徒事愚考を喰らふ



 その街はヨーロッパのどこだかの都市をモデルにして作られたという。
 中層のマンションがいくつも並び、その一階部分の多くは店舗や病院が入っている。
 通りからそのまま入れるつくりの部屋を持つ住居も少なくなく、個人の事務所や教室などとして利用されることも珍しくない。
 一見するとそこは書斎のようだった。
 部屋の壁は窓とドアを覗いてすべて書棚で覆われ、ちょっとした書き物ができるような小さなライティングデスクが書棚と、そこに入りきらない書物に埋もれるように置いてある。
 外からの視線をさえぎる大人の胸ほどの高さのパーテーションはいたって事務的で、それで区切られた応接スペースにはデザイン性など感じられない素っ気無いソファと低いガラステーブルのみ。
 この手のカウンセリングルームにはありがちな癒し効果を高めるようなものは、絵画の一幅も穏やかなBGMも、観葉植物の一鉢さえ、何一つない。
 Serene──セリーナ、もしくはセレナ。
 外に看板が出ているわけでも、タウンページに載っているわけでも、公式HPがあるわけでもないが、いつからかこの部屋と、この部屋の主はそう呼ばれるようになっていた。





「夢を見るんです」

 背広姿の中年男は膝の上に組んだ自分の手を見たままぽつりと言った。

「いえ、寝て見る夢ではなくて──。あぁ、そうですね。憧れるというのともちょっと違うな。なんていうか──夢想するって言うんでしょうか」

 精力的とはとうていいえないが、殊更くたびれているわけでもない、どこにでもいる、普通に生活しているサラリーマンの典型のような男だ。

「ホームで電車を待っているときには、誰かが背中を突き飛ばしてくれないか」

 対するセレナは言葉を発しない。
 長身に見合った長い足を組んだまま、顔の造作は整ってはいるけれど感情を一切あらわさない切れ長の目のせいでひどく冷たい印象を与える。

「道を歩いていれば車が突っ込んでこないか、横断歩道では信号無視の車がこないか」

 中年男が零す言葉を聞いているのかいないのか、ただ、黙って座っている。

「雑踏を歩いているときは、『誰でもいいから人を殺して見たかった』とかいう輩が後ろから心臓を一突きしてくれないか」

 男性にしては線が細くて威圧感はないが、無愛想で話しやすい雰囲気などかけらもない。年齢不詳でどんな人物なのか掴み所も全くない。
 それでも、この部屋を訪れる人はセレナを相手に鬱屈したものを吐き出しにくる。

「新聞やテレビで大きな事故のニュースを聞くと、どうして被害者が自分でないのだろう、と思うんです」

 セレナとソファの隙間で窮屈そうに丸くなっていた黒猫が床に飛び降りた。

「被害者の友人知人が涙ながらに故人を偲んでいるのを見ると、どうしてそんなに惜しまれる人が死んでしまって、私のような人間が生き延びているのだろう、と思うんです」

 猫はぐんっ、と身体を伸ばしてから、ふぁぁ、と大きなあくびをする。

「いえ、私が突然死んだりすれば、家族や友人や、職場の同僚なんかも惜しんでくれるのはわかっています」

 中年男に興味を惹かれたのか、猫はゆっくりとその足元へと近づいた。

「もちろん、子供達は大切だし、妻も愛しています」

 ふんふん、と鼻を蠢かして中年男の革靴の匂いを嗅ぐ。

「別段、今の生活に不満があるわけでもないんです」

 猫は中年男の顔を見上げた。

「それでも、私は死を望んでしまう」

 男は両手で顔を覆った。

「ええ……、いえ。本当に望んでいるわけではないことも知っています」

 男の足元にじっと座っていた猫は一点を見つめる。

「私はただ逃げたいんです」

 にやり、と猫が笑った。
 ゆっくり落ちてくる何かをじっと待っているかのように、視線がじりじりと下に動く。

「何もしたくない、何もかんがえたくない」

 ぱかり、と猫の口が開いた。

「だから『生きる』ということから逃げ出したいだけなんです」

 自分の顔よりも大きくあいた口の中からピンクの舌がぺろりと30cmほど伸びて、見つめていた何かを絡め取る。
 猫はソレをすすりこむように飲み込むと、何もなかったように再び身を伏せた。
 音も気配も、何もなく。
 ただ、舌の先が小さく口の回りを舐めただけ。
 中年男は何も気付かなかった。


「それでも、生きていくしかないんですよね。それもわかってるんです。そんな、死ななきゃいけないほど、どうしようもない人生じゃないことも、ちゃんとわかってるんです」

 やがて両手の中から顔を上げた男は、大きく息を吐いた。

「ありがとうございました」

 深々と一礼して中年男は部屋を出て行った。
 テーブルの上には白い封筒が置かれている。
 セレナはそれを興味なさそうにとりあげ、邪魔な物であるかのようにライティングデスクの引き出しに放り込んだ。

 再びソファに戻ったセレナは中年男がいる間、一言も発しなかった声を出した。

「単にあの男が弱いというだけのことではないか」

 忌々しげに──親しいものでなければ気付かぬ程度ではあるが──言い捨てたセレナの正面、先ほどまで男の座っていたソファにひらりと猫は飛び上がる。

「まぁ、そういうな。もともと人間(ヒト)など弱いものよ」

 猫の答えなど端から期待していなかったくせに、その返答に形の良い眉をしかめる。

「その弱い精神(こころ)(あやかし)を引き寄せ、そこに棲まわせ、それが精神を蝕み、さらに弱らせる。悪循環もいいところだ」

「その昏き闇に巣喰う妖ほど我らにとって美味しいご馳走はないでな。ありがたいことじゃ」

 食したばかりの餌を思い出したか、黒猫は薄桃色の舌を出してちろりと口の周りを舐める。

「であれば、あの男について行けばよいではないか。いつでも好きなだけご馳走にありつける」

「頃合いという言葉を知っておろう。熟さぬ果実も、熟しすぎた果実も喰えたものではない。人間の精神で程よく熟れ、自然に出てきたものが何よりよ」

 長く細いひげがふるふると上下し、笑いの波動となって空気を振るわせる。

「つきあわされるこちらはいい迷惑だ」

「良いではないか。何もせずとも勝手に扶持を置いていく。何が不満じゃ?」

「自分の弱さを見ず知らずの他人に肯定してもらわねばならない輩の愚痴など聞いて面白いわけがなかろう」

「見ず知らずだからこそ言えるということもあろうに。これだけ沢山の人間を迎え入れておるのに、未だに人間(ヒト)の精神がわからぬか」

「わかりたいとも思わんな」

 吐き捨てるような口調に黒猫はくつくつと笑う。

「そなたは魔ノ物(われら)よりよほど冷淡よの」

 笑いながら黒猫はソファの上から窓の外を眺める。
 次はどんな人間がどんな昏き闇で熟成させた餌を運んでくるのだろうか、と楽しみにしながら。


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