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![]() 快樂不快樂一直王菲 ( 19971011 ) EMI移籍第一弾のフェイ・ウォンの新譜は、移籍などお構いなし、相変わらずの王的フラクタル・ポップスを聴かせてくれる。彼女の楽曲は、大陸的な雄大さと、米粒に文字を書くようなミニマリズムが奇妙に同居した上質のポップスである。 フェイが幼い頃に歌手をこころざすきっかけになったのは、言うまでもなくテレサ・テンの存在であるが、テレサの日本での楽曲のように、うす暗いホテルの一室が似合うウェットさとは正反対に、フェイの声は狭い香港の空をつきぬけて、見わたす限りの平原に広がっていく。 また、フェイ・ウォンは(図らずも柳美里と同じく)中島みゆきを敬愛しているが、中島みゆきの楽曲のような永遠にふり切れない怨念とはほど遠く、アフロディーテがすべての恋人を空から見まもるように優しく歌いかける。 フェイはたびたび中島みゆきのカバーをしており、5曲目の「人間」はなんと中島みゆきがフェイのこの新作のために書き下ろした曲だ。必ずしもオプティミスティックとはいえない詞とは裏腹に、フェイの声は恋愛の本質はハッピーエンドであると主張するように聞こえる。 フェイが演歌的なウェットさを免れているのは、テレサのハスキーボイスがぞくっとする低音を響かせるのに対して、出産を経験した女性とは思えない少女のナイーブな声を保っているからだろう。
そして、このアルバムの「人間」が何度聴いても中島みゆきに聞こえないのは、正確に音階をなぞるフェイの発声がなめらかな曲線を描いて転がっていくからである。まさに京劇の節回しに聴くことができる玉を転がすような装飾音の職人芸が、中島みゆきのペシミズムを、上海の喧燥に混じって聞こえてきそうな、楽天的な中国歌唱に変えてしまっている。 サイボーグのようなモーツァルトのアリアでもなく、クォータートーンとペンタトニックというワンパターンなフレーズしか持たないブルースでもなく、あまりに中国的なミニマリズムがすべてをフェイのものにしているのだ。 もちろん、だからといってフェイが「中国的」という限界を意識させるわけではない。彼女のアルバムを聴いたことのある人は、彼女が意図的に一曲ごとに歌唱法を変えることを知っているだろう。 デビューしたての高校生バンドのボーカルのように、舌足らずに、ぶっきらぼうに、わざと微妙に音を外しながら歌う3曲目の『悶』は、アレンジまでうすっぺらなギターポップになっている。 また、ファルセット(裏声)を多用して技巧的に歌う曲は、たいていムーディーな仕上がりだ。ひじょうに素直に、ポップスの王道をいく10曲目のようにニュートラルな歌唱もある。 さらに、彼女はよく知られているようにバックコーラスも自分で録音する。テレサ・テンのトリビュート・アルバム『菲靡靡之音』以来のオリジナルな「ひとりコーラス」は、山下達郎のコーラスがそうであるように、彼女の切り札になっている。 しかし、山下達郎のコーラスがあくまでフィル・スペクター流の「厚い音」へのオマージュであり、シンフォニックな響きであるのに対して、フェイのコーラスは、メロディーとはまったく独立した旋律が不思議なからみあいを見せるポリフォニックな多様性であるか、あるいはあえて部分的なハーモニーにとどめる抑制された洗練を見せている。 このアルバムでは、クレジットにわざわざ「All vocals: Faye Wong」と断ってある4曲目『娯楽場』が、ポリフォニックな「ひとりコーラス」の典型となっている。部分的ハーモニーとポリフォニックのもっとも美しく技巧的なサンプルを、『菲靡靡之音』の2曲目、『(ni)在我心中』に聴くことができる。 あるときには、フェイの声はボーカルであることをやめ、ギターやシンセサイザーのような楽器と化している。このアルバムでは8曲目の終り近くに、鳥肌が立つほどすばらしいアドリブを聴くことができる。 このアドリブは、ポップス歌手や演歌歌手が得意とするペンタトニックによるアドリブの枠を軽々と超えて、まるでフルート協奏曲のカデンツァだ。たとえばアルバム『浮操』(ほんとうは手へんでなく足へん)の、ほとんどがスキャットだけで成立っている2曲目、意味不明の言語(?)で歌われている3曲目・6曲目を聴けば、彼女の声だけで十分に音楽が成立ってしまうことを思い知らされるだろう。 いったいこれほどまでに多様な声を持ち、演歌、童謡、ポップス、バラード、ロックを自分自身のものにしてしまう個性のあるシンガーソングライターがいるだろうか?フェイのアルバムを聴けば、いまだに黒人霊歌の域を出ない英米ポップスがいかにも退屈なものに聞こえてしまうだろう。
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