★まだ、完成版ではありません。時々手を入れたり、少しずつ加筆をしています。
自らの生い立ちについて講演して欲しいと今まで何度か依頼された。そのたびに僕は断ってきた。自分史をひとに語るのはあまり好きではない。ところが、ある集会の後の常で居酒屋へ流れ、その手話放談の中のふとしたことで、自身の幼年時代の回想を語ったことがある。これを見た人から是非書いてみればと言われたので、書いてみようかという気になったのである。
幼い頃、聾であるわが目に外界がどのように映り、また外界からどのような刺激を受けて、どのように心が動いていったのか、記憶の糸を辿りながら書いてみたい。
僕は聾の身として生まれた。3〜4歳くらいまでの記憶は暗黒の中にある。外界からの音の刺激が入らなかったためであろうか。この暗闇が突然明るい光の中に抜け出たのは、自分という存在をはじめて意識した、その時であったように思う。
我が家の前の路上で、近所に住む僕と同年代の少女が三輪車を乗り回している。僕はそれを突っ立って眺めていた。と、その少女がおもむろにこちらに顔を向け、口をパクパク動かし始めた。「口を動かせばいいのか」と思った僕は、真似して口をパクパクしてみた。ところが、少女は怪訝な顔をして僕から離れていった。
周囲の人々はみな口をパクパク動かして、何やら高いに通じ合っているふうなのに、僕が口をパクパクやっても誰もつきあってくれない。そのことが僕の幼い心を傷つけていたのだろう。この時の出来事は昨日のように鮮明に覚えている。
僕の父には、幼なじみの中に聾の少女がいたそうだ。その娘は手話法時代の東京聾唖学校に通っていたという。しかも、僕の祖父はその娘の父親と大変親しく往き来をする仲だったそうだ。その方は町内会長をされていて、僕の祖父は副会長だった。僕が祖父に連れられてこの方の家に遊びに行くと、このりっぱな口ひげをたくわえたおじさんはいつも僕のことを大変可愛がってくれた。彼は必ずいつも身振りで僕に話しかけた。「ほら、おまんじゅうだよ。おいしいから、お食べ」といったたわいのないものであったが、僕からすれば、それは自分自身の家族とよりもよく通じ合えると感じられた。しかし、当時僕はその方の娘が僕と同じ聾者であるということを知らなかった。この話には後日談がある。話は少し先にとんでしまうがここで記しておこう。
僕が東京教育大学付属聾学校に着任したばかりで、はじめてのPTA集会のときのことだった。
集会が終わり解散になった後、一人の女性が僕に話しかけてきた。
「先生、私も聾者です。息子がこの学校の生徒ですので今後ともよろしくお願いします。
ところで、先生のお父上の名前はこういう名前ではないですか?」と手のひらに書いてみせるのである。
それは確かに僕の父の名前だった。
いったいこの女性は何故僕の父の名を知っているのだろうかと僕がいぶかしんでいると、
「実は私の父は長田といいます」と彼女は「長田」という手話に、さらに付け加えて、鼻の下の左右に伸びる長いひげと表した。 「ああ、そうだったのか。」
この女性こそ、僕の父の幼なじみであり、また祖父の友人で僕を可愛がってくれたあの口髭のおじさんの娘だったのだ。その息子さんを僕が教えるとは。人の縁とは不思議なものである。その息子さんこそ現在、筑波大学付属聾学校の同窓会会長をされているMさんなのである。
さて、話を戻して、僕の幼少の頃の思い出を少しここで語ろう。
僕の祖父は大阪生まれで、若い自分から落語や浄瑠璃などの嗜みがあり、ときには両国あたりの寄席の舞台に自ら座って客を楽しませることもあった。
祖父に手を引かれて寄席に通い、楽屋に祖父と一緒に出入れしては、どさまわりの役者たちが顔にドーランを塗りたくり、衣装をつける様子に見入ったり、また舞台裏から舞台に繰り広げられる演芸を覗き見たりしていた。
祖父が浄瑠璃を演じているときは、何がなんだかさっぱりわからず僕にはつまらなかったが、観客を見ると拍手喝采して喜んでいた。
僕が一番楽しみにしていたのは曲芸だった。数え歳で4つから6つほどのときのことである。舞台裏から眺めていると、現世とはまるで別の世界い入り込んでしまったような錯覚を覚えたものだ。
一方、祖母は、僕が東京聾唖学校の予科(今でいう幼稚部。「予科」の手話は現在の「文化」という手話と同じ形で表していた)に入るまでの数年間、しばしば僕をお祓いや祈祷へと連れて歩いた。呪術や呪文と言った怪しげな事をしていたのであろう。天狗の面をかぶった祈祷師が現れたときには、泣き叫んだのを覚えている。また、お寺さんへ参れば、必ず、モクモク焚かれた線香の煙を手で扇いでは僕の耳の所にもっていったものである。現在この話を聾の仲間達にすると、手を打って笑い転げるのである。みんな似たような経験をしているのである。今の時代なら病院通いといったところなのだろう。
祖母はまた、僕が幼児の頃からから10歳くらいになるまでの間、伊豆、伊東、熱海などの温泉宿にしばしば僕を連れて行湯治に行った。僕は6人兄弟の長男であったが、連れて行くのはいつも僕一人だけであった。僕が耳が聞こえないのを不憫に思っていたのだろう。
このような折りには、周囲の山林を駆けめぐり、温泉街の裏道を闊歩したりして過ごした。未知の世界を探るというのは実に心躍ることであった。
祖母は人なつこい質で、隣室の湯治客を僕たちの部屋に招じては歓談に興じるといった具合だった。その間、僕は隣室の客の連れてきた少女と一緒に海や川に遊びに行ったり、林で採集した昆虫やキノコを調べたり、ノートに筆談で語り合ったり…。祖母を通して、見知らぬ人との付き合い方も覚えた。
東京に居るときも、祖母は僕を大倉集古館などの美術館や映画を観に連れて行ってくれた。
祖父と父は刷毛(ブラシ)の商店を経営していた。店で働いていた番頭さんたちも皆、僕には身振りで話しかけてくれた。
僕はうちの番頭さん達と身振り手振りを用いてかなり内容のある会話を楽しんでいたのである。たとえばこんなふうに…。
僕は毎朝配達される新聞を見るのが好きだった。まだ文字は読めないからお目当ては写真である。
僕はある朝掲載された一葉の写真を見てひどく衝撃を受けた。それは巨大なドイツの飛行船ヒンデンブルグ号の爆発の瞬間をとらえた写真だった。
その写真を指さしながら、番頭さんの一人が、両手で飛行船の形をつくって、それが飛行するふうを模し、そして、突然、爆発、墜落する様子を身振り手振りで私に話した。
「どこで落ちたの?」と身振りで尋ねると、番頭さんは世界地図を取り出してきて、赤く塗られたところを指さし「ここが僕たち」、そして「これが落ちたところはここ」と地図のある場所を指さした。それから、今度は別の本を取り出してきてページを繰って、摩天楼のそびえる写真を見せてくれた。そこはアメリカのニューヨークであった。
こうして僕は、手振り身振りで会話をすることができるという体験を積み重ねていった。
けれども、僕は、自分自身が「他の人たちとは違う」「聾者」であるとはまだ気づかないでいた。
それをはじめて意識したのは、小石川の指ヶ谷(現、文京区)にあった東京聾唖学校に入学して、そこで出会った子ども達が僕と同じ状態にあるということを目の当たりにしたときからだった。彼らも僕と同じだった。周りの人たちが口をパクパクしているのに合わせて通じ合うことができないのだった。そのとき、僕は、僕と彼らとは同じで、そして他の人たちと僕たちが違うのだということに気づいたのである。東京聾唖学校で僕は自分と同じ仲間たちの存在を発見した。東京聾唖学校予科名簿を見る

文京区小石川植物園の隣、現在の裁判所書記官研修所になっていることろに僕たちの東京聾唖学校はあった。
予科から初等部1年に進んだ僕は、初めての全校生徒合同の朝礼の列に並んだ。初等部、中等部、研究科の生徒達が全員一緒に朝礼を行うのである。
朝礼は8時30分から始まる。予科の幼い聾児たちは、毎朝9時頃、母親達に手を引かれて学校へやてくる。そして正午までに予科のクラスは終了する。そのため、僕は予科にいる頃は、同じ敷地内にたくさんの聾の上級生達がいることに気が付いていなかった。
さて、列に並び、自分たちよりも大きな生徒達の列を横目で見やると、知っている顔がいくつもある。彼らは私が予科2年に上がったときに突然消えていなくなってしまった者たちだ。「どこへ行ったのだろう?」と幼いなりにいぶかしく思っていたその彼ら、1年上級の生徒達の顔がそこにあった。「そうか初等部に上がっていたのか」と合点がいった。
僕ら初等部の生徒同士は全員予科から上がって来ていたので互いに知っていた。ところが、朝礼が始まった頃、少し遅れて一人の少年がやって来て、僕らが並んでいる列の後ろについた。僕らが「まえへならえ」をしながら間隔をあけて立っているのよりもさらに距離をあけて、離れて、その少年は僕らの後ろに立っていた。
「おい、あいつ、誰だい? 初めて見るな」
「ああ、あいつね。知ってるよ。こんなふうにおかしな手まねをする奴だよ」
「ふ〜ん」
朝礼が終わり、僕らが初等部の教室に戻ってみると、その少年はいなくなっていた。いったい彼はどこへ消えたのだろう?何故、朝礼のときに僕らの列の後ろに並んでいたのだろう…。
朝礼はというと、僕らは校長の口パクパクを眺めているだけだった。生徒が整列している前には、ずらりと教師達が並んでいる。どの顔もいかめしく堂々としていた。
ふと、ある教師が手元をわずかにうごかしながら、目と表情で別の教師に何かを合図しているのに気づいた。髭をたくわえ、りっぱな身なりをしたその教師の様子を僕は食い入るように見つめた。
「おい、あれ、見ろよ。手まね、やっているみたいだけど、あの先生は手まねをするのか?」
「ああ、あの先生は聾唖だよ。聾唖…」
僕は初めて大人の聾唖者を見た。他の居並ぶ耳あきの教師達と比べても勝るとも劣らない、立派で威厳のある風貌と物腰をしている。そうか、あの人は僕と同じ聾唖の大人なのだ。僕と同じ聾唖の教師がいたのだ!
僕は聾学校に入る前に、身振りでコミュニケーションをすることを覚えていた。しかし、学校内では口話法による教育が行われ身振りを使うことも禁じられ、僕はこれに対して抵抗の思いを抱くようになっていた。
学校へ行けば、口をパクパクばかりやらされて退屈でたまらなかった。口話の時間が始まるのを察すると、教師の目を盗んでは教室を抜け出し校庭のブランコで遊んだりしていた。
同級生達との会話は、初めの頃、ほとんど口だけでパクパクやっていたが、これは家庭で身振りなどを多用したコミュニケーションに慣れていた僕には、とても味気ないモノだった。教室で教えられた言葉の範囲の会話しかできないということが、不満の一因だったかもしれない。口で話すように厳しくしつけられた同級生のほとんどは、教師に言われたとおりに口パクで話をしていたが、あるときこんなことがあった。
学校が終わって、同級生達と一緒に帰宅する途中、電信柱に貼られたエノケン、ロッパの映画ポスターを見た一人が、ロッパの顔を真似る身振りをした。これには一同大爆笑。
ああ、これこそ僕たちが自由にのびのびと会話ができる手段なのだ。
こうしたことなどから、僕たちは教師の目を盗んでは身振り手振りを用いた会話をするようになっていった。教師に見つかっては大目玉を食らう。僕たちがのびのびと語り合える時間は限られていた。登校前、休憩時間、昼休み、放課後と教師の目のないところで僕たちは自分たちなりの手振り身振りで会話をした。ここに手話の萌芽が生まれていた。
近所の子どもたちが近くの尋常小学校に通っているのに、僕はみんなと逆方向へ歩いて行かねばならなかった。通学時に大勢の子ども達とすれ違う。「どこの学校の奴だ?」とばかりにジロジロ観られるのが嫌だった。自分だけが普通ではないのだと感じさせられた。
そんなだったから、僕は近所の子ども達となかなか親しくなれないでいた。僕の耳が聞こえないと知っている子ども達の中には笑いかけてくれることもあったが。
ただ、僕は工作が得意だった。模型飛行機や潜水艦などを作る同好の仲間との付き合いが生まれることもあった。

僕は汽車が好きだ。伊藤政雄という僕のサインネームは、東京聾唖学校初等部のときに汽車好きの僕のことを指して言い始めたのがきっかけである。錦糸町の操車場が家の近くにあったので、僕は汽車を見にこの操車場へ通ったものである。その操車場の隅に高くたっている起重機に僕は惚れ込んでしまった。まず、それをスケッチしてから、模型飛行機の角材を買い集めて、高さ1メートルほどの起重機を作った。このことが、あっという間に町内中のうわさになった。数日すると、近所の子ども達4〜5人が僕の所にやってきた。「近くの大きな用水槽に模型の潜水艦が沈んだままなんだ。起重機を貸してくれ」というのだった。こんなふうなことで近所の子ども達とつきあうきっかけができた。
僕はずっと朝礼のときに僕らの後ろに並ぶ少年たちが気になっていた。僕らの列の後ろについたあの少年達はどこの子たちなんだろう。どこにいるのだろう。それにあの聾唖の先生はどこで教えているのだろう…。
ある日の体操の時間はマラソンだった。校庭をみんな一斉に走る。僕はふと思いついて、ランニングをしながらこっそりとコースをはずれ、中等部の校舎の裏に走っていった。中等部の校舎の裏に隠れるようにしてその小さな校舎は建っていた。僕は窓のところまで走り寄り、背伸びをして窓の中を覗いた。
あっ、あの聾唖の先生がいる! おや、手まねを使っているぞ…。
あ、あの少年もいる。こんなところにいたのか。
その教室にはわずか4〜5人の生徒しかいなかった。黒板は縦横に線が引かれて4つに仕切られていた。それぞれ1年、2年、5年、6年というように書かれている。聾唖の先生は手まねを使い、黒板に文字を書き、それぞれの生徒に教えていた。
当時の東京聾唖学校は厳格な口話法を採用していた。予科の頃からずっと口話の訓練が行われ、僕らが手まねをしているのを教師が見つけると、容赦なく鉄拳がとんだ。それでも僕らは教師の目を盗んでは手まねをしていた。いつ教師が現れるかとびくびくしながらも、やはり僕らは手まねで話をするのだった。
僕らは手まねを禁止されているのに、ここでは先生が、聾唖の先生が手まねを使っているではないか。それに、あの少年も他の子どもも、気のせいかゆったりと勉強している。僕らの教室のぴりぴりした雰囲気とは全く違う。僕はうらやましくなった。
僕が覗いたこの校庭の片隅の小さな教室は、両親が聾唖者である聾唖児童だけを集めた腹式学級だったのである。この当時の東京聾唖学校では手まねによる授業はこの教室だけになっていた。この少年は現在東京のろうあ運動の中で役員をしているS君である。
僕らが手まねをしているのを教師が見つけると「こら! そんな手まねをしている奴は、あの阿呆学級に入れてしまうぞ」と必ず脅すのだった。「いやで〜す。阿呆学級に入れるのは勘弁してください」と生徒達は応えたものである。口話教育はこうして僕ら聾唖者同士を分断しながら行われていたのだ。
その教師は言った。「手まねをしていて、口で話をしないと、早死にします。」
えっ、おかしいな。あの聾唖の先生達は年をとっているじゃないか。
「声を出さないとね、息をスーハーしなくなって、息ができなくなって、死んでしまうんですよ」
「あの先生、声、ある?」僕は聾唖者の先生たちを指さして言った。
「ああ、あれはね、声がありません。声がありませんから、早死にしますよ。」
僕は激しい衝撃を受けた。
聾唖の教師の一人は高木周二先生といった。
高木先生を見かけたある日、僕は思い切って先生に近づいて言った。
「声、ある?」
高木先生はやさしくほほえんで、僕の手を握り、先生ののどのところへ僕の手をあてさせた。
先生ののどはブルブルと震えた。
あっ、声だ! 声がちゃんとあるじゃないか!
あの先生は僕に嘘をついていたんだ。僕はくやしかった。聾唖の先生を馬鹿にしているんだ。
僕はあの時のことを一生忘れない。今でもあの時の光景を鮮明に覚えている。
その後、僕は、同じく聾唖の三浦浩先生を見かけたときにも同じことを繰り返した。
三浦先生にも声はあった。
あの健聴の教師は僕らに嘘をついている。手まねをすると早死にするなんて真っ赤な嘘だ。
僕は毎朝、小石川まで市電(今で言う都電)に乗って通学していた。
途中、僕らの聾唖学校の生徒が一人二人と乗り込んでくる。そうした朝の市電友達といるときも、僕らは手まねでしゃべりながら学校へ向かうのだった。
ふと見ると、手まねをしている生徒達がいる。聾唖者らしい。でも制服が違うぞ。
「おい、手まねをしている奴がいるよ」
「しっ! ダメダメ。あいつらは不良だから。見ちゃだめだよ」
「でも、あいつらも聾唖だよ」
「(大)(口)の奴らだよ。先生が(大)(口)の奴らは阿呆だからつきあっちゃいけないって。」
「ふ〜ん、そうなの?」
通学に使っていた市電で大塚聾学校の生徒達に出会うまで、僕は自分の通っている東京聾唖学校だけが唯一の聾学校だと思いこんでいた。ところが、唯一どころか、他に品川聾、日本聾話という学校もあることを知るに及んで、僕らと同じ聾唖者が他にもたくさん存在するらしいということが分かってきた。他の学校にいる聾唖者たちはいったいどんなふうなのだろう? 会って話がしてみたい。
ところがどうしたわけか、当時の東京聾唖学校の教師ばかりか、学校の先輩達までもが、他の聾学校の生徒たちと交際することを好ましく思っていなかった。市電の中で大塚聾の生徒達と一緒になっても、先輩の目が光っていないときでないと話しかけることができなかった。
あるとき、たまたま僕が一人で市電に乗っていると、向こうで僕らの学校ではない生徒達が手まねで話をしているのを見つけた。僕は思いきって彼らのところに近寄り「君たち、聾唖者?」と尋ねてみた。すると彼らは手まねで、
「おまえのこと知っているよ。いつもこの市電で見かけているからな。おまえ(県)だろ。オレたちは(大)(口)だ。」
「へえ、僕は(県)っていうんだ?」
現在(県)という意味で表されるこの手話は、元来「国の」とか「政府の」という意味がある。つまり東京聾唖学校は「官立(国立)」だったので、このような手話で表していたのだった。(大)(口)とは大塚聾学校のことだった。(大)は大塚の「大」、(口)は、大塚聾学校の校章の柏葉の上に口の形の紋章を表していた。これは口話のことを意味するのだという。
「君たち、家、どこ?」
彼らの家はなんと僕の家のすぐ近くだった。そこで僕らはすっかり意気投合して、学校が終わった後、僕らは約束しあっていつも一緒に遊んだ。彼らの家に遊びに行くと、彼らの親たちは僕達が手まねを使うのを喜ばなかった。親がいる前では神妙に手を動かさずにいた。だから何とも息苦しい。けれども、僕の母は、僕らが手まねをしていていも決して咎めたりはしなかった。それでいつも聾唖の友達は僕の家に来て遊ぶようになった。母はいつもニコニコほほえんで僕らにおやつをくれたりした。僕らが手まねを使っているのを知っていても、僕の母は決して叱ることがないのを見て、友達は「うらやましい、うらやましい」を連発していた。
大塚聾の生徒達と話してみると、僕らが使っている手まねと彼らが使っている手まねとが異なっていた。例えば「明治」という手まねは、僕らは(地名の水戸)という手まねを使っているが、大塚聾では(人差し指と中指の2本指の腹で頬の辺りを上から下へなぞる)の手話を使っていた。手まねは聾学校ごとに少しずつ異なっている。僕らが使っていた手まねは、僕らの学校の先輩達が使っている手まねを受け継いだものだった。
純粋口話法で教育を受けていたにも関わらず、一体どうして年長の生徒からから年少の児童まで同じ手まねを使うようになるのか、聾学校の経験のない諸氏には不可思議に思うかもしれない。
初等部の生徒達の手まね習得に一番大きな影響を与えたのは寄宿舎にいる同級生達だった。学校内では手まねが厳禁であったが、寄宿舎は教師達の盲点だった。寄宿舎の舎監は一人だけだったし、寮務担当(現在で言う寮母)は二、三人いたが、学校教育とは異なる立場にあったので、生徒達には甘い。それで寄宿舎において生徒達は学校内よりも自由に手まねをすることができた。また、教室とは異なり、年長者も初等部の児童も皆一緒の共同生活であるから、初等部の生徒達は寮でどんどん手まねを吸収する。こうして彼ら寄宿生たちよって教室に持ち込まれた手まねを見て、僕らは自然に先輩達と同じ手まねを覚えていったのだった。この頃には、もう身振り、手振りというよりは「手話」という一つの体系的な言語として習得が行われていたのだと思う。
手話学級(両親聾の聾児童のみが集められたクラス)の生徒達や聾の教師達が使う手まねは、学校の約95%の口話学級の生徒達が使う手まねと趣を異にしていた。両親聾の子ども達は、当然ながら両親の使う手まねを習得してきている。その家庭独自の手まねもあったことだろう。手話学級と口話学級が厳格に隔てられていたために、学校の中で互いに交流することもほとんどなかったために、手まねも異なるものとなったのだろう。
手話学級にいたS君の姉にあたるM子が初等部2年生ぐらいだったろうか、僕が4、5年生ぐらいの時だったと思う。通学途中、僕はよくM子と一緒になった。彼女は朝会うといつもきちんと挨拶をする。たぶんご両親のしつけがよく行き届いていたのだと思う。いつも明るく無邪気に僕にしゃべりかけてくる。小さな手でおしゃべりする姿は本当に可愛らしかった。しかし、学校の子どもたちのほとんどは口話教育を受けており、教師達の目が光っていたので、手まねで話す手話学級の子ども達と積極的に交わろうとする者はいなかった。僕にとっては、手まねで話すことは自然なことだったから、M子が手まねで話しかけてくれば、それに手まねで応じていた。そんなだから彼女はいつも僕に話しかけてきていた。僕は小さな反抗者だった。しかし、他の子どもたちも心中では、手まねで話すことが許されている彼ら彼女らに対して複雑な思いを抱いていたのだと思う。
蘆溝橋(ろこうきょう)事件(昭和12年)から中国大陸での戦争が拡大し、第二次世界大戦が始まっていた。学校内でも次第に軍事的色彩が色濃くなってきた時代。空中戦で日本機が中国機を撃墜した様子を模して、口話機が手話機を撃ち落とすというイラストの入ったポスターが、学校の廊下に掲げられていた。このポスターは聾の子どもたちに強烈な印象を与えていた。