、中継点も人の住む開発惑星もまばらな辺境ではそうはいかない。だからこそ、シレーネの両親は助からなかったのだ。
「それでもリョウは行くんだよ。それがリョウだから」
シレーネの疑問を沈黙から読み取ったコウの返答はシレーネにとって答えにはならなかった。
不満気な気配を纏うシレーネを背中に感じながらコウは苦笑するしかない。
なぜならばシレーネの言うことこそが正しいからだ。
緊急事態とはその事態にまきこまれている人たちにとっては急を有するということだ。
だから、何十光年も離れたところから駆けつけたところで、現地に着いたときには既に全ての事は終わってしまっていることが多い。
その場ですぐに対応できなければ意味がないのだ。
そのために、正規軍は各恒星系ごとに常駐し、辺境区では自治が認められその領域内の安全と平和を維持するために自治軍が存在する。
SK−サン・ミシェル−IV号が消息を絶ったというニュースが中央に届いた時点で事故がおきたと思われる時間から18時間が経過していた。
もちろん、そのときには近隣星域から捜索隊と救助隊が出動されている。
辺境区の入り口として正規軍が常駐しているケマラSTに、事故現場に近いということで救助基地が設けられた。
超光速航行の合間に情報を収集し、シェルディア号は目的地をそこに向ける。
あと一度の超光速航行でケマラSTに近づくというところまでたどりついた時は、すでに事故から100時間が過ぎようとしていた。
指定されて入港した補給用のドックですら、なんとなく気忙しく騒がしい雰囲気がただよっていた。
ケマラは自治区の軌道ステーションではないので、税関がない。船から入港手続きをすませてしまえば、このままどこに行こうが自由なのだが、コウは港湾事務局へと向かう。
普段なら寄港地で船に残って補給を担当するのはコウだが、軍との折衝が必要になるだろうから、と、今回はリョウが残っている。船にいてもすることがないのでコウについてきたシレーネは、何がどうなっていて、これからどうするのかわからないからただ黙ってついていくほかはない。
事務局の入り口をくぐると数名の軍人がぎろりと振り向いた。
その視線の厳しさに思わず身をすくめてしまうシレーネだが、コウは気後れした風もない。
「あ、フェリックス少佐だ、らっき」
それどころか小さく呟くと濃い緑の軍服に身を包んだ一団に向かって軽い足取りで近づいていく。
自分たちに向かって近づいてくる一般人に軍人たちが腰のホルスターに手をかけるのと、その後ろにいた長身の軍人が声を上げるのは同時だった。
「わ、美形」
思わず声に出してしまったシレーネの独白には誰も反応しなかった。
「久しぶりですね。ケストレル少尉」
上官の言葉に軍人たちの間にあった緊張感は消え、ホルスターにかかっていた手もはずされた。
「ご無沙汰しております、シュリンガム少尉」
退官時の階級で呼ばれたことにはあえて言及しない。
間近まで歩み寄って差し出された手を握る。
「フェリックス少佐も。ご健勝そうでなによりです」
人垣の後ろから現れた小柄な人影にシレーネは目を見開く。
「わ、これまた………」
黒い髪で長身のシュリンガム少尉とはまったく違うタイプの美形だ。
小柄で細身、本当に軍人かと疑ってしまうのは、しかしその体型のせいではない。ゆるくウェーブのかかった金髪。おおきく丸いブルーの瞳。
軍服をきていてさえ、彼はまるで育ちすぎた天使のように見える。
「コウ!」
その声も期待を裏切ることなく、本当に声変わりしたのか、と聞きたくなるようなもので。少佐、とコウが呼んだのだから、そうなんだろうけれど。
「久しぶりだね。元気だった?」
にこにこと笑うさまはそんなえらい人にはとても見えない。
立ち話もなんだから、と港湾事務所の喫茶スペースでコウとシレーネはフェリックス少佐とコーヒーを挟んで向かい合っている。
少佐ってすごくえらい人なんじゃなかったかしら?
少なくともシレーネの持つ知識では、エライ軍人さんは一般人とプラスチックコップのコーヒーをすすりあうような存在ではないと思う。
「それでわざわざここまで?」
小首をかしげる仕草まで愛らしい少佐殿は空になったプラスチックコップをもてあそびながら面白そうに笑った。
「少しでも現場に近いほうが情報は集まりますから」
確かにそうだけどね、と苦笑しながら頷いて、少佐は青い双眸を後ろに控えて立つ副官になげる。
視線の持つ意味をたがえることなく受け取ったシュリンガム少尉は、小脇に抱えていたファイルを開く。
「銀河標準時で本日10時19分現在の情報ですが」
と前置きをしてよどみのない口調で話し始めた。
「SK−サン・ミシェル−IV号から射出された救命ポッドは、大小あわせて約30。このうちすでに22機が発見され、116名が救出されています。生死に関わらず所在を確認されていない船員は21名です」
「その中にコウの探し人も含まれているというわけだね」
シュリンガム少尉の説明にフェリックス少佐が口を挟む。
「現在、救難信号をキャッチしていて、救出に向かっているのが5機。これに何人乗っているかは見つけてみないとなんともいえませんね。何しろ4人乗りのポッドに8人乗ってたなんて例もありましたので、残りの全員が乗っているという可能性も捨て切れません」
救命ポッドは一週間以上十日程度の生命維持ができることが法で定められている。
大型のポッドに定員の半数程度が乗り込んだのであれば、規程の倍を生き抜くことも可能だが、それはきちんと整備されているという前提が必要だ。
辺境を飛ばす運送屋には本船の整備でさえぎりぎりのところで操業している業者も少なくないし、そんな会社の船であれば救命ポッドの整備などどこまでされていることやら。
幸いSK−サン・ミシェル−IV号の事業主は人道的に悖ることのない会社のようで、今のところ発見された救命ポッドは充分な機能を保持していた。
しかし、事故からすでに五日目。定員オーバーのポッドなら限界に達しているかもしれない。
「どうする? ここで連絡を待つなら部屋を用意しようか?」
考え込むコウの横顔をシレーネは見守っていた。
中央近くまで行っていながらわざわざケマラまで飛んできたのはリョウの恩人が行方不明だからだ。その恩人の行方がまだわからないなら、その残りの21名分の消息がはっきりするまでケマラに滞在することになるのだろう、と覚悟していた。
軍人に囲まれるくらいなら、住み慣れたシェルディア号にいた方が気分的にはラクだけど、情報を得ることが第一なら、フェリックス少佐の提案に乗るんだろうなぁ。
と思っていたシレーネはコウの口から出た次の言葉に目を瞠る。
「SK−サン・ミシェル−IV号のデータをもらうことは可能ですか? 事故のおきた座標と、ポッドの射出場所、どこに設置されていたポッドがどこで見つかったかも」
コウの言葉に驚いたのはシレーネばかりではない。
「探し出せると思っているのか?」
今まで淡々とした口調だったシュリンガム少尉が思わず声に驚愕を表わす。
ケマラに救助基地が設けられてからずっと正規軍があたりを捜索をしている。
データの解析もプロ中のプロが行っているのに、いくら元軍人とは言え一般人にそこまでできるものだろうか。
「残り3機にウィルが乗ってないという保証はどこにもないですからね。『待て』ができないんですよ、僕の相棒は」
にっことり笑うコウの口調は呆れを含んではいたけれど、その瞳には誇らしげな色が浮かべられていた。
15分後。
シェルディア・テ・フィンの全乗員3名は、本来なら関係者以外立ち入り禁止の救助基地本部の会議室に迎え入れられていた。
「この時、SS6あたりで小規模だが磁気嵐がおきている。」
ブリーフィング用の大型ディスプレイに浮かぶ航宙図にはすでにさまざまな情報が表示され、その文字や数値の間を縫うようにして緑色の矢印がぐるぐると一定範囲に円を描く。
「このタイミングで救命ポッドがこの宙域を通過していたなら、影響を避けるために11時の方向に回避行動をとるはずだ」
ほぉ、とシュリンガム少尉が感嘆の声をあげる。黒い瞳が面白そうな光を湛えてカーソルを操つっていたリョウを見る。
「なかなかの解析ですね」
「船乗りなら当然だ」
「宇宙に出て?」
「7年、かな」
「なるほど。さすがはケストレル少尉の相棒なだけのことはありますね」
リョウが提示した宙域を点線で囲んで色をつけながら、しかし、とシュリンガム少尉は呟いた。
その宙域は現在のところ捜索エリアには入っていない。
「人員は割ける?」
小首をかしげるフェリックス少佐にシュリンガム少尉は首を横に振って見せた。
「すぐには無理ですね。捜索チームは現在みんな別方向に出払っています。そこから割くにしても時間がかかります。現在ステーション内にいる隊から新たな捜索チームをつくるにしても、出発させるまでに最低でも15時間はかかるでしょう」
救命活動は一日でも一時間でも早ければ早い方が救出の確率は高くなる。
人災でも天災でも、現場が宇宙でも地上でも、それはかわらない。
「僕らが行きます」
「探しにいくつもりなのか?」
今まであまり表情の変わらなかったシュリンガム少尉が驚いてコウをみつめている。
「軍の捜索エリアでないなら立入禁止区域じゃないですよね」
緊急事態を知らせるビーコンをキャッチした場合、通りがかった船が捜索し救命活動することは良くある話だ。
二重遭難の可能性がない限り捜索活動をするように、と努力義務としてガイドラインにも乗せられている。
「そう? じゃぁ、気をつけてね」
まるでピクニックに行くのを見送るようなフェリックス少佐の素っ気無い一言に、それを「突き放された」と受け取ったシレーネの右目が灰色から銀に変わる。怒っているのだ。
文句を言ってやろうと息を吸い込んだとき、静かにコウがシレーネの服の裾をひいた。
でも!と銀色の目でコウを見て、視線を戻した先で育ちすぎた天使のような少佐と黒髪美形の少尉は、自分たちのことなど忘れたかのように二人で会話をしている。
「ねぇ、シュリ。あれはどうしたっけ?」
「あぁ、新鋭機が配置されたので廃棄にした老朽化シャトルのことですね? ええ、B5ドッグに放置してあります」
「B5ドッグはまるでごみ置き場だねぇ」
「そうですね。近いうちに業者を呼んで処分することになっています。廃棄料もバカにならないんですけどねぇ」
「いくつ処分するんだっけ?」
「さて、何台でしたか。処分品はシャトルに限らず山のようにありますのでとても把握できません。確認した方がよろしいですか?」
「いいよ。めんどうだし。いっそ誰かが持ってっちゃってくれると楽でいいのにね」
とまどうシレーネの傍らで、コウが深々と頭を下げている。
「ありがとうございます、少佐。それでは失礼します」
コウにならって二人も頭を下げると、三人は部屋を出た。
宇宙ステーションのつくりなどみな同じようなものだ。ましてここは軍事色が強く、コウにとっては初めて来たにも関わらずなじみの場所と言っても差し支えない。
シェルディア・テ・フィンへと戻るリョウと別れたコウは、迷うことなくBブロックの外壁近く、大きく『5』と書かれたドアの前にたどり着く。
壁のパネルを操作するとドアがしゅん、と開く。
一歩踏み込んで、コウはひゅぅ、と口笛を吹く。
「こりゃ宝の山だな」
士官学校時代に訓練機として散々お世話になったのと同タイプの小型宇宙艇が五機、機首を並べているのを筆頭に、自動貨車や大小さまざまなコンテナが浮遊しないよう床に固定されている。
「シレーネ、5機全部のメインスイッチいれて!」
床をけって天井近くに設置されている操作室へと向かうコウが空中からシレーネに声をかけた。
「はーい」
薄暗闇に沈んでいた倉庫内に照明が点る。
カクテルライトが各機を照らし、天井や壁面から伸びるコードや装置も小さな稼働音を発し始めた。
「シレーネ」
スピーカーを通したコウの声が倉庫内に響く。
「真ン中のは消していい。電装がイカレてるから使えない」
低重力に設定されている倉庫は動きにくい。コウと違ってよたよたとシレーネは中央のコクピットにもぐりこんだ。
さっき入れたばかりのメインスイッチをおとして出てくると、コウが手招きしている。
床に立つシレーネの位置から建物の5階くらいの高さにある操作室まで、コウのように一跳びで行ける自信などない。きょろきょろと見回してハシゴを見つけるとそれにすがるようにして上がる。
ハシゴから開けっ放しのドアまでは一直線に跳んで、無事に室内に入ったシレーネを振り返りもせずに、コウは窓の外の手で示す。
「こっちから便宜上、1号機、2号機、真ん中は飛ばして、4号機、5号機と呼ぶよ」
操作室から見下ろして左端から順に指を差す。
「それで、ここからここまで」
コンソールの中ほどから左端を示す。
「僕が中でいじってくるから、緑のランプがついたらその都度教えて。で、これつけて」
ふわりとシレーネの目の前に漂ってきたのはインカム。見ればコウも同じものをつけている。
「それからこっち」
右手にある一番大きなディスプレイが4分割されている。
「これにそれぞれのデータが表示されるから、警告や注意が出たら教えて」
やつぎばやに指示を与え、シレーネの返事も待たずにコウはブースを飛び出すと、無駄のない動線であっという間に1号機のコクピットに吸い込まれていった。
中継ステーションなど人工物の生活空間は通常1Gを保つよう定められている。長時間の重力の楔から解き放たれていると、筋力の低下や骨の劣化が避けられない。宇宙に出て何世紀たとうとも、人間の身体は無重力や低重力に適するように進化することはなかったのだ。
作業効率優先のため0.3Gに設定されたドッグから、1Gの世界である通路へ戻ってきて、シレーネはほっと安堵の息をついた。
シェルディア・テ・フィンに乗り込んでから、無重力下での身の施し方も習ったけれど、シレーネにとっては重力のない空間は、文字通り地に足がついていない状態で心もとないことこの上ない。
重力を頼もしく感じながら案内表示を凝視する。現在位置とシェルディ・テ・フィンが停泊しているドックの場所を確認して、その道のりを頭のなかに叩き込む。
「どこへ行こうとしているのですか?」
びくっと声のしたほうを振り返れば、黒髪黒瞳の美形少尉が立っていた。
「シェルディア・テ・フィンに戻るところです」
身長差のため視線を上方向に修正しながら答える。
「それならしばらくは分まっすぐですよ」とシュリンガム少尉は歩き出した。
「お嬢さん、お名前は?」
肩越しに振り返りながら名を問われ、つられてシレーネはシュリンガム少尉の後を付いて歩き出した。
「シレーネです」
その後を待っているかのような沈黙がしばし続く。
「それだけ?」
「です」
公文書ではYという記号が付くが、故郷のエンフォースで営んでいた花屋の登記簿くらいでしかお目にかかったことはなかった。宇宙に出て中型三級のライセンス取得したとき、免許証に刻印されたその記号に、そういえばそんなもんもついてたっけ、と思ったほどだ。
「どこの出身なのかな?」
「エンフォース産まれのエンフォース育ちです」
コウやリョウとの出会い、どんなきっかけでK&R商会の社員となったのか、聞いてくるその口調は横柄だとか乱暴になったというわけではないが、先ほどとは随分と違う。
会議室ではもっと丁寧な口調だった。軍が階級社会だということは知っているけれど、すでにコウは軍を辞めているし、その時点ではシュリンガムもコウも少尉だったのだから階級も同じだ。まして、リョウと自分とは初対面のうえ年齢差もある。上官である少佐の前だったというのもあるかもしれない。
とはいうものの、訊ねられるままに答えてはいたが、砕けた口調というには親近感がなく、崩しそびれたような硬さが、シレーネの心を逆撫でする。
「辺境惑星で中央の軍人と…それも彼と個人的に知り合うなんて、随分と数奇な……」
濁された言葉尻に含まれた感嘆とも軽侮とも受け取れるニュアンスに、シレーネの右目が銀色に光る。
「だからなんだって言うんですか?」
つい刺々しくなったシレーネの口調にか、シュリンガム少尉は足を止めた。
「オーソリティーネームを持つってことがどんなことか、キミにはわからないだろ。ファミリーネームすらあまり意味を持たない地域で育ったキミには」
あたし、馬鹿にされてる?
まじまじと見上げてくるシレーネの左右色違いの瞳を静かに見返していた少尉はふっと笑った。
「馬鹿にしているわけでも軽蔑しているわけでも差別してるわけでもないんだがね」
オーソリティーネームというものがどういうものなのか、それにどんな価値があるのかわからないけれど、シュリンガム少尉がコウを特別視しているのはわかる。
「常識、というものは、育った環境や所属する社会によって違う。差別と区別は違うんだよ」
シレーネから視線をはずすとシュリンガム少尉は背をむけた。
「ここの通路を外壁方向へ上り、突き当たりのドアをあければシェルディア号のドック前だ。気をつけておいでなさい」
通路脇にある縦穴を指差した手をそのままひらひらと振って、歩き去っていった。
シェルディア・テ・フィンが停泊しているドックについている自動ロボットの補給作業を監視しながら、リョウはB5ドックのコウと連携して準備を進めていた。
退室直前の会話が、ドックにあるものは好きに使っていいとの二人からのメッセージであることは、シレーネはともかく、リョウはコウの説明を聞く前からわかっていた。
軍という組織の中で、彼らに与えられた権限の中で、出来る限りのことをしようとしてくれている。
例えば。
あの部屋から出口までの案内人はいなかった。行きは少佐たちと一緒だったからともかく、一般人は立ち入り不可のはずの場所であれば、余計な部署に入りこまれないよう、帰りも案内という名の監視があってしかるべきはずなのに。
けれど、だからといって彼に対してシレーネは好意的になれそうにないらしい。
シェルディア・テ・フィンに戻ってきた途端、シレーネが口にした言葉は「なにあれ、むかつくっ!!!」だったのだ。
リョウの指示に従って作業を続けながら、シュリンガム少尉との会話を報告するシレーネにリョウは苦笑するしかない。
少尉の言うことは正しい。
自分だって中央政府や正規軍の内部事情に詳しいわけじゃないけれど、シレーネよりは理解している。シェルディァを出てからのコウをとりまく環境が、どんどん変わっていくことを誰よりもつきつけられていたのはリョウ自身だ。感覚的なところで、住む世界が違っていたことを認識している。
K&R商会を興した時、コウは署名欄に『コウ・K』と記入した。オーソリティーネームである《M》の存在を消し、ファミリーネームであるケストレルさえ省略した。
その意味を問いただすようなことをリョウはしなかった。コウが自分でそう記した。それで充分だったから。
「コウって、特別な人なの?」
「俺にとっては他の誰よりも特別だよ」
コンソールパネルを離れた手は天井に取り付けられたスイッチをいくつか操作し、またせわしなく別のキーボードの上を走る。
「違うっ、そういう意味じゃなくて!」
あまりにもあっさりした返答にシレーネは手を止めて艦長席のリョウを勢い良く振り仰いだ。
「手を止めるな」
一分一秒でも無駄にするヒマはないんだ、と厳しい口調でシレーネに注意を与えてから、そのままの口調で続けた。
「他にどんな意味がある? コウはコウだよ」
そう言われてしまえばシレーネにはそれ以上何も問えない。言えない。
あとは黙って言われるままに作業を進めるしかなかった。