
■年末年始になると、本屋にはさまざまな猫の写真カレンダーが出回る。猫好きにはこれがまたたまらないのだが、すべての猫カレンダーがいいかというと、決してそうではない。ヤラセまる見えの写真は問題外だとしても、写真の中の猫たちを見れば、この写真を撮った人が本当に猫が好きか否か、少なくとも愛情を持ってファインダーを覗いていたか否かは、猫好きの者にはすぐ分かる。猫に救われる人もいれば、猫で身を滅ぼす人もいる。猫に罪はない。
■今日見たほぼ同じ値段の2種類の猫カレンダーでも、一方はすました猫たちの美しいポートレート集であり、もう一方は日常のふとしたしぐさの中にあるはっとするような表情をうまく捉えたショット集だった。どちらが猫好きの人間の目、つまりは製作者がそのカレンダーを購入して欲しいターゲットの目に止まるかは自明の理であろう。犬や兎や猿に対しても同様だけれど、人間のような服を押し着せて可愛いと悦に入る人もいる。私の感性は少し違うけれど。
■猫好きでない人にとってはほとんど興味のない話かも知れない。いわんや世の中には猫が嫌いでたまらなかったり、猫が怖いという人も存在している。私はその人たちを自分と別の人種や感性の持ち主であるとは思わないし、この感覚を無理矢理分かち合おうとも考えてはいない。しかしこれは犬好きの人に平行移動して置き換えることもできるし、ファインダー越しに見ているものを犬猫だけではなく人間そのものであったらと考えることも可能である。

■対象物に愛情を持って接しているか、もっといえば感情失禁することなく観察者と対象物という区別を超えて「見て」いるか否かは、その写真を見ればかなり分かってしまう。いやカメラがなくてもその人の眼差しや表情や全体の仕草によっても、何も特別に霊的次元や超能力なぞを引っ張り出すまでもなく、瞬時の生命ベクトルやトータルな人生態度を「見る」ことができるに違いない。デジカメとPCのある現在に生きていられることの幸せを噛み締める。
■さて話をまた猫に戻そう。私は最近、外出する時はいつもバッグの中にデジカメを入れている。通りすがりに猫を見かけたら、すかさず「いただきますショット」をするためだ。もちろん猫にも猫なりのプライバシーというか、軽んずべきでない諸事情があるだろうから、ひとことふたこと断ってからシャッターを押すことにしている。残念ながらその言葉は人間の言語ではあるが、盲愛と執着に傾沈することなく、同じ生命体としての敬愛を込めて語りかけている。
■それすらも間違った感情移入であると言うような心理学的つっこみには、ただ「そうとも言えますね」とだけ答えるが、問題は猫に対するこのような接し方で、普段から人間にも接することができているかどうかということへと移行していく。「人に接すると同じように猫にも接する」ということが滑稽だと条件反射的に感じる人は、「猫に接すると同じように人に接する」ということの難しさをただのナンセンスと解するのだろうか。好きなものを愛する幸せ。

■…いや私は単に「人を見るように猫を見、猫を見るように人を見る」ことが理想の1つであるだけの単なる猫好きである。
テラバイト日記(62)20011229
rewritten on 20061205
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