
『聾唖の四人兄弟』 大瀧 鞍馬
この物語は、『聾唖界28号』(大正12年7月9日)に掲載されたものです。物語の主人公の柿崎兄弟は実在していました。文中の名前は本名です。官立東京聾唖学校の同窓生名簿にも名前が残っています。美談として「お涙頂戴」ふうのところもありますが、それでも明治から大正にかけての聾唖者の生活状況を知る上で、この物語は参考になると思います。
以下掲載の文は、原文の旧漢字、旧仮名遣いを読みやすいように現代仮名遣いに直し、句読点など変更追加した部分はありますが、それ以外の用語などは原文のままです。
東京市本郷区蓬莱町に柿崎宏といって、はなはだ貧しい老夫婦がすんでいたが四人子供があるのにその三人までが聾唖であった。あわし、四人の子供はいずれも非常に親孝行者として、近隣の噂の種となっていたのであった。
ある年の十一月中頃のことであった。
「月はよい月だが、風邪が馬鹿に寒いや。」
「汗をかくほど急ごうぜ。」
「よしきたッ。」
海辺の方から二人の若い魚屋らしいのが、天秤棒のしなうほどの重い荷をかついで掛け声勇ましく、横浜街道を蒲田の町はずれまで急いで来た。
「おいッ、見な。あすこの石の上に人間が倒れているぜ、行き倒れじゃねえか。」
「おう、病人だろう、見てやれ。」
若者はすぐに荷を下ろして、街道から二、三間左へ折れた道祖神(どうそじん)の石祠(いしほこ)のある松の根もとへ駆けて行った。
「子供だな。」
「死んでいるんじゃねえようだな。寝ているのかな。」
「この寒いのに寝ているちゅうのも変だな、おやッ、かすかにいびきをかいてるぜ。」
「どれどれ…ははア、なるほど…、おいッ、小僧さん、小僧さん。」
「どうしたんだ、起きねえじゃねえか。おいッ、小僧さんッ、小僧さんッ。」
「妙だなア。こんなに耳もとで怒鳴っても聞こえねえたア…。」
「揺すってみようか…おいおい…。」
身体を揺すられると、すぐ驚いたように目を開いたのは柿崎の次男靖であった。
「どうしたのだ、具合でも悪いのか。」
若者はかわるがわるこう聞いた。
靖は二人の若者の顔を見くらべていたがあわてて、
「う、う、う、うむ。」
と妙なうなり声をだして、手まねで自分の唖であるというふことを知らせた。
「ああ唖者か、道理で…。」
と言った若者達は半ばおもしろ半分に変な身振り手振りをして、
「この寒さに、どうしてこんな吹きざらしの石の上なぞに寝ているのだ、身体の具合でも悪いのではないか。」ということを訊ねてみた。
靖がこうして石の上に倒れるように寝ていたのは、病気のためではなかった。空腹と疲労とに堪えきれなかったからであるのだ。彼は聾唖学校を卒業すると、すぐ親切な小西校長の紹介で、横浜の大道寺盃店に、徒弟として住み込んだ。そしてもっぱら輸出陶磁器の模様を描くことを稽古していた。生来絵心のあた靖は、聾唖学校でもそうとうにこの道の修行をしたのであったから、まもなく腕も上達してほとんど一人前の職人となりかかった時、主人は大酒が原因となって脳溢血をおこして頓死(とんし)したので、ついに閉店することにことになってしまった。もう六ヶ月ほどで三年の年期も明けるという時に主人に死なれたのであるから、靖は非常に落胆したのであったが、兄の宏平が同じ横浜の西川楽器店に働いているので、兄を頼って身の振り方を相談したが、兄とても聾唖の不具者であって年期中の身であるから、弟を養っていくほどの力はもちろんない。それで、いよいよ靖は横浜に見切りをつけて、東京の自宅へ帰ろうと決心したのであったが、今までもらっていたわずかばかりの小遣い銭はみな両親へ送って、自分は湯銭にも困るといった苦しい生活を続けていたのであるから、汽車に乗るだけの余裕はない。兄とても給金の全部を親もとは送って、着換えひとつないありさまであるので、弟の汽車賃を出してやることはできなかった。それで、靖は初めての道を飯も食わずに徒歩で東京に向かったのであったが、途中であまりの披露と空腹とに堪えかねて、ちょうど大きな石のあったのを幸い、その上に休んでいるうちに疲れ切っていることとて、寒さも忘れていつとはなしに寝込んでしまったのであった。
靖はこの大略を筆談で若者達に話すと初めは冗談半分に聞いていたが、段々にその哀れな物語につり込まれて、靖が筆談を終わった時には、
「ふうむ。」と言って、二人の若者は感に堪えぬようにため息をはいて、顔を見合わせた。
「どうだ、汽車賃をくれてやろうじゃねえか。東京の本郷までア、いまだ三里は十分あるからなア。」
「そうよ、かわいそうだ。二人で五貫もくれたようじゃねえか。」
若者達が、互いに出し合ったいくらかの貨幣を靖にくれようとした。
靖は手を振ってそれを断って、もう一休みしたので元気がでたから、これから歩いて帰ると筆談で話して、若者が無理に納めさせようとする手を振って、夜道を両親のもとへと急いだ。
靖が久しぶりで帰宅してから四、五日目のことであった。父の宏は平常の通り勤めに出ようと表の格子戸をあけると、にわかにめまいがして倒れた。宏は明治七、八年頃から二七、八年まで二十年近く砲兵工厰(ほうへいこうしょう)の守衛を勤めていたが、その後、書画骨董の店を出して失敗し、ついに露天商人とまで落魄(らくはく)したが、取る年と共に夜の稼ぎは難しくなってきたので、その頃は中央気象台の小使を努めていたのであった。
「どうなさったの!」
宏が倒れる物音を聞きつけて驚いて飛び出して来たのは宏の妻の房子であった。靖と末の妹の千代子もその時家にいたのであったが、聾唖の悲しさにはその音を聞きつけることができなんだ。四人の兄弟のうちで、唯一人満足な身体をもっている長妹の榮子は、その頃、村田という書家の家へ女中奉公に出ていて、家にはいなかった。
「うむ、どこかにちょっとつまずけたんだ。」
年は取っていても気丈な宏は、こう言って一人で立ち上がった。
「そうですか、怪我はしなかったの! どこか打ちアしませんでしたか…」
「いや、なんともない、大丈夫さ。」
宏は元気よくいって敷居をまたいで、二足ほど歩くとまた倒れた。
「あッ、また倒れたんですね。」
房子はあわてて裸足のまま飛び出した。靖と千代子も、母の姿が見えないので不審に思ってこの時出てきたので、それも喫驚(きっきょう)して父の傍らへ駆け寄った。
三人でようやく宏を抱き起こした。
「どうしたんだか…足がぐらつくもんだからな。」
それでも靖は元気らしく言って、淋しく笑った。いかに机上でももう六九歳になっているので、少し歩いても息苦しさを覚えるほどであったが、不具三人の子供達が一生懸命に稼いで親孝行をしているのを見ては、とても安閑(あんかん)として遊んでいる気にはなれなかった。
「大丈夫だ、遅れるといけないから出かけよう。」
房子と、靖と、千代子の親子三人で押さえている手を離させて、歩こうとしたが、またヨロヨロとよろめいて倒れそうにした。靖が飛びついてかろうじて抱きとめた。
「どこか悪いのですよ。今日はお休みなさい。」
房子は無理に宏を休むように勧めて宅へ入れようとしたが、そのtき宏はもう一人では一歩も運ぶことは出来なかった。軽い中気(ちゅうき)を起こしていたのだ。
それから三年というもの、宏は床に寝たきり身動きもすることはできなかった。左無きだに孝行者ぞろいの兄弟姉妹四人は、それからは、一段と一心不乱に気を揃えて稼いで、家計を立てると共に、父の看護、母の慰藉(いしゃ)に日もなお足らざるように見えた。
長男の宏平は、横浜にいては父の看護も思うにまかせぬところから、暇をもらって、東京根岸の小林ハーモニカ工場へ転じ、弟の靖は下谷の山越工作所へ勤めて人体解剖人形の彩色を担当し、千代子は家にあって炊事その他のいとまをぬすんでは、賃仕事に励み、兄弟の中で唯一不具でない榮子は女中奉公を続けて、給金を両親へ送るといったように、四人が四人とも脇目をふらずに稼いで、少しでも病父をやすませ、老母をいたわろうと努めるのであった。
そのうちに大正八年の夏が来た。
「婆さんや…」
長々患いでやせ細った宏は、子供達のいないのを見て、枕もとにいる妻の房子を見上げて、しみじみとこう呼びかけた。
「はい、何かご用ですか。お小用ですか。」
「いいや、そうじゃないよ…ワシは近頃つくづくと考えたのだがな。今までは私どもほど不幸の者はないとばかり思っていたがね…おまえだって島原藩の相当の家の娘、ワシも糸魚川藩じゃ槍一本の家の跡取りと生まれた者だのに、何をしても思うようにならず、門番や小使のような卑しい(いやしい)勤めを三〇年近くもして、暮らしに楽をしたことがない上に、前世にどんな罪を作っていたものか、四人の子供が三人までもこのとおりの不具。いっそ、おまえと相談づくで子供を殺して首でも縊(くび)ろうかと思ったことが何度あったか知れなかった。それでも子供が揃って孝行なので、 ツイそれに引かされて七〇の坂を越す今日まで、こうして生きてきたものの、今になって考えれば、どうしてこんな孝行者を殺そうなんて恐ろしい考えを起こしたかと、自分ながら自分の馬鹿に愛想が尽き果てるのさ…」
「そりゃ、お爺さんばかりじゃありませんよ。私だって何度死にたいと思った事があるか知れやしません。でも、私が死んだら、不具の子供がどんなに苦労をするだろうと思って、そればかりに心をひかれて、今日までこうして来たんですが、それでも爺さん、よく考えてみれば、私どもは不幸せではないのでしょうよ。あの通り親孝行者を四人も子供に持って、それでも不幸せなぞとは言われた義理じゃないと思いますよ。そんな考えを起こせば神様にも仏にも、愛想津歌詞をされると、まア今じゃ考えているんですよ…」
「そうだ、そこだ。ワシの今言いたいのも、そこん所さ。人間と生まれて、孝行な子供をもったほどの幸福は、決して他にはあるまいと、私はこの頃しみじみ思っているのだ。」
「そうですともさ…」
「ところでね、ワシのこれからの仕事は、ただ死ぬことばかりだ。それについてワシの願いは、あの口もきけず、耳も聞こえない子供達にワシの息の引き取る所を見せたくない…見せて悲しませたくない…悲しくなって切なくなって、それを一言も言われない子供達に、臨終の苦しみを見せたくないということだ…」
「そんな縁起でもないことを…」
房子はこう言いながらも、涙をソッと拭った。
「いやいや、もう明日にも難しいワシのことだ。今さら縁起をかついだって仕方ないさ。一日も早く行く所へ往って、子供達に、せめて口だけでもきかせておもらい申せるように、如来様にお願いしたいのだ。」
宏もさすがに両眼に涙を一杯にしていた。
「あわし、なア婆さんや。ワシはいつ死んでももう少しも不足はない。おまえにはこんなに親切にしてもらっているし、子供達には孝行をしてもらっているし…ただ欲を言えば、おまえや子供に苦労甲斐のあるような日を、一日でもさせたいのだが、それはもう思っても追いつかぬ願いだ。働きのない夫なり、親父なりを持った因果と、おまえにも子供にもあきらめてもらうより他に仕方はない…ああ、ワシほど幸せな者はない、ああ、ワシほど…」
こう興奮したように言い続けた宏は、この時にわかに、目をふさいだと思ったら、もうこときれていた。
その死に顔は、いかにも屈託がないようなおだやかさを現していた。こうして宏は臨終にまで不具の子供に悲しい目を見せまいと願った。その最後の願いまでもかなわされた。あるいは宏ほどの幸福は本当にないのかもしれない。
* * * * * * * * *
父に死なれてからの靖は、わけて優しい質だけあって、一時に元気を失ってしまったように見えた。それでも一人の母親に心配させまいと、しいて元気を装って山越工作所へ出るのを怠らずにいた。
靖は大正十一年の二月頃から時々足が痛むと言っていた。一時はだいぶ苦しそうであったが、少しでも痛みが軽くなるとすぐ勤めに出るのであった。そうしているうちに段々と痛みは上の方へ昇って来て、七月二十四、五日からは熱さえ大分強くなって、床へ横になったきりで苦しみ通していた。それでも、母が側にいれば決して苦しいような顔もせず、うなり声などももちろん出さなかった。
八月八日のあさになると、どうしたのか大変気分が良くなったと筆談で、母や兄弟を安心させて、自分もその安心した顔を見ていかにも嬉しそうであった。そして一杯のうどんをほとんど平らげて、
「もうこの分では心配はない。兄さんも勤めに出てくれ、母さんも次の間で一休みしてください…」
と、やはり筆談して見せた。
兄の宏平も、弟のこの元気にようやくホッと愁眉(しゅうび)を開いて、久々ぶりとハーモニカ工場へ出かけ、母は靖の言うとおり何日もの看病疲れを休めよう、次の間…といっても玄関兼帯(けんたい)の四畳半…へ行って仮寝をいていた。靖の枕元には末の妹の千代子だけが居残っていたのであった。
靖は千代子の顔をしみじみと見つめて、平手で自分の鼻を横なでし、次いで腕を枕にするふうをし、最後に左手首を叩いて見せた。そしてハラハラと落涙(らくるい)した。鼻をなでるのはもう駄目だということ、腕を枕の形にするのは死ぬということ、手首を叩くのは頼むと言うことである。これは聾唖学校で教えられたる、表情で現す彼等の言語であって、千代子も聾唖学校の卒業生であるので、その意味を識り得たのであった。すなわち自分はもう助からぬから、後のことをよろしく頼むと、口の利けない靖が、同じ不具な妹の千代に遺言をしたのであった。
千代子も涙を流して兄の手を自分の頬に当てて泣いた。二人は泣けるだけ泣いたが、そのうちに靖は千代子に頼んで自分の行李(こうり)を持ってきてもらって、その内にある品を全部他の三人の兄弟へ分けるように区別した。そして、もし自分が死んだら聾唖学校へ遺族よりとして三十圓寄附してくれるように千代子へ頼んだ。靖はもうその頃にはかなりの貯金を持っていたのであった。
次の日より靖の病勢は非常に悪くなってきた。もういよいよ臨終であろうと思われる時に、靖は手まねで鉛筆と紙とを求めた。千代子がそれを手に持たせてやると、
「お父さんが、三年も患っていなさっても、その間に薬をどうしてもお飲みにならなかったのは、私ども不具の稼いだ金を減らすのが気の毒であると、お考えになったのではないでしょうか。お医者の薬をお飲みになったら、もっと長生きをなさったのではないでしょうか。それがどうも気がかりです。」
こう震える手で書いて見せた。実際父の宏は、中気に効く薬はないと言って、いかに勧めても決して薬を服用しなかったのであった。まさに死なんとしている靖はその死に臨んでも、なお死んだ父の事を思い煩っているのであった。
もう目を開いているのさえ苦しげに見えた時、震える片手を母の方へ差し出した。母はそれを堅く握った。次いで片手を兄の方へ出した。宏平も、榮子も千代子も、三人一緒にその手に取りすがった。
靖は利けない口を堅く結んで、また母の顔を見ようとしたが、その時はもう眼を開けることができなかた。かくて親孝行な靖は、衰弱と脊髄病とで、母や兄弟に手を握られたまま、三十余年のhそうが胃を人の世界の音も聞かず、人の声をも出すことができずに、父の後を追ってしまった。
今もなお東京市本郷区蓬莱町二十八番地には、母の房子一人を残った宏平と榮子と、千代子との三人の兄弟が衣装賢明に慰めいたわって一家睦まじく暮らしている。そして宏平のめとった妻のぎん子も、この兄弟に劣らぬ親孝行者であるということである。
靖は今頃ちょうど、来世…もしあるなれば…来世で父子めぐり会って、父も自分もこの世にある時に願いに願った唯一最大の望みが叶って口を利いては父を喜ばしているかもしれない。

横江 榮雄(東京聾唖学校教師、自身東京聾唖学校の卒業生)
柿崎宏平君は世にまれなる親孝行にて令弟靖君は夭折(ようせつ)し、今は令姉榮子、令妹千代子の姉妹と三人です。いずれも温厚、友義に厚く、その母校職員卒業生一同の三時を受けている人は同君を除いて他にないくらいです。
宏平君は東京聾唖学校卒業後まもなく横浜の西川風琴製造所に雇われ、毎日精勤しておられたが、後、日暮里の小林ハーモニカ製作所に転勤し日夜忠実に精励(せいれい)し、他の二三所よりの招聘(しょうへい)を受けたが断りて、労務を厭わず、家族のために尽力しておられます。
亡令弟靖君は二十三年三月、十五歳の時、東聾校を卒業して有名なる陶画師宮川香山の門にと志したが聾唖のため許されぬので、吉川金三君の親戚に当たる田中陶画焼のもとに奉公中、横浜大火のため解雇、西川楽器製造所塗工部に勤めたが、三、四年後大道寺先生の門に入ったがまもなく師匠が突然死去のため閉店のやむなきに至り解雇、帰京するにも旅費なく、やむを得ず横浜から徒歩で帰る途中、疲労を極め路傍(ろぼう)に睡眠中、通行人に起こされ、同情者の人力で帰京し、京橋八丁堀の陸軍御用賞盃製造師佐久間商店彩色部に入り勉強したが、靖君一人を階下の店に残し主人は二階で大勢の人と賭博(とばく)をなし、また大酒を飲み、家業を励まず、靖君は不愉快と不安の中に、警官が賭博犯の主人を収監(しゅうかん)したので、閉店したれば、大いに落胆し、小西先生に就職の世話を懇願して山越紙塑製作所に入りて先輩鈴木千太郎君と共に紙塑の彩色に従事し、山越老主人は靖君の勤勉と正直とを大いに称揚(しょうよう)大悦しておられたが、昨年二月脊髄炎に罹り(かかり)、八月九日三十八歳を一期(いちご)として永眠せられた。
私は東聾校入学当時より宏平君と学友にて互いに親しく交際していたが、同君は品行方正(ひんこうほうせい)にして学芸優等、模範生として、同輩はいずれも推服(すいふく)しておった。同君のご両親は兄弟姉妹四人とも聾唖であることを非常に悲嘆されたが、あふるる親の愛によりていずれも成長し、それぞれ立派になり実業に従事して、厳寒酷暑(げんかんこくしょ)の日も休まず精励無比(せいれいむひ)、その収入をもって両親や家族を扶養し、一方、主人の信用は篤く(あつく)、聞く人、会う人激賞して、崇敬(すうけい)を受けておられた。
父君は、小西校長にたびたび宏平君兄弟姉妹の親孝行につき、涙を流して悦び述べられるのが常で、小西校長もまたいつも感涙せらるるのであった。
宏平君兄弟の孝行は言い伝えられて、都下の諸新聞雑誌に掲載され「聾唖の親孝行者」として悲話かつ美談として広く伝えられた。ことに昨十一年十一月発行の「現代」は、極めて詳細に同君孝行美談を紹介し写真まで挿入したが、帝國キネマ株式会社の伊村義雄氏は右記事を見るや、直ちに柿崎君を訪問し、一家の様子をフィルムに収め悲劇「孝子美談聾唖の四人兄弟」全三巻を浅草講演大東京座で封切りしたのであった。
柿崎君の自宅は本郷区蓬莱町二八であるが、蓬莱町の有志者は柿崎君を表彰せられた。
宏平君は先年東聾校卒業の小宮山嬢を迎えられたが、夫婦仲睦まじく、妻君(さいくん)もまた親孝行で、毎日仕立物をして家計を助けておられる。父君宏さんは長らく病床にあり、老母、兄弟姉妹日夜看病せられたが不幸にも三年前逝去せられた。
私は第二、第三、第四の柿崎君の出現を望みてやみません。