■   玉川上水緑道 01  ■ 次へ



昭和53年(1978)玉川上水は暗渠となり、緑道に姿を変えた

 大山町会館のある大山町21番地10号のすぐ横から北側(幡ヶ谷方面)に向かい「玉川上水緑道」がある。旧玉川上水・遊歩道とも呼ばれ、両側に桜の木が多く、お花見の時期には大いに賑わう場所で、散歩道として最適な環境がある。そこは大山町の西側の境界線の位置で、その反対側は世田谷区北沢5丁目、渋谷区幡ヶ谷1丁目となっている。
 遊歩道の東側は住宅が建ち並び、道路を挟んだ西側は、補助26号線(笹塚から中野へ向かう道路)の拡幅工事が順次進んでいる場所で、標高は約40mの高い位置です。

     

大山町会館 1998            玉川上水緑道


 元々この場所は水路となっていて、この水路は「玉川上水」と呼ばれていた。この玉川上水は、徳川家康が幕府を開いてから50年後の承応2年(1653)、四代将軍・徳川家綱の時代に造られた。当時江戸では、湧き水や溜池や周囲の小さな河川の水を使っていたが、人が増え、町が広がるにつれて、水の量が足りなくなってきていた。その時代の技術では台地に多くの井戸を掘ることは難しく、また海に近いところでは塩分が混じってしまうため、身近なところで良質の水を確保することができなかったので、水量の豊かな多摩川から水を引くことになった。武蔵野台地に堀を造って人工の川をつくり、江戸の水不足を補うために、幕府は多摩川から水を引くことを計画した。設計を担当したのが松平伊豆守信綱の家臣安松金右衛門で、工事を担当したのが玉川兄弟として有名な清右衛門と庄右衛門です。多摩川上流の羽村から四谷大木戸まで約43キロメートルの水路を作る大工事は、承応2年(1953)に着工し、翌年に完成したといわれている。
 この水は、江戸に暮らす人々の飲み水や防火用水として、のちには流域各地の農業用水として活用された。地形をよく考え、谷などを横切ることなく江戸まで水を引いて来ることのできるルートが定められた。笹塚駅から幡ヶ谷駅を直線で結んだ甲州街道のルートは、途中に標高36.0mの窪地があるため、迂回路として大山町の横を通る蛇行したルートとなったようです。取水地点の羽村から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの約43kmは堀で、さらに先の江戸城と江戸の町へは、石や木でつくった水道管(石樋・木樋)が地面に埋められて配水された。堀の工事はおよそ8ヶ月という短期間で完成した。そのために、玉川上水沿いの村々はもとより、遠く檜原村からも人が集められたといわれている。飲み水だけでなく、防火用水としても必需品であった。

 明暦3年(1657)1月18日の昼過ぎ、本郷丸山町の本妙寺から発した火事は北西風にあおられ、延焼が広がり浅草まで達し、19日に鎮火した。19日の昼前、小石川の武家屋敷から出火、夕刻に麹町の町家から出火、20日の朝に鎮火した。この一連の火事で江戸の町の60%が罹災し、死者は10万人を超えたといわれている「明暦の大火」です。
(『図表でみる江戸・東京の世界』東京都江戸東京博物館編集) 
 江戸は17世紀末ごろ人口100万人に近づき,18世紀初頭から19世紀中ごろまでに120万人を超える都会に発展したが,たびたびの大火で市街が焼失し,火災都市と呼ばれるほどだった.江戸では7年に一度ずつ火事に会うといわれたが,下町の中心地域では誇張でなく,特に正徳年間(1711〜1715)から享保年間(1716〜1735)の初期にかけて大火が頻発した.江戸に火災が多発した理由は,まず「空っ風」と呼ばれる冬期の乾燥した風が吹くことと,正徳から享保のこの時期は江戸の市街が急激に膨張したため,消防力がそれに伴わなかったこと,燃えやすい家屋であったことなどをあげることができる.また浮浪者が増加して放火が多かったという社会的背景もあった.

 玉川上水は、300年以上も上水として親しまれてきた川だが、上水道の普及とともに、生活排水の経路として使われることが多くなり、昭和30年以降はゴミが捨てられたりして、子供の遊び場としては最適だった小川も、年々汚れていって、いわゆるドブ川状態であった。道路整備に伴い、この水路を渡る橋も整備され、大山町会館のすぐ横が北沢橋、続いて四條橋、五條橋、六條橋、常盤橋、相生橋の名称が残っている。となっているが、昭和53年(1978)にこの玉川上水が暗渠となり、緑道として整備されてからは、橋の欄干は残っているが、そこに橋があるような姿はしていない。昭和59年(1984)発行の大山町々誌には、山口諭助氏の描いた昭和11年の北沢橋と昭和26年の玉川上水の絵が巻頭に掲載されている。
 現在は散策路・旧玉川上水ルートとして緑の中をくつろぎながら散策ができる3.2kmの緑道となっていて、大山町会館の横から幡ヶ谷駅の近くを通り、初台駅と新宿駅の中間地点まで続き、その途中には水の流れる公園や噴水、木製の運道具が設置された区間もある。さらに大山町会館から西側は、笹塚駅の途中まで公園のような道が続き、笹塚駅付近では、水路の上部にふさぎがなく、水の流れを見ることができる。
 多摩川上流の羽村からつながっている玉川上水、都心を離れるとまだ自然に囲まれた美しい水の流れを見ることができ、保谷市の境橋付近は千川上水が玉川上水から分流される地点で、取水口周囲が公園になり、「史跡・玉川上水の碑」記念碑が建っている。
 東京の西の方に足を延ばして、散策してくるのも風情があるのではないでしょうか。

 

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