駅の所在地
名古屋鉄道株式
会社名古屋本線
東岡崎駅
愛知県岡崎市

=注釈その他=
(1)
1941年
1943年
1944年
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この日誌は、太平洋戦争末期の昭和20年4月27日から同年8月29日までの東岡崎駅班の日誌である。 日誌は全て私が記録するように先生から指示されたので、現在、手元に残っている。日誌ノートは 国語のノートで紙質がよくない。毎日、1ページずつ2段に分けて書いてある。
愛知県岡崎市立三嶋国民学校高等科二年、現在の中学二年生である。 当時は、男子組と女子組に分かれていた。
東岡崎駅(5名)、美合駅、本宿駅、市内電車の車庫、後の半数が工場であった。
本土決戦の様相が濃くなったので、戦時非常組織として、岡崎、太田川、刈谷、渥美、 須ヶ口、岐阜、犬山、瀬戸に管理部を4月1日より新設。名古屋本社と独自で活動できるようにした。岡崎では、駅の 東の近くにあった。
TOP電車は信号によって安全に運行されている。信号機の表示は、赤、黄、青で、信号機の種類は、
豊橋から来た電車が東岡崎に着き、名古屋方面に向かう場合、写真のようになる。
閉塞信号機(閉塞については別に述べる)が青ならば進行する。




駅では、毎朝、要員以外、駅長室に集まって朝礼を行う。このHPでは、適当に内容を省いて ある個所もあるが、標準的な内容は次のようになる。一同礼・神棚に礼・神宮、宮城遥拝・黙祷・信条または 安全綱領または輸送訓・点呼・駅長殿の話(伝達、訓話)・時計合わせ
TOP他の駅へ出かける時に使用する定期券のようなもの、どんな時でも、名鉄全線無料である。 しかし、実際には、ほとんど、改札を敬礼することだけで通った。
腕章によって、駅の一員であることを知らせた。学徒は学校通学時代の戦時の服装(ゲートル使用)で、 あった。
信号とポイントが連動して表示される表示板

駅構内のポイントを集中管理しており、ポイントの切り替えをここで行う。どのように切り替えたかは、 信号所内の表示板に示される。同時にポイント付近の信号の表示も切り変わる。
TOP線路の分岐点。先のとがった2本のレールを動かして分岐の方向を切り替える。信号所で集中管理する手動式
と、単独で手動で切り替えるものがあった。現在は、ほとんど電動式になっている。
次の写真は、だるまポイントで、引き込み線で使われていた。単独、手動で半円の黒と白の上下によって
線路の切り替え方向を確かめた。

次の写真は、本線より引き込み線へのポイントで、現在の電動式である。当時は、信号所よりの手動式で あった。

皇居の方向に向かって最敬礼をすること。神宮遥拝は伊勢神宮に・・・。
戦地で戦死した兵士、戦っている兵士に対して、感謝と必勝を祈念しての黙祷。
敵の飛行機が近づいているから注意せよ、という警報。ラジオやサイレン で行われた。
地面に人が入れる巾の広い溝を掘り、溝の端を出入り口として、上から横木や板の上に土をかぶせて、中に いる人を防護した、空襲警報の時の避難場所。
本土決戦に備えての義勇兵役法の準備ためのものか、今となって思い出せない。なお、住所、氏名、血液型の布製名札はみんな付けていた。
敵の飛行機が襲ってくるから注意せよ、という警報。ラジオやサイレンや 鐘を鳴らしたり、警防団が大声で知らせた。
TOP職場の人々の士気を高めるための運動。具体的に何をしたか覚えていないが、沖縄決戦中、大都市への空襲激化の 時期である。
一人ひとりの名を呼んで、出席者を調べること。番号を一人ひとり、言って調べる場合もある。
名鉄線及び沿線の様子を見て覚え、乗客の質問に答えられるようにするため、休日に出かけて覚えることをすすめられていた。
毎週木曜日が休日
線路の分岐点で、レールは鉄板上を滑って動くので、動きをよくするために、鉄板をつるつるに磨く仕事。

写真の矢印の鉄板。ここでは少し錆びて茶色になっている。
駅前始発のバスは、全てかどうか覚えていないが、代燃車で短く切った薪を燃料とした木炭バスを覚えている。車体の後ろに円柱形のストーブをつけたようになっていて、 その中に木片を詰め、燃焼によりガスを発生させて走るのである。したがって、走り出す前に手回し送風機を使い、準備に時間がかかった。

名古屋市博物館特別展ちらし

動員期間中、病気で校長先生、同級生で2名、岡崎空襲で同級生1名(後日判明)、動員前の三河地震で先生1名が亡くなった。
集札所で電車から降りたお客さんの切符を受け取る仕事。発着駅の確認をすばやくしなければならないから、混雑が終わるまで忙しい。定期券は期間 と有効期間を通り過ぎる間に見なければいけないから、慣れるまで期間を要した。初めのうちは、お客さんを追いかけていって見せてもらったこともある。
上り線や下り線の電車が一定距離内に来ると、駅長室の、上り線、下り線の表示のあるボックスが点灯し、ブザーで電車の接近を知らせる。

写真は現在のもので、当時は木製の枠でスリガラス内の電球が点灯した。
昭和16年12月8日に太平洋戦争の宣戦の詔書が発せられたので、開戦にあたる8日に、その詔書の奉読を、謹んで聴いたのである。

車両と車両をつなぐ装置で、一方の車両を他の車両に軽く当てるだけで、自動的に連結されるようになっている。解放するにも手間がかからないように なっている。

食糧不足で主食の米等、配給制で大人一人、昭和17年より一日分2合3勺(345g) あったが、動員学徒や軍需産業労働者には、特別に配給があった。
top駅の近くにある神社で、毎月、太平洋戦争開戦日の8日、必勝祈願の参拝をした。
各学年一回の定期検査のように思う。
現在のように電動式ではなく、信号所内にはテコがあり、テコの下からは、パイプ状のものが連なって、 分岐点の動くレールまで達していた。人力で動かすので力を必要とした。

写真は、信号所のものではないが、よく似ている。
貨物入れ替えの時、連結器を手動で解放させること、貨車と貨車とのブレーキ用ゴム管の連結や取り外し、 電気機関車から突放された貨車にぶら下がって指定の場所で止まるよう、ブレーキテコに体重をかけて止めること。 等が仕事の内容であるが、時には低速の貨車から飛び降りるようなこともあった。

白い板の上に乗り、左下の赤矢印のブレーキテコに体重をかけて、指定位置に止まるようにする。右上の 赤矢印は、連結器を解放する手動の鉄棒である。
結核菌感染の検査のための注射。当時は、一度、結核になると治りにくく、死亡率も高かった。
top戦争協力のため、産業報国会(産報)というものがつくられていたが、この会員として守るべきことを 箇条書きで述べたものではないかと思われる。

客車でも貨物車でも、列車のブレーキは、圧縮空気の力による。圧縮空気を制御するのは、運転室で 運転手がする。他の車両にはゴム管によって圧縮空気が送られる。各車両には、ゴム管と金具がが付いて いて、握手をするような形でゴム管が連結される。私達は、貨車については、連結をしたことがある。 貨車と貨車の間に身を入れてやらなければならないので、気持ちのよいものではなかった
防空頭巾をかぶって乗客も含めて全員、防空壕に避難する。奥に入ると外の様子が分からなくなって しまうので、入り口付近にいる人もいた。動員直前に同じ防空壕で、入り口付近の人が、流れ弾か何かに 当たって怪我をしたそうで、私達は先生から注意されていた。
top主なものは、3月12日B29、130機、名古屋中心一帯を空襲、5月14日B29、440機の大空襲。次いで、5月17日の空襲に よって、本社や神宮前駅が焼失した。
米軍の爆撃機は、高空を飛行する長距離爆撃機B29で、両翼に2つずつのプロペラが付いている大型の飛行機であった。
与圧乗務員室を持っている。上昇限度は9710mで、最大速度は575Km/h。日本のゼロ戦は上昇限度は11
050mで、最大速度は545Km/h。日本のゼロ戦で迎撃するために飛行しても、その高度に達するまでに時間を要し、
B29の高度に達しても、その間に敵機は去り、また、20mmの機銃で撃っても、損傷を与えることが難しかったそうだ。
艦載機は米軍の航空母艦から発着する、小型の飛行機で、機銃掃射、小型爆弾で低空から攻撃してきた。
敵の爆撃機等の飛行機を攻撃する火砲。命中すれば爆発し、命中しなくても、一定の高度になれば爆発 するようになっている。
各列車には番号がつけられている。その列車については、各駅 共通の番号で呼ばれている。上りは偶数で、下りは奇数になっている。
縦軸に各駅を駅間の距離に応じて、位置を定め、横軸を時刻として、電車の運行の様子を表わしたグラフ。 実際のグラフについては、別ページに掲載。
TOP

客車のように前後に車体が長いものは、前部で車軸と車軸の距離を短くした台車があり、後部も 同じようになっている。このようにするとカーブでも無理なく通れる。
パンタグラフ(バネ式)

電車は、線路の高い所に張ってある架空線から、パンタグラフにより、電気を取り入れて走行する。 当時は、豊橋から金山橋まで直流1500ボルトで、金山橋から岐阜までは600ボルトであった。そのため、 豊橋、岐阜間の直通電車がなく、中間駅の神宮前、金山橋を連絡する電車があった。運行図参照。なお、現在は、ほとんど全線,直流1500ボルトであるが、新岐阜駅前,黒野方面は600ボルトである。
空襲により、建物、施設、車両、人員に多くの被害を受けている。幸い、東岡崎駅は残ったが、貨物
の方では、被害を受けている。(記録によれば、本社と14駅舎が焼失し、車両全体の25%が損害を受け、
駅の20%は駅務休止になった。)
新入生の人達
新入生は、名鉄の社員として1年生の人、名古屋の高校生(今の)で動員されてきた人等、若い男女 がいたが、今、思い出しても区別がつかない。中には、少女歌手もいた。このような時に今までどうしてきたのだろうと思ったら、「兵隊さんの慰問で歌っていて、兵隊さんから可愛がられた。」と言っていた。終戦後、ラジオでこの少女歌手の歌をきいたことがある。終わり頃には、若い憲兵もいた。
電車を待つ乗客の安全に注意。乗客案内。乗降が円滑に出来るようにする。満員電車ではみ出た乗客の押し込み。 発車準備完了の確認などであった。電車が発車、進行する時には、気を付けの姿勢で、車掌に敬礼してホームを 電車が去るまで見送った。
TOPレールの枕木の下には、砂利石が敷いてある。その理由は、・草が生えない。・荷重を分散して均等に地面 に伝える。・水はけがよい。・弾力性がある。等であるが、砂利と土の境目付近の長く伸びた草を取って見通しをよくした。 駅の構内だけであったように思う。
当時のものは分からないので、現在、名鉄で、これに相当するものは、次のようである。
「安全三つの誓」
・私はケガをしな
いことを誓います。
・私は同僚、部下にケガをさせないことを誓います。
・私は災害の起こりそうなところをなくする
ことを誓います。

1 安全は輸送業務の最大の使命である。
2 安全の確保は規定の遵守及び執務の厳正から始まり不断の修練によって築きあげられる。
3 確認の励行と連絡の徹底は安全の確保に最も大切である。
4 安全の確保のためには職責をこえて一致協力しなければならない。
5 疑わしいときは手落ちなく考えて最も安全と認められるみちを採らなければならない。
電車到着時の安全のためのホームの白線か、乗降位置を示す白線である。
米軍は、一般に対しては無差別で焼夷弾による焦土作戦だったが、初めて一面の焼け野原を見た。
4月1日に米軍は沖縄に上陸し、6月23日日本軍は全滅することになる。この時は、決戦の最中である。 戦争遂行のために、貯金、国防献金は、国としても必要とするところである。
名古屋空襲によって焼かれた神宮前駅や、線路の復旧作業の人達の食事を、岡崎で作った。一般の人達 が欲しがっている白米の握飯が主であった。
top全て人力による機械式で、柱上の腕木の上下によって、信号を表わすものである。ポイント切替に連動 している。横ならば停止、下がっていれば進行。

三河鳥羽駅で見たのは、気動車である。ガソリンカーが戦時で使用休止になり、2台を代燃車に改造して使用していた。ガソリン カーの一方の端にガス発生装置を取り付け、木炭を燃焼してガスを発生させ運転した。

パンチ(改札ばさみ)で切符を切るのであるが、切り取る形は、駅によって異なり、後で乗車駅を調べる時に分かるようになっている。パンチには バネがないので、パンチを調子よく扱うまでには、手が痛くなった。今度、到着する電車の停車駅等の案内、発着駅、日付の確認、を手際よく やらなければいけないので、慣れるまでは緊張した。
当時(昭和17,18年頃)の改札口の写真は,「リンク」ページから他サイトで見られます。
上り線、下り線への通路は平面交差であり、また、引き込み線のある構内は、用事があれば自由に通っていたから、慣れることによる油断 への注意である。引き込み線の離れた所に停車中の回送電車で弁当を食べたこともある。また、架空線は高圧線であるから、不測の事態で触れることの ないように注意。岡崎返しの終電車は、東岡崎駅到着後パンタグラフを下ろして一泊するので、翌朝、駅員が電車の屋根に登ってパンタグラフを上げる場合もあるそうである。高圧線の近くに行くので、初めての時 はとても緊張するそうだ。感電すれば弾き飛ばされて線路上に落下して絶命することあると聞いたこともある。
駅名が空欄になっていて、駅名の印を押した。いつもの仕事と違って、 事務室の事務の雰囲気であった。こういう所もあるんだなと思った。
TOP複線では、列車の追突を避けるために、決められた一定区間(各駅間)に一列車と定められている。 このようにすることを列車閉塞という。次の区間の電車の有無は信号で知らせる。 電車の運行が予定通りでない場合など、駅と駅で電話で連絡しあって列車の運行をする。


貨物列車だけに用いた牽引動力車で、関係者はデキとよんでいる。
ある区間のレール、その区間にいる電車の車軸、他方のレール、と電流が通じて信号機 の電気回路ができたときに信号が働く。ある区間と隣の区間のレールは電気的に 絶縁がしてある。

他のレールの継ぎ目は、電気が通じるようになっている。また、継ぎ目は、熱膨張でレールが伸びる余裕がとってある。

貨車を行き先順に並べ替えること。引込線にある貨車を、電気機関車が引いたり、押したり して貨車の前後の位置を変えて、貨物列車を編成する。
TOP貨車の入れかえは、赤と緑の手旗を待った手旗信号手の手旗の合図によって、電気 機関車の運転手は、電気機関車を前後に動かし、貨車を連結させたり、解放して、 貨物列車の編成を行う。また、直接に貨車を扱う貨車係として活動する者も、手旗信号手 の合図を見て仕事を行うのである。手旗の動かし方により、突放(貨車を低速で押して 切り離す)、突放してその勢いで連結、連結のため前進、接近したから徐行、停止、 何番線に移動などを知る。
上り、下りの本線にも番号が付いているが、駅の構内で枝別れしている線にも番号が付けられている。
神棚

戦時下においては特別の祈願もあったが、安全祈願という点においては、当時も今も変りなく、当時の様子と同じである。
建物等を爆撃機から落とす焼夷弾による火災の時、消火に用いるための水をためておく貯水槽。
組織的な集団活動を通じて、海洋関係の訓練を行い、心身を鍛える少年団
食糧不足による成長期にある青少年への影響を考えてのことだろう。
物資が不足している時であり、窓のガラスがすぐに補充できない場合もあった。また、車両 酷使のため、故障も多かった。
TOP手回し式で、ベルの鳴らし方が、呼び出し先の駅によって異なっていた。モールス信号 のようなものである。呼び出される方も、自分の駅の信号を聞き分けて、受話器を取るのである。
駅の人達も、学徒に手伝いをやらせることについて心配したようで、管理部長が見て、「少年には 危険だから、やらないでよい。」とのことで、それ以後、手伝いは中止された。
本日の仕事の終了の報告と帰りの挨拶を目的としたものである。ホームに整列して やっていたので目立ったが、途中から、場所を変えた。
電車が安全に通行できるよう、レールや枕木の修正や交換、線路の砂利や土盛りの部分の維持を業務とする事務所。
食糧は配給制で量が少ないので、家庭では野菜、野草類を入れて、水増しした雑炊を食べた。7月 からは、配給量が少し減った。雑炊の鍋の底までこすりとって食べるようなありさまであった。
TOP衣料品や寝具も不足していて、購入は切符制であった。どこの家庭でも、古い衣料品を再利用などして苦労していた。真新しい ふとんなど欲しくても手に入らなかった。
信号が赤ならば、その前方閉塞区間内に列車がいることを表わす。黄ならば、その次の区間に列車がおり、 青ならば、前方二つの閉塞区間の本線上に列車がいないことを表わす。
列車が出発進行する時、ホームの仕事をしていた者は、通過していく車掌に対して敬礼して見送った。 列車の最後尾がホームを出るまで、安全確認のため緊張をゆるめず、直立不動の姿勢でやるようにとの注意である。
スピーカー。マイクも今より大きく、真空管の時代である。故障の原因は知らされなかったが、 日誌に情報云々とあるのは、いかにも戦時下らしい。
TOP駅員に配給されるコウナゴの佃煮は油紙に包んで縄でしばってあった。名古屋から満員電車で運び、 東岡崎駅に着いて、電車の中央付近から引きずって出口に向かったところ、油紙が破れてしまった。 すると、目の前にコウナゴが通りすぎていくのを見た、乗客の数人が、コウナゴを少しずつ手に取って 食べた。量としてはわずかのことだが、思いがけないことであった。食糧不足で皆、飢えているのである。
乗客数に比べて電車の本数が少なく、その理由は、工場で働く人達の輸送、食糧不足による買い出し、疎開者、 戦災者の移動などであった。私達も用事で名古屋へ行く度に超満員を経験した。貨物も、軍需品、食糧の輸送 のため、車両が不足していた。 もっとも、駅から物資運搬等のために回送電車で名古屋へ行った時は、ほかに誰もいなく、楽しかった。
学校での軍事教練の内容は、整列、分列行進、一人一本ずつの竹の棒を小銃ととして持ち、銃剣で 突く練習、手旗信号などが思い出される。
TOP鉄道は重要であるから、停電はあまり無いはずだが、変電所が空襲にあったのか、故障なのか分からない。 岡崎空襲の時でも、停電にならないうちに、駅構内にある電車を、美合駅まで、カーブも限度いっぱいの全速力で避難させた そうだから初めから停電ではないことになる。
レールの上を、人力で押して動かす運搬車。保線で使用する、人が乗って人力で動かすものもある。

当時は、貨車専用のホームがあり、そこで荷物の積み下ろしが行われた。鉄道中心の時代である。
召集令状がきて、兵隊として、指定された兵営に入ること。応召者のために周囲の人達は,武運を祈って日の丸に寄書をしたり、お祝いの流れ旗を掲げて兵隊送りをした。


貨物車の種類には、無蓋車、有蓋車、その他いろいろある。次の写真は無蓋車、有蓋車である。


特に1945年(昭和20年1月13日)三河地震の時は、余震の頻発で2週間位、外で寝た家も多い。空襲で頭上をB29の 爆音が響き、地震と空襲警報で睡眠不足になった。それ以来、地震は収まったが、夜の空襲警報で 落ち着かない日々が続いていたのである。
TOP名古屋は何回も空襲にあっているから警戒警報での緊張が、私達と違っていることを感じた。やがて、私達も同じようになる のだが。
袋に入った切符の売り上げ金を、出札の駅員の人について、銀行まで持って行った。銀行では別室で金額の調べが行われた。
米軍の上陸に備えて全国民が戦う計画だから、学徒義勇隊も軍に協力態勢を整えるために結成された。
「・・その任、実にかかりて、汝等青少年学徒の双肩に在り・・」昭和14年5月22日の勅語
歌詞「海行かば水漬く屍(かばね)、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、返りみはせじ」 万葉集・大伴家持の長歌の一節。昭和13年に作曲された、戦時愛国歌であるが荘重で悲壮感のある 歌。

現在ならヘルメットというところだが、当時は、図のような綿入りの頭巾を、各自が携帯していた。空襲の時、頭巾をかぶり、頭部を守った。なお、爆弾に対しては、地面に伏せて、両手で眼球と耳をふさぐよう教えられていた。 住所、氏名、血液型を記した布の名札を頭巾と服につけていた。
TOP当時は岡崎市内を市内電車が走っていた。その車両整備のための車庫にも、勤労動員で同級生が配備されていた。
海軍の戦況悪化により、特に海軍の戦力の回復を図ったようである。少年志願兵対象は、旧制中学校生徒、 国民学校高等科生徒を対象
当時、普通に使用されていた荷物運搬車。どちらも人力で、リヤカーは、自転車で引くことも出来た。
駅員は国としても、輸送での活動が必要とされる要員のため、青年がいたが、この人達も兵隊に行くように なってきて、戦局の切迫を感じてきた。
次の写真は、連尺小学校七十周年記念で配られた絵葉書の写真の一部分である。

小学6年生の時である。一番手前は、運動場の一部の畑の手入れをしており、その向うでは、竹の棒を銃として行進 の練習をしており、その向うではラッパの練習をしている。全景の左の方では、男子が乾布摩擦をしたり、女子が薙刀(なぎなた)の練習をしている。
TOP駅員で兵隊に行く人を身近に見て、動員学徒にいろいろな実務を教えられたことが、一層、よく分かってきた。 私、自身は市の図書館で鉄道に関する本を借りてきて読んだ。将来、駅員が勤まるように。
TOPSince2000/4/1
2000/4/5@niftyで今日のVippieとして紹介される。
2000/6/28戦後編として「戦後の映画館のちらし」(noframe)作成
夢カウンタ設置
2000/7/26終戦8月15日の新聞のtop見出しの写真挿入
2000/8/11読者の思い出ページ増設
2000/9/17「映画館のちらし」写真付63,題名と主演者名のみ255に増加する。
2001/7/19 Vippies認証マーク
2001/9/5 太平洋戦争開戦の号外、米軍の落下傘ニュースを追加
2003/3/1駅の写真追加
2003/11/30海軍工廠慰霊塔,国鉄の安全綱領、木炭自動車のちらしの写真挿入
2004/4/3日の丸の寄書・出征を祝う流れ旗の写真挿入
2004/7/12連尺小70周年写真全景追加
2004/11/12電車運転の説明加筆
名鉄資料館展示物
鞍ケ池名鉄屋外展示車両
名古屋鉄道社史及び名鉄発行図書
岡崎交通公園展示車両
名鉄施設
佐久間RP
岡崎市史その他
8/15の新聞コピー・所持者のご好意による
開戦の号外、落下傘ニュース、いずれもコピー
付記
日誌は、言うまでもなく実際の記録である。朝礼など同じことの繰り返しは、ここでは適当に省いてある。今まで発表したことはなく、現在、手元に保管している。列車運行図表(ダイヤグラム)は、当時、駅員からもらって私が使っていたものである。