「通り芯」発刊によせて MAA代表 増沢幸尋

毎年恒例のMAA桜の花見会、3月は暖かく、23日には西側にある桜の木が開花。早め実施説を横目に我慢にガマン。3分、5分と咲き、三寒四温、やっと花見会を4月3日(木)に決定しました。桜の見ごろとしては絶好、しかし当日は雨、やや寒い、ピロッテイと3階室内で「お花見」。例年よりやや少ない人数でしたが、夜遅くまで賑やかでした。この花見会、1987年(昭和62年)に新人歓迎会を花見会と合わせてやろうというのが事の始まりです。翌1988年、新人、所員の家族、OBを呼んで、庭にコンクリートブロックで炉を作り、バーベキューをやったのが本当の始まり、手さぐりの全員参加の花見会。その次の年から、いつもお世話になっている方々にも来てもらおう、友達も呼ぼうと、輪が広がり10回目となりました。この桜の木、1952年(昭和27年)この地に増沢自邸、通称「最小限住宅」を建ててすぐに、渋谷の東急百貨店の緑樹祭の苗木市で5本、50円で買って植えたもので、その内の3本が今では10mの高さになっています。花見会から2週間後、4月17日、MAAデザイン研究会、コーディネーターはスタッフ斎藤業(さいとう ぎょう)、テーマが「1952〜1972年MAA住宅作品再訪」当時の写真と最近の写真を照らし合わせて紹介、分析。残っている住宅、建て直した住宅、住み手が変わっている住宅、様々であった。残っている家にとって、その家を設計した事務所が今どんなことをしているかを知ると楽しいのではないか、なにか相談事があるのではないか、最近のMAAの活動がわかる小冊子を作る準備をしようと考えました。考えてる内に、世田谷区等々力の木場(こば)さんから、「藤の花の集い」の御案内が届きました。木場さんのお宅は、1953年に私の父、洵(まこと)がレイモンド事務所時代に設計した住宅作品「コアのあるH氏邸」で平屋のセンターコアの家です。この家は原氏から岡田氏へ、岡田氏から近藤氏と持ち主が変わり、いまは近藤氏の娘さんの木場夫妻が住んでおられます。「藤の花の集い」には、藤の花を植えた原夫人、原さんの長男も来られて、44年たった家に集まった方々と木場夫妻の手料理を囲んで交流することができました。

我々の事務所は1956年(昭和31年)7月創立です。レイモンド建築設計事務所から独立して、洵の母校である成城学園の「書庫」を設計するために事務所を設立しのが始まりです。個人事務所としてスタートして昨年40周年を迎えています。その間、5年毎に少しづつ変化をしてきています。5年を1クールとすると、1978年「成城学園の建築」で日本建築学会賞を受賞したのがNo5クール、1990年10月、病気で増沢洵が亡くなったのがNo7クールの後半です。その後、私、幸尋があとを引きついだのがNo8クールにあたります。学校、研修所、スポーツ施設、福祉施設、地区会館、独身寮、集合住宅、住宅と今までの設計の延長線上を進んできました。No8クールは洵の後、設計組織としてのMAAはどのように道を進むべきか、私やスタッフの重要な関心事でした。全員が考えてみよう、話し合ってみようということから、全体会議、主要テーマ毎の分科会を作り、検討会がスタートし、1年間は夜遅くまで議論を重ねました。「ビジョン会議」と呼んでいました。その後、なんらかの形でそれまでの議論を集約しようとして、そのイメージを掴むために、ビジョン会議という題名では設計組織としてはどうもしっくりこないので、『通り芯会議』と呼びぼうと提案がありました。
「通り芯」とは、建築の専門用語で建築の柱や壁の中心を表わす重要なラインです。縦横の通り芯は、設計図を書く場合の基準となるもので、また工事の場合もそのラインを基準にものづくりが始まります。ただし、通り芯は実際の建築では見ることはできません。仕上げの材料や色合いには触れることはできますが、通り芯は柱や壁の中にあり、見ることができません。見えない透明な糸のようなものです。

この度、MAAの情報誌(Public Relations誌)を刊行するにあたり、MAA『通り芯』と名づけました。見えない糸を支えに、見えない糸を手繰り、創立40年が過ぎ、No9クールのここ5年は「考える」時期であると思っています。この『通り芯』がお手元に届き、読んでいただける事を切に願っています。それが我々を取り囲んでいる人々の輪が少しでも広がる事に役立ち、また普段、お目にかかり、お話をすることができない方々に、近況報告を兼ねたコミュニケーションになると考えました。 Yukihiro Masuzawa

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