日本企業の経営者はしきりにグローバル化というが、僕は2つのことを言いたくなる。英語もしゃべれずに何がグローバル化だ、ということ。もう一つは、国内の外国人問題さえ知らずに何がグローバル化だ、ということ。
在日外国人問題、なかでも在日コリアンの問題が、僕らにとっていちばん身近な「国際問題」であることは、否定できない事実だ。
かく言う僕も2年前、会社の労働組合の掲示板に、マイクに向かって叫んでいる中年男性歌手のポスターを見て、「しけた演歌歌手のコンサートの宣伝なんかしてんじゃないよ」と思ったものだ。去年『コリアン世界の旅』を読んで、その歌手が在日コリアン二世の新井英一であることをはじめて知った。
僕らの親の代にとっては、とくに僕のように大阪のコリアンタウンの近くで生まれた者の両親にとっては、在日コリアンの問題は触れずにすませたい問題だし、僕自身にとっては、放っておけば一生触れずに通り過ぎたであろう問題でもある。
たしかに、今まで欧米に追いつくことだけを考えてきた世代にとっては、それで良かったかもしれない。しかし僕らは、日本が国際社会で一人前と認められるかどうかが問われる時代に生きている。とても在日の問題に無関心ではいられないだろう。
自分の住んでいる国が、今までどのような外国人政策をとってきたか、それは、グローバリゼーション時代の国際人にとって「常識」であるはずだ。
今のこの国の社会は、できれば在日外国人問題に触れずにすまそうという世代が作ってきた。だから、僕らは意識的に努力しなければ、正確な知識を得られない。
そういう自覚から僕は、『コリアン世界の旅』を読んだことをきっかけにして、個人的な努力をしているところだ。ただ、1年やそこらでまともな認識を持てるほど、在日コリアンの問題は単純ではない。まだ努力は続くと思う。
先日、名古屋国際センターにフランス語の雑誌を読みに立ち寄ったとき、偶然、この記録映画のパンフレットが目にとまった。2月22日、名古屋市総合体育館の「サン笠寺」というホールで上映会があるという。
そして今日、上映30分前に訪れた会場はざっと600人ほどのキャパシティーで、開演時間になり呉得洙監督のあいさつが始まるころには、8割以上の席が埋まった。
30代後半以上の人たちがほとんどだったのは、ズバリ「在日」と銘打った映画に対する世代間ギャップだろうか。僕と同世代の在日コリアンは、むしろ長野オリンピックの最終日を楽しんでいたのかもしれない。
記録映画・戦後在日五〇年史「在日」は4時間をこえる大作だ。前半は日本の戦後史を在日の観点から描いた年代史。後半は、世代の異なる6人の在日個人の視点からの戦後史になっている。
いずれもその豊富な内容を要約することは不可能なので、個人的に気付いたことだけを感想として書き記したい。
前半部分で、僕が初めて知ったことがある。映画「在日」のパンフレットで、和光大学講師のロバート・リケットが詳説しているが、在日外国人に関する、日本とGHQのスタンスの違いだ。
まず、僕らが世界に類を見ない「平和憲法」として誇りにしている日本国憲法だが、外国人の人権に関する限り、マッカーサー草案と、実際に施行された日本国憲法を比べるとわが目を疑いたくなる。
■マッカーサー草案
「すべての自然人がその日本国民であると否とを問わず、人種、性別、国籍などによって差別されてはならない」
■現在の日本国憲法
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
また、マッカーサー草案の第16条「外国人は法の平等な保障を受ける」という条項は丸ごと削除されている。
もう一つ知らなかったことは、憲法施行の前日、1947年5月2日に、旧憲法下最後の勅令として、「外国人登録令」がギリギリすべりこみセーフで発令されている事実。
さらに、吉田茂といえば終戦直後の日本を担った政治家として、誰もが敬意をもってその名を口にするだろう。しかし、1949年に吉田首相は、GHQが閉口するほどくり返し朝鮮人全員の強制送還を訴えている。その理由は、在日朝鮮人には共産主義者や犯罪者が多いというトンチンカンなものである。
その吉田首相の発言は、アメリカ公文書館には一言一句正確に記録として残されているが、日本の外務省文書からは、その部分だけが不自然な白紙ページとして削除されている(映画の中にその白紙ページが登場する)。
「まぁ、昔はそうだった。吉田首相といえどもやはり時代の子で、チョーセン人に対する差別は拭い去りがたかったのだ」と、納得するのは性急だ。
例えば、1984年4月13日、当時の法務省外国人登録課長は、指紋押捺拒否裁判の証人として次のように発言している。
「外国人と内国人を区別する基準は、究極はその国に対する忠誠の質と度合いにある」
「(国に対する忠誠というのは)一番簡単に申しますと、危急存亡のときに鉄砲を持つということ」
昔話ではないのだ。このような発言を読むと、僕は「日本人」としても、そら恐ろしい気持ちになる。そのうち本当に鉄砲を持たされるのではないか、と。
ちょっと前まで付き合いのあった、在名古屋の中国系フランス人の友達が、電話で話してくれたことがある。
ある日突然、彼は入国管理局に呼び出されたという。すっぽかすと面倒なことになるので、何か月も前に予約したロックコンサートのチケットを泣く泣く破り捨てて出向いたところ、何のことはない、管理局側の手違いで、彼のミドルネームがファーストネームとして登録されていただけだった。
そういうことが、今も行われているのが、日本という国なのである。
映画の後半は、6人の在日コリアンのインタビューから構成された個人史になっている。
前半部分も、大島渚の助監督からスタートした呉監督のドキュメンタリー作家としての手腕が発揮され、単調になりがちな記録映画に、「観せる」ための工夫がちりばめられている。
それぞれの時代を象徴する流行歌が挿入されたり(70年代でカルメン・マキの『時には母のない子のように』が流れたのは個人的に「グッ」ときた)、映像のカットに先行して入ってくるSEや、インタビューに重なるイメージカットなど、派手さはないが退屈でもない演出は確かに成功している。
しかし、この4時間におよぶ記録映画の白眉はやはり、後半の個人史であり、その中でも最初に登場する79歳の在日一世婦人の章だろう。
この老婦人は、パチンコ店の景品交換で生計を立てながら、女手ひとつで子供をそだててきたが、1960年当時、家族が撮影したフィルムが残っていたらしく、その白黒フィルムが、青森へ湯治に向かう現在の老婦人の姿のカットバックとして挿入される。
このカットバックが、鳥肌が立つほど美しいのだ!家族が撮影したというフィルムが、効果的な俯瞰ショットなど構図がすばらしい!というのもあるし、呉監督の構成力も叙情的でさえある。
とくに家族の撮影した白黒フィルムのカットバックから、ロープウェイの車窓を流れる霧ぶかい山の情景への転換に、婦人の懐述の音声だけが重なるシーケンスは、この映画でもっとも美しい瞬間である。
この老婦人が、終戦直後の困難な生活を、内容にそぐわないとぼけた口調で語るのに、ホールの観客たちからどっと笑いが起る。差別ゆえに日本人よりもしたたかに生きてこざるを得なかった在日コリアンの生活力が、このどっという笑い声に端的に現われている気がした。
後半の他の部分は、じっさいに上映会場に足を運んで見ていただく他ないだろうと思う。
もちろん新井英一も登場するし(新井英一の章が終ると、ぽろぽろと観客が帰り始めてしまったけど、やっぱ人気あるんやなぁ)、一部の日本人にも熱狂的なファンを持つイ・ジョンミさんも、チラッとだけ登場して歌声を聴かせてくれる。
21歳のころ日立の就職差別裁判に勝訴して、現在、日立ソフトで勤続25年の表彰を受けたばかりの朴さん、日本テレビの新人カメラマンの玄さん、1958年ベストセラーになった『にあんちゃん』の著者の娘で、東京農大の女子大生、李さんなど、今の日本で、それぞれの世代の在日の人々が何を考えながら生きているか、貴重な肉声も聴くことができる。
わけもなく胸いっぱいになって上映会場を後にした僕は、一方では大学時代、女性ばかりの中ひとり男として女性学会に出席したときのような自己欺瞞の意識を抱かざるをえなかった。たしかに上映会のチラシには、「国籍を問わず一人でも多くの人に見ていただき」と書いてあったが...。
だが一方で、映画の途中でこくりこくりと舟をこぎだすおばあさんや、ところどころ客席からあがる笑い声、僕のとなりで、20代前半とおぼしき女の子に、必死で映画の内容を説明して聞かせる大柄な青年など、スクリーンに展開するおぞましい差別の歴史を、距離を置いて眺められる余裕が雰囲気として感じられた。
フェミニズムの問題同様、日本人である僕が、在日の人々と手をとりあうことは永遠にできないだろう。しかし、おたがいを正しく理解するための環境は整いつつあるのではないか。
もちろんそのためには、まず正しく知ることであり、知った上でよく考えることだ。繰り返して言えば、在日の問題を知らずして、グローバル化も何もない。
ちなみに、この映画のエピグラフとして、チェーホフ「三人姉妹」の次のような一節が引かれている。
やがて時が来れば
どうしてこんな事があるのか
何んのために
こんな苦しみがあるのか
みんな分かるような気がするわ
(なおこのページは、映画「戦後在日五〇年史」製作委員会に公認されたものではなく、ページの作者個人の感想として記したものです)