最近、橋口亮輔(1962年生)『二十才の微熱』、日垣一博(??生)『いさなのうみ』、篠原哲雄(1962年生)『月とキャベツ』と、立て続けに日本の「若手」と呼ばれる監督の作品を観る機会があった。
この3人の監督には、テーマの選び方や演出手法にそれぞれに個性があり、ひとくくりに論じることはできないが、それでも彼らの映画の中には共通の表現が観られる。
まず、脚本とその演出法で目につく点をあげてみる。
(1)登場人物どうしの決定的な対立を描かない
(2)ワンカットが長い
(3)カメラがあまり動かない
(4)俳優の演技に抑揚がない
キーになるのは(1)かもしれない。(1)がなければ、短いカット割りの原因になる切替しショットも不要だし、したがってカメラが動く必要もない。さらに、俳優がことさら語気を強める必要もない。
では、彼らの扱っているテーマが対立と無縁かといえば、必ずしもそうではない。『二十才の微熱』においては、男を相手に売春行為を行う男友達に苛立ちを隠せない女子高生がいるし、ゲイ・バーのマスターの情人と、そこで働くアルバイト学生の確執もある。
『いさなのうみ』では、捕鯨・反捕鯨という明快な対立図式があり、それを具現化するものとして、鯨漁師の息子と転校生の美少女という対立がある。
『月とキャベツ』には、「死すべき人間」と「不条理な死」という対立がある。台風による土砂崩れで死んだはずの少女は、自分の死を受け入れられずに亡霊としてさまよう。その亡霊と出会ったミュージシャンも、彼女を生身の人間と考える以上、死の不条理さに怒りを覚えざるを得ない。
河瀬直美の『萌の朱雀』では、一人の青年をめぐる、義母と妹の三角関係や、開発か自然保護かという典型的な対立もある。
これらはむしろ当然のことで、正=反=合という弁証法的な展開は、あらゆる「物語」の本質であると言ってもよい。
では彼らは「物語」を回避したいために、対立を描かないのか?必ずしもそうではなさそうだ。物語を排除した映画は、必然的にゴダールのような異常なほどスタイルを意識した形式になるはずであるが、彼らの映画は、ちゃんと物語の映画のスタイルになっている。
ほんとうに物語を排除したいのなら、『二十才の微熱』はゲイ社会のさまざまなエピソードのコラージュになるだろう。同性愛が異性愛的なロマンチシズムのアンチテーゼであるならなおさらのことだ。
ところが、実際の『二十才の微熱』は、同性愛の世界と異性愛の世界が境界なしに描かれることで、日常の物語性(愛憎・嫉妬...)が同性愛の世界を侵食してしまっている。確かに2つの世界の差異を強調することは、反同性愛の言説への加担になるが、『二十才の微熱』はあまりにその差異に「無関心」である。
『二十才の微熱』におけるスタイルは、あまりに「日常的」なのだ。固定されたカメラの前で延々と演じられる日常は、それがわざわざ映画にされることによる異化作用を狙っていると考えるにはあまりに素朴すぎる。日常的なスタイルに安住して、異性愛のためのスタイルを案出することを怠っているだけではないか。
また、『いさなのうみ』においては、監督自身が脚本を書き、確信犯的に捕鯨・反捕鯨の対立を描こうとしているにもかかわらず、観客は映画が始まった瞬間から和解しか見出すことができない。すでに別項で述べたとおりである。
『月とキャベツ』がラブストーリーであることは言うまでもない。しかもこの映画は、生と死という和解不可能な対立を扱っているが、監督はそれを描くことを完全に放棄してしまっている。ヒロインの「ハナビ」という少女が生きていようが死んでいようが、この映画の出来はまったく変わらないだろう。
仮に篠原監督が、ハリウッドの『ゴースト』という、同じく亡霊と生身の人間の恋愛を扱った映画から少しでもインスピレーションを得ているなら、霊媒師ぬきですませたことは『月とキャベツ』の致命的な欠陥である(『ゴースト』は、生と死の「媒介」を用意した点で、ラブストーリーの弁証法的な展開に非常に誠実だ)。
彼らのスタイルは必ずしも物語を脱しようとしていないのに、物語を描くことにも失敗している。この中途半端さが、彼らの映画を観たときに感じる隔靴掻痒の原因なのだ。
ではもう一歩踏み込んで、彼らのスタイルと意図の不整合はどこから来ているのか?それは名作映画の良き観客としての冷静さと、作り手としての「情熱」の齟齬だろう。
僕らは、劇場だけでなく衛星放送やビデオなどのメディアで、日常的に多くの名作に触れている。良き作り手であるには、まず良き観客である必要がある。しかし、良き観客が良き作り手であるとは限らない。
彼ら「若手」が自分のスタイルに持っている自信は、実際には彼らが日常的に目にしている名作群ににじみ出た巨匠たちの自信を、自分のものであるかのように錯覚しているだけである。
たとえば「固定ショットの長回し」は、一本の映画の文脈や、タルコフスキーなどの作家の作品群と切り離しては存在価値がない。習作としての模倣なら理解できるが、映画作家はスタイルとテーマの一致(あるいは意図的なずらし)に意識的であるべきだ。
だから橋口監督における「固定ショットの長回し」は、カメラのことを、まるで回すだけで撮影対象を監督の意図どおりに描き切る魔法の道具のように錯覚している。あるいは、観客の想像力に甘えている。
そのように安売りされたスタイルに、僕らが「あっ、これは××監督的な手法だな」というリファレンス以上のものを観ることは難しい。彼らが映画手法をよく知っているということは伝わるが、それ以上のことは伝わらない。
本気で脱=物語の映画を目指すなら、構成やスタイルの革新に野心的に取り組む必要があるだろうし、物語を描きたいのなら、それにふさわしいカット割りや演出をすべきである。どちらをも避けようとする彼らの映画に、いったい僕らは何を観ればいいのだろうか?画面が大きくなっただけの、TVドラマか?