奏 −KaNaDe−



   黒板を叩くチョークの音と低めのテノール、それからノートを走るシャープペンの音。
 金曜日最後の授業なのにクラスの空気ははりつめている。
 週のラストが古典だなんて、サイテー。
 時間割が発表された4月当初から半年が過ぎてもその思いは誰もかわらない。
 よりによって、木下の古典なんてねー。
 クラスの違う友達からも同情たっぷりに慰められる。
 木下(うたう)
 まだ二十代半ばのくせに、だっさい黒ぶちの眼鏡をかけ、理系でもないくせに白衣を着て、授業中は冗談はおろか雑談のひとつもしない、カタブツな古典教師。
 誰もが羨む花の女子高に赴任してきた新米教師とは思えない冷静で冷酷な態度。
 新任教師として紹介された時点ではかなり人気も高かったらしいが、授業が始まってすぐに人気は急降下したと聞く。
 そりゃこんな授業してりゃ、嫌われもするわよねー。
 絵里子は小さくため息をつく
 流麗な口調で読み上げる今昔物語は、うっかり気を抜くと夢の世界に誘われてしまうが、ここで睡魔の誘惑に負けてしまうと、待っているのは悪夢の世界だ。
 去年の古典も担当が木下であった絵里子は、気持ちの良い夢の世界を数分間満喫する変わりに膨大な課題を出されてシカバネと化した級友達をたくさん見てきた。
「三行目の『来たる』の活用は。林」
「たら たり たり たる たれ たれ」
「よし」
 日付や席順で指名する教師は多いが、木下の指名はまったくのアトランダムで予測は不可能、一瞬たりとも気を抜けないし、予習もかかせない。
 再び羅生門に巣喰う鬼の話を朗読し始める木下に、次の質問を想定して息をつめていた生徒達はいっせいに小さく息を吐く。
 ちらりと壁の時計に目をやる者も多い。
 あと数分で授業が終わる。
 生徒からみれば数々の悪癖のある木下だが、授業時間を決して延長しないのは唯一の美点だ。
 毎時間、チャイムが鳴る3秒前に「今日はここまで」と教科書が閉じられる。
 日直の「きりーつ」という声にチャイムが重なり、一週間の授業が終わったことを告げる。
 ぐるりと教室を見渡す木下の視線が一瞬重なった気がして絵里子は小さく肩を揺らす。
 けれど木下は表情をほんのひとすじも動かすことなく視線は流れていく。
「れい」
 頭がいっせいに下げられる中、絵里子は小さく口の中で呟く。
 イヤなヤツ…。
 

 ばらばらと頭があがり、とたんにざわつく教室のなか、「平川」と絵里子を呼ぶ声が響く。
「はい」
 帰り支度をしていた手をとめ、教壇へと歩み寄る。
 ただでさえ長身な木下が教壇の上から絵里子を見下ろしている。
「パート練習をしておけ」
 にやりと酷薄そうな薄い唇の端があがって目だけで見下ろすその表情は、どんなに温厚な人間でも気分を害さずにはいられないようなイヤミな笑顔だ。
 冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせながらも視線はそらさない。
 従順に頷く絵里子にさらにいい添える。
「私が行くまでに聞くに堪える程度にはしておけよ」
 息を止めて感情を押し込める。
 どうしてこの人はこんな言い方しかしないんだろう。
「はい」
 返事をする絵里子にもう視線を投げることなく教室を出て行く。
「絵里子カワイソー、だいじょうぶぅ?」
「っとに、イヤミだよねー」
「平気、慣れてるから」
 古典教師としてだけでなく、合唱部の顧問と部長という関係でもあるから、絵里子は木下のイヤミな言い方など慣れきっている。
 今更その台詞に傷ついたりはしない。ただ、どうしてこんな言い方しかしないのかな、と少しばかり悲しくなるだけだ。
「なんで古典教師のくせに合唱部の顧問なんだか」
 普通、音楽科の教師が顧問やるよねー。と、絵里子に抱きつくようにして文句を言う美佐枝に絵里子は苦笑を返すしかない。
「でも、耳は確かなのよね」
 肩をすくめるようにしてため息まじりにこぼすのは絵里子と同じ合唱部の有香。
「あのイヤミな言い方がなければ、かなりイイ線いくのに。そう思わない?」
 美佐枝は話に乗ってこない絵里子から手を離し、同じように木下への文句を口にしていた沙織に照準を変更する。
「えー、あー、そうかも。でも、いくら顔が良くても性格があれじゃねー」
「だよねー」
「そうそう」
 常に緊張を強いられる授業を受けている生徒たちにとって重要なのは顔ではないから、沙織の言葉に賛同する声がいくつもあがる。
「木下の欧って名前、ヨーロッパで生まれたから『欧州』の『欧』なんだってよ」
 バレー部の後輩が木下のファンだとかであれこれ調べては教えてくれるのだといって、美佐枝はその情報を披露する。
「とかいって、本当はミサが木下を好きなんじゃないのー?」
「違うって!」
 クラスメイトの会話を聞くとも無しにききながら荷物をまとめ、絵里子は待っていてくれた有香と並んで教室をでる。
「イヤミなヤツってだけじゃないんだけどねー」
 有香がくすくすと笑いながら言うのは、合唱部員は文句を言うほど木下を嫌っていないからだ。
 言い方はいちいちイヤミたっぷりだけど、言ってることは筋が通っていて、指摘された部分を修正していけば歌っている自分達でもハーモニーに広がりが出るのがわかるほどで。
 それに、ごくたまにだけれど、すごく穏やかで柔らかい笑顔で聴いていてくれることもあるのだ。
 そんな時はブラヴォーという賞賛と惜しみない拍手をくれるから。
「誤解されやすいのは確かよね」
 絵里子も笑い返す。
「あながち誤解でもないところがなんともね」
 有香が大げさに肩をすくめるのに絵里子もつられるように肩をすくめた。
 誤解されやすい、というよりは、誤解されたがってるように絵里子には見える。
 仕事でヨーロッパを転々としていた両親の都合で、 ドイツで生まれてスイスで幼少期を過ごしオーストリアやトルコ、イタリアなど多種多様な環境で育った木下の語学と音楽センスは卓越している。
 センスだけでなく、ピアノと歌は相当なもので、ウィーン在住の頃にピアノでも声楽でもいいから本格的にやってみないか、と誘いを受けたことも一再ではないという。
 合唱部の生徒は一般の生徒よりも木下に近いところにいてその才能を知っているから、尊敬の念を抱いている部員も少なくはない。
 その才能を活かそうとは思わなかったのか、という質問は幾度となくかけられたが、そのたびに木下はお得意のイヤミな笑顔を浮かべて答えるのだ。
 曰く。 
 外国で育ったせいか日本文化への興味の方が強かったのでね。本当に面白い国ですよ、日本は。
 その興味に従い18歳の夏に単身帰国し、日本の大学で日本文学を学び、今はこうして教師の道を歩んでいる。
 いくら地元ではそれなりに名が通っているとは言え、こんな地方の私立女子高の古典教師で落ち着いてしまうような器ではないというのに。
 かといって、にじみ出るイヤミさ、性格の悪さは「この役不足に甘んじてやっている」という感覚から来るものではなく、本人は今の環境が自分にとって最高の状況だと公言してはばからない。
 生徒へはもちろん、先輩の教諭達に対しても傲岸不遜・傍若無人な態度を変えようとしない男は、いったいどこにどんな生き甲斐を見出してこの職に就いたのだろうか。
 本音を見せない大人の考えていることなど17歳の少女たちに推し量るすべなどありはしない。
「あれだけの経歴と才能でこんな田舎で教師やってんだから、ある意味ものすごいイヤミかも」
 ちょうど音楽室の前まで来たところで絵里子は呟いた。
 一瞬何を言ったのかわからなかったのだろう、有香は不思議そうな顔で絵里子を振り向いた。その言葉を脳内で反芻し、意味を理解したとたん有香は噴き出した。
「まったくだねーー」
 ドアをあけながら屈託なく笑う有香に続いて音楽室に入りながら、絵里子は少しだけ複雑な顔をした。

 文化祭が終って三年生が引退し、新部長となった絵里子は部活内で指導的立場に立たされた。
 パートリーダーに木下からの指示を伝え、自分もアルトのメンバーを集めてピアノの前に着く。
 女の子の習い事としてピアノはごく一般的なものだから、絵里子も小さい頃からピアノ教室に通っていた。
 最初のうちは親に言われるままにただなんとなく。気付いたらやっていたという程度で、弾くのが好きだったわけでもなんでもない。
 それは小学校に上がって最初の夏休み。
 絵里子が弾くたどたどしいピアノの音にあわせて、別のピアノの音が重なる。
 最初は偶然だと思っていた。たまたま誰かもピアノを弾いているのだろう、と。
 けれど、次の日も次の日も、音は重なる。絵里子の上達に合わせて重なる音は複雑になっていく。どこの誰とも知らぬ相手との連弾が面白くて、ピアノを弾くのが楽しくてたまらなくなった。
 夏休みが終る少し前。その日を境にどんなにピアノを弾いても絵里子以外の音が重なることはなかった。

 そして、そんな出来事もすっかり忘れピアノへの情熱も冷めた頃、また夏が巡ってくる。
 夏休みに入る直前のことだった。
 クラスの友達が遊びにきていて、庭で遊びながら二人で「今月の歌」を歌っていた。親や教師達の青春時代に流行った歌だそうで、絵里子が歌っていると母も一緒になって歌ってくれたので、なんとなくすぐに口ずさんでしまう。
 友達がいれば自然と唱和し、一人でなければ声はどんどん大きくなる。
 声をはりあげて歌う二人の声に涼やかな声が重なった。
 二人が歌うのとは違う旋律、違う音。
 けれどぴったりと重なって。
 驚いた二人が歌うのをやめるとその声も途切れた。
 その日はそれきりになってしまったが、絵里子はひとつの決意を固めた。

 翌日、絵里子は庭で歌を歌う。
 始めはひっそり。
 歌いながら耳をすませて。
 自分の声と遠くを走る車の音と木の葉擦れの音。
 少しずつ声を大きくしてみる。
 恐る恐る。
 それからだんだんと大胆に。
 教室で歌うのと同じくらいの声になったとき、待ち望んだ声が耳に届いた。
 歌いながら耳をすませて、声が聞こえるほうを探して。
 
 地方主要都市にくっついて栄えてきたこの街は、それなりにそこそこの歴史がある。
 住宅街には由緒正しい門構えの古い日本家屋や、大正浪漫風の和洋折衷様式の館が点在し、後から建てられた普通の一般家屋がその隙間を埋めるように連なっている。
 絵里子の家は普通の民家だが、いまどきの建売住宅はよりははるかに広い土地にゆったりとした家と庭を保有している。その庭のはずれ、隣家との境を主張するしゃれた鉄柵にすがりつくようにして隣を覗き込んだ。
 会えば親に教わったとおり元気良く「こんにちは」と挨拶はしてきたし、お遣いで回覧版を持っていけば「ごくろうさま」とおやつをもらうこともあったから、お隣が老夫婦の二人暮しだということは知っている。
 近所でも一際目を引く古式豊かで立派な洋館に、お姫さまか王子さまが住んでいるものと信じていたのは幼稚園にあがる前のことだ。
 だから、お隣にこんな声で歌う人がいるなんて信じられなかった。
 目の前で見てさえも。

 鈍色の柵の向こう、広々とした芝生の上に座り込んで、歌いながら犬のブラッシングをしてやっているほっそりとした姿。夏の陽射しに天使の輪を輝かせたさらさらの黒い髪。
 でっぷりして頭の薄くなったおじいちゃんでも、小さなおばあちゃんでもない。
 絵里子は歌うことも忘れてその姿を凝視していた。 
 その視線に気づいたのか、歌いながらゆっくりとその人が絵里子の方を振り向いた。

 それが、「隣のお兄ちゃん」との出会いだった。





「そろそろ合わせてみようか」
 腕時計で下校時間が近づいたのを確認して、絵里子は部員に声をかけた。
 ピアノの前にすわり全員が並ぶのを待つ。
 用意が整ったのを確認して鍵盤に指をのせる。弾かれた鍵盤からこぼれだす音に従って、部員が口をあける。
 声が伸びる。
 音が重なる。
 太古の昔から人間が持っていた楽器、自分の声帯を震わせて。

 ここ、アルトが走ってる。
 伴奏を弾きながらも修正箇所をチェックする。
 あ、ここはメゾソプラノが弱いや。
 気になるけれど手の方がお留守になってしまうから口を開くことは出来ない。
 4歳からピアノをやっている絵里子だが、もともと不器用なたちなのか伴奏に合わせて歌うならまだしも、ピアノを弾きながら話すという芸当はできない。
 絵里子にできることは、その箇所を覚えておいて歌い終わったときに指摘することだけだ。
 一曲を歌い終わり気になった部分を伝え、「じゃ、もう一度」と伴奏を弾き始める。
 音が広がる。
 声が重なる。
 指摘したはずの箇所は修正されていない。
 その場で声をかけられればいいのだけれど…。
 眉をひそめた絵里子のうなじに空気の流れが触れた。
 ドアが開閉するかすかな音に「あ」と思うまもなく、鍵盤に指の長い手が伸びてくる。
 絵里子の指から紡がれていた音にするりと音が重なって、奪い取られる。
 伴奏も椅子も木下に譲り、絵里子は部員たちの方に並ぼうとピアノから離れる。
 ちらりと木下を見ると視線があった。
 その視線がグランドピアノの上に置かれた白い指揮棒を指す。
 伴奏でなければ、指示をだすこともできるだろう、との木下の意図を読み取って、諒承の証に小さく頷いてから指揮棒を手に教壇にたった。
 木下であれば伴奏しながら指示を出すことくらい簡単なのに、あえて自分に指揮棒を振らせ、指示をださせる。
 絵里子が気づいていることであれば、それは絵里子の口から伝えるべきだと。
 それは絵里子の耳を信じているからだということを、絵里子は知っている。
 そして修正がなされた時に得られる達成感を絵里子が好んでいることを木下は知っている。
 何もかもお見通しなのよね。
 ほんと、イヤなヤツ…。




 晩秋よりも初冬という言葉がしっくりくるようになったこの時期、校門を出る頃にはあたりはもう真っ暗だ。
 できるだけ一人で帰らないように、との指導がなされていなくても、女子高生たちはいつだって固まって移動していく。
 学校から最寄駅の私鉄の駅まで。そこから電車組とバス組に分かれて手を振り合って。電車組は階段を駆け降りて発車寸前の電車に飛び乗って、息をはずませて途切れることなく続く会話をし、途中で一人ずつ減るたびに「じゃぁねぇ」と声をかけあって。
 発車していく電車の中の有香にホームから絵里子は手を振った。
 私鉄とJRの乗り換え駅。本来はここで乗り換えなければ自宅に帰れないはずの絵里子は改札を抜けるとターミナルを見渡した。
 客待ちタクシーがひしめいているその先に、全国どこにいってもいくらでも走っている白いセダンが4灯をつけて止まっている。
 足早に近づくと、中から助手席のドアが開いた。
「早かったね」
「エリーが遅いんだよ。23分の電車には間に合わなかったのかい?」
「亜紀ちゃんがノート買うって言うから駅ビルに寄ったの」
 絵里子がシートベルトを締めるのを待って、車は動き出す。
 国産車のシートにいささか窮屈そうに長身を収め、長い指がハンドルを握る。
 滑らかに走り出した車の助手席に身を沈めて、絵里子は運転手に目をむける。
「今の世の中、ヘンなのが多いんだから、気をつけろよ」
 ウィンカーを出しながら応えたのは、学校にいる時より格段に柔らかい雰囲気を纏う木下欧、その人だ。
「わかってるよ。だからおーちゃんがこうやって送ってくれるんでしょ。どうせなら学校から乗せてくれればいいのに」
 膨れる絵里子におーちゃんと呼ばれた木下は苦笑をこぼす。
「いくら家が隣でも、教師が一人の生徒を特別扱いするわけにいかないだろ」
 ほとんど毎日のように繰り返されるやりとりを律儀に繰り返す二人を乗せて、車は夜に沈んだ町を走っていく。


 小学二年の夏休みに出会った「隣のお兄ちゃん」は、夏の間しか「お隣」にいなかった。風が涼しく感じられる頃、「また来年の夏ね」と絵里子の頭をなでた次の日から絵里子の歌声にもピアノの音にも重なる音は聞こえなかった。
 両親と暮らす海外から、長い夏休みの間だけ祖父母の元にやってくるのだということを理解したのは、その翌年の夏の初め。
 10か月ぶりに会った「隣のお兄ちゃん」は相変わらず綺麗な声で「大きくなったね」と頭をなでてくれた。
 そんな夏を3度繰り返して4度目の夏の始まり。いつものように頭を撫でながら「隣のお兄ちゃん」は、このまま秋になってもここにいるから、とにっこり笑った。
「日本の大学に通うために戻って来たんですって。今はそのための勉強をしているのだから邪魔しちゃだめよ」
 今までの夏休みと同じように隣の洋館に通おうとしていた絵里子に母はストップをかけた。
 二人で歌うことも、洋館の大きなグランドピアノで連弾をすることも、外国の不思議なおもちゃで遊ばせてもらうこともないまま季節は移り変わって行く。
 それでも、運動会の練習をする頃になっても、霜柱を踏みながら学校に通う時期になっても、ほんの時々ではあったけれど、絵里子のピアノに重ねるようにピアノの音が聞こえてくることがあって、その度にその存在を感じて嬉しくなった。
 やがて「受験が終ったから遊びにおいで」と柵越しに声がかかり、絵里子が小学5年になるとき「隣のお兄ちゃん」も大学生になった。
 そして絵里子はピアノ教室を辞めた。教室の先生より「隣のお兄ちゃん」に習うほうが楽しかったし、ピアノだけじゃなくて歌も勉強も教えてくれたからだ。
 私立中学の受験勉強をしていた頃、受験のテクニックを教えてくれたのは塾だったけれど、難問の解き方をわかりやすく教えてくれたのも「隣のお兄ちゃん」だった。
 おかげで地元では名門と呼ばれる学園の中等部にめでたく合格した。
 親戚でもなんでもないのに「お兄ちゃん」と呼ぶのがなんとなく照れくさくなり、欧の字をそのまま音読みで「おーちゃん」と呼ぶようになったのはこの頃だった。

 バスと電車を乗り継いで通う名門と呼ばれる学園で、入学早々に出来た友達に誘われるままバドミントン部に入って2年。
 部活で忙しくて隣の洋館に行くことも減った。家でピアノを弾く機会も減ったけれど、たまに隣からピアノの音が聞こえてくると絵里子の方からあわせたし、絵里子が弾けばやはり音は重ねられた。
 中等部最後の一年、と言ってもそのままみんな高等部に進むんだしね、と緊張感のかけらもなかった始業式。
 講堂で紹介された新任教師に絵里子の目は釘付けになる。
 中等部、高等部の全生徒が集まるなか、壇上の木下欧は確かに自分を見ていた。




 来月に開かれる県の教育委員会主催のコンサートに向けて、部員達は練習している。
「今日の出来はどうだった?」
 車は県道を逸れ、古い家と新しい家が混在する住宅街へと入っていく。
「まだまだだな」
 ウィーン少年合唱団を始めとする世界的に有名な合唱団を当たり前のように生で聞いて育った耳に、地方の女子高の部活レベルがたちうちできるわけもない。
「おーちゃんのレベルで考えないでよね」
 むくれる絵里子に木下は楽しそうに笑う。
 スピードを落として角をまがる。
「ちゃんと県のレベルで考えてるよ」
 低めのテノール。柔らかい声音。
 学校でのイヤミ教師の顔はどこにもない。
 どうしてこんなに違うんだろう。
 学校でもこれくらい、とは言わない。この半分、ううん、三分の一くらいでいいからイヤミさを抑えれば、あんなにみんなから「イヤなヤツ」扱いされないのに。
 小さい頃から絵里子にとって大切な「隣のお兄ちゃん」なのに。
 本当はとっても優しくてピアノも上手で歌声もきれいで、誰より素敵なのに、学校のみんなが「サイテー」と顔をしかめるのが哀しい。
 かといって、こんなに柔らかい笑顔を学校で振り撒いてもらっても困る。
 今日だって「あれでイヤミじゃなければ」と美佐枝も言っていたように、顔はいいのだ。
 背も高いし、カッコイイと思うのは自分の欲目ではないはずだ。実際、授業を受持たれることもない中等部での人気は常にトップクラスなのだから。
「ん?どうした?」
 右に曲がると木下邸という角を通り越しながら木下はちらりと絵里子を見る。
「ううん、なんでもない」
 一本先の道で右折しさらに右折し、戻る形で平川家の前で車は止まる。
「それじゃおやすみ。遅刻するなよ」
 ハンドルに両手をかけて軽く笑う木下に絵里子も笑い返す。
「うん。おーちゃんもね。今日も送ってくれてありがと」
 助手席のドアを閉めて窓越しに手を降る。
 軽くクラクションを鳴らして車は走り出し、すぐに隣家の門をくぐって見えなくなる。
「おーちゃんのバカ」
 学校ではイヤミな古典教師のくせに。
 ピアノも歌もプロ級なくせに田舎教師なんかやっちゃって。
 なのに、いつまでも優しい隣のお兄ちゃんのまんまで。

 知らないわけ、ないくせに。
 自分の気持ちなどいつでもお見通しだったくせに。

「ほんっとに、イヤなヤツ!」






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素材提供: STAR DUST