『成城学園の建築』・キャンパス全体模型をつくる       (増沢 幸尋)

成城学園は大正6年、1917年、東京市牛込区(新宿区)原町3丁目に私立成城中学校の一部に創設された成城小学校にはじまる。創設者は文学博士、沢柳政太郎先生で、1.個性尊重の教育 2.自然に親しむ教育 3.心情の教育 4.科学的研究を基とする教育の4目標を掲げて、新教育の実践にふみだした。大正11年、小学校の卒業生のために、成城第2中学校が創設され、大正14年に、東京府下北多摩郡砧村喜多見(世田谷区成城)に成城第2中学校は移転し、新たに成城玉川小学校と成城幼稚園を併設した。

翌大正15年、成城高等学校が創設された。昭和に入り、成城騒動といわれる内紛がおこったり、苦難の道を歩んできた。昭和16年にはじまる第2次世界大戦、昭和20年5月の東京大空襲により学園の校舎の半分は焼失した。

昭和20年8月、終戦をむかえると教育環境の整備が必要となった。

成城大学5号館(1977年)

昭和19年に成城高等学校を卒業した増沢洵が昭和31年に学園から大学書庫の設計を依頼された。「それは私にとって、突然のことであり将来のことは全くわからないが、建築を通じて、母校に協力できる機会を、できる限り大切にしたいと考え、当時師事していた建築家アントニン・レーモンドの事務所を辞して学園の仕事に専念した。」昭和31年7月、増沢建築設計事務所の開設である。書庫の工事中に40周年記念事業として大学1号館の計画が具体化した。第2体育館、中学校、高等学校、大学2号館、初等学校と校舎の新築は続き、昭和42年、50周年記念講堂に至っている。その後、旧大学図書館、大学3号館、幼稚園、火災により被害を受けた第1、第2体育館の修復工事を行い、昭和52年に60周年記念事業、大学法学部新設に伴う大学5号館の建築に携わってきた。その年、『成城学園の建築』のこれまでの業績に対して、日本建築学会賞作品賞を受賞している。

その後は、特別教室棟などの建築が続き、昭和62年、70周年記念事業の大学新図書館の計画に至っている。こう見ていくと10年の節目である記念事業の影響を大いに受け、教育環境の整備は、着々と進んできた。大学1号館の計画をしていた昭和31年当時にもマスタープランの絵があり、大学1号館を軸線とし延長線上に将来的に、建築を作る計画案で整然とした配置計画であった。しかし、自然環境を残しながら作る概念から、既存の木造校舎の位置に次の建築計画を実施する方法をとってきた。

昭和62年以降は、いわば周辺施設整備計画である。中学校音楽ホール、高等学校の図書館を中心とする中央棟、中学校のアトリエ、図書館を有する杉の森館、大学新図書館から続いて西側の公道に面して作る建築が多くなり、町並形成の一端を担う建築群である。西側道路から見た立面を連ねた絵「成城学園、西側の町並」である。そのほかに、大学7号館、大学スポーツセンター、伊勢原計画も完成している。

成城大学新図書館(1987年)平成2年図書館協会賞受賞

成城学園、西側の町並 昭和60年せたがや界隈賞受賞

成城大学1号館(1957年)

成城学園キャンパス全体模型(1997年)

成城学園の本校地は仙川を挟んでL字型をしていて南北600m、東西150〜350mのキャンパスである。その全体模型は1:1000の縮尺で、人の高さが1.7@、スケール感覚はややつかみにくく、どうしても上から覗いてしまう。。それでも密集している具合、空地のバランス、つながりは把握できる。そこから将来に向けてのビジョン作る。鳥観的な視点に一度はたってみて、次にそこで息をしている先生、学生たちの教育環境を今後いかに構築していくかを考える、それは教育像から空間像に結び付けるものを探究することであり、それを建築設計に生かすことが可能であろう。われわれの事務所と歩んできた40年間の建築達をこの全体模型を通して見ることが次のステップのエネルギーとなることを願っている。         

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