3人の聾兄妹とその母親の無理心中事件 

 薄暗い廊下の向こうから、白くぼーっと光る少女の姿が近づいてくる。透き通るような肌に切れ長の目。おかっぱの紙が揺れている。僕は目を伏せるようにして少女とすれ違い、その後ろ姿を目で追おうと振り向いた。と、彼女は、淡い白い炎を上げてかき消えてしまった。少女はどこへ消えたのか…。

 昭和17年4月18日の授業中、突然、先生の顔が青ざめたかと思うと、何か僕らに向かって口をパクパク始めた。「ウー、ウー」? 初めて見る口の形だ。何だろう? ポカンとしている僕らに向かって、なおも先生はいきり立ちながら「ウー、ウー」を繰り返し、教室の出口を指して手を振るので、「外へ出ろ」という意味だと了解した。
 先生に導かれ僕らは体育館へ向かった。何だろう? 訓練をしているのだろうか?
 体育館へ行ってしばらくしてから、ようやく「ウー、ウー」が「空襲」のことだと知った。
 この日は、太平洋戦争が始まってから、報道では連戦連勝と報道されていたはずの日本の本土が、アメリカによって初めて空襲された日であった。この時は、学校から遠いところに落ちたので、僕らはその煙を遠くから見ただけだったが…。

 その約1週間後の4月27日の月曜日の朝のことである。僕が教室へ着くと何やらいつもと様子が違う。
 「大変だ! 隣のクラスのあの娘が死んだぞ! 兄さんも姉さんもだ! お母さんに殺されたらしい…」
 信じられない…、そんな…、馬鹿な…。
 その娘は僕と同じ11歳だった。1年早く僕より学校へ入学していたので、学年はひとつ上だったが、僕らは隣同士のクラスだったから、顔はよく知っていた。その娘の15歳の姉と17歳の兄も聾唖者で、みな僕らの東京聾唖学校へ通っていた。3人の父方は某子爵家の三男で、母親も華族女学校卒業であったそうだ。
 僕らの学校には、兄弟とも聾唖者というケースが少なからずあった。こうした兄弟たちはより一層不安をかきたてられたようだった。「僕らも、かあさんから、殺されてしまうのだろうか…」
 学校の教師達はこの事件のことを生徒達には一切黙して語らなかった。けれども、僕らは、ひんやりとしのびよるような得体のしれない不安を感ぜずにはおれなかった。

 この兄Hと同じクラスで親友であった僕の先輩Iは、この事件の日について、次のように言う。
 4月26日の日曜日、Iは、水道橋の講道館の前でHと会う約束をしていた。ところが約束の時間になっても、待てども待てども、Hは来ない。「きっと、何か急用でもできたのだろう。」Iはあまり気にとめもせずにその日はそのまま自宅へ帰った。
 次の日、Iが学校へ向かう途中、後ろから来た友人のXから「おい、Hが死んだんだぜ」と言われた。
「何を馬鹿な冗談を言っているんだ」と怒って言い返すと、「ちぇっ、もう、いいよ」と言って、Xは先に走って行った。
 学校へ着くと、Oが近づいてきて「おい、大変だぞ。Hが死んだぞ」
     …パシッ!
 Iは思わずOの頬を叩いてしまった。
 「冗談にしてもほどがある。許せん!」
 「クソー、わからんやつだな!」とOは寄宿舎へ走っていき、新聞をひっつかんで戻ってきた。
 「ほれ、見てみろよ!」

昭和17年4月27日(月)の東京朝日新聞 ↑第一面 ↓社会面

昭和17年4月27日(月)の読売新聞↓

 Iの証言からすると、当時、兄Hは一人で歩くことができる程度の目の状態であった。たぶん、視野が狭くなる「視野狭窄」だったのだろうと推測される。

 U氏の邸宅は、かつて「二六新報社」の社長であり、衆議院議員であったTA氏の邸宅の敷地内にあった。この敷地内にTA氏を家長として親類縁者、書生、女中など総勢三〇数人が暮らしていたのである。
 T子と同級で、しばしばU氏方に遊びに行っていたM女史は次のように言う。
 その年のお正月、子ども達は羽付に興じていた。そして、H子の番になった。H子は、羽子板に羽を当てられないばかりか、全然見当違いなところで羽子板を振っている。母親はその様子を見て愕然とし、暗澹たる気持ちになった。兄Hばかりか、H子も…。
 そして、あの日、母親は三人の子どもに、紅茶を入れ、おいしいケーキを食べさせた。「明日はみんなでお出かけをするから、よそ行きの服を用意しておきましょう」とでも話していたのだろうか。発見された時、テーブルに紅茶やケーキの後が残っていた。そして、三人の子の枕元にはよそ行きの服がきちんとたたまれて置いてあったという。

 U家の密葬が終わった後に、T先輩やI先輩たちがU家を訪問すると、一人残された父親が対応してくれた。祭壇の上に3人の子ども達の遺骨が白い布に包まれて置かれていた。そして、その祭壇の下の畳の上に、母親の遺骨がおかれていた。
 U氏は縁側から外の庭を指さした。
 「このチューリップは、私たち親子5人で、冬の間に植えておいたものです。」
 そこには色とりどりのチューリップの花がみごとに咲き誇っていた。
 TやIたちは、たった一人この世に残されてしまった父親とともに、縁側にたたずみ、春のやわらかい陽射しの中でいっそう可憐さを増すたくさんのチューリップを前に、ただ、ただ、あふれる涙をぬぐうのだった。

 その後、彼等はまた護国寺に新しく立てられたばかりのU家のお墓にお参りにいった。下の写真はその時の撮られたもので、同じく長男Hの同級生であるT先輩からお借りしたものである。

 「実は、」とI先輩は言う。
 「僕はHの父親のU氏の経営する鉱山の会社への就職しないかと、U氏から言われていたんだ」
 「これからは、聾唖者もその力を生かして仕事をしなければね。君は是非私の会社に入ったらいいよ」と。
 U氏は聾唖者に理解のある人だった。また、彼等の祖父ともいえるTA氏もまた人間の平等ということに非常に敏感な人物であったことが知られている。その一家の戸主として非常に厳格であったTA氏は、この3人の聾唖の子ども達のことについては、いつも温かいまなざしをそそいでいたという。
 それなのに、何故…と思う。
 本土が空襲にやられたということと関係しているのだろうか。母親は、厳しくなる戦局を察し、聞こえない、見えない子ども達を抱え、もう守っていくことができないと絶望したのだろうか。

 僕はホームページにこの事件のことを書こうと思い、先輩たちや同級生に話を伺った。これらの証言を裏付け、正確を期するために、あらためて当時の新聞や関連資料も集めてみた。
 12月のある日曜日、僕は護国寺にあるというU家のお墓を訪ねていった。護国寺内でお墓の場所を訪ねた。U家の墓はこの写真にあるものとは既に異なっていた。I先輩の証言によるとU家の墓は3度改葬されているという。U家の墓は、生前の彼等の家と同じように、TA氏の墓所の敷地内に立てられている。昭和33年に父親が亡くなった後、また昭和53年に改葬され、それが現在の墓になっているようだ。その時に立てられた卒塔婆と思われる3枚が、風雪にさらされ、すでに黒ずみ端が欠けて、侘びしげに立っていた。
 私は、TA氏の遺族が先のお彼岸の時にそなえたと見られる仏花が枯れているのを取り去り、新しい仏花をそなえ、新鮮な水で墓を清め、お線香をあげ、手を合わせた。
 学校の先生達は、この事件のことをひた隠しにし続けたけれど、君たちがこの世に存在していたことは絶対に忘れないよ。必ず語り継いでいくからね。君たちのこと、この事件のことを…。なぜなら、君たちは僕らの仲間なのだから。君たちの運命は僕らの運命と重なっているのだから。(最近の新聞記事はこの問題が今もなお新しい問題であることを示している。)
 僕は君たちの戒名をここに記そうと思う。このページを読んでくれる僕らの仲間達の記憶に深く刻まれるように。
   興照院慶雲道讃居士 昭和17年4月26日没 行年17才
   清觀善童女     昭和17年4月26日没 行年15才
   妙淳善童女     昭和17年4月26日没 行年11才

 先日、この三人の兄妹の同級生たち三人(I先輩、T先輩、M女史)と集まった。そして、久しぶりに、このU三兄妹のこと、事件当時のことを語り合った。来年の4月26日の命日には、当時の同級生たちみんなに声をかけて護国寺へお参りに行こうと決めた。僕らはもう齢六十代後半から七十代になっている。