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神の寛容
( 19971025 )

Japanese/English

気の早いことに今村昌平の『うなぎ』がビデオ化されたので、さっそく観てみた(劇場へは行きませんでした、ごめんなさい今村監督)。

やたらと金をかけたハリウッド映画ばかり観ている人にとっては、なんでこれがカンヌ映画祭グランプリ?ということになるだろうが、カンヌってのはそういうところなんだよ!映画は金かけりゃぁイイってもんじゃないんだ!(失礼)

主人公(役所公司)が妻を殺害してから仮出所までの8年間を、ワンカットですっとばす冒頭の省略法が、この映画の基調となる奇妙な滑稽さを生み出していて、とくに凝ったカットバックもなく(ごくありきたりの回想シーンのためのカットバックはあるが)時系列にそった淡々とした話法そのものが、今村監督の人間に対するまなざしを現わしている。

この映画を観ながらエヴァンゲリオンのことを思い出したのは、妻の不倫に逆上して妻を殺した主人公が、人間不信から抜け出せずに葛藤する様子が、エヴァに描かれた人間不信のテーマと重なったからだ。

エヴァが決してオプティミスティックな結末を許さなかったのに対して、「うなぎ」はとても希望に満ちたエンディングになっている。しかし、「うなぎ」はエヴァでも提出されている「他人をどこまで信じることができるか」という疑問を克服したために、希望に満ちた結末になっているわけではない。まったく逆に、そうした疑問を突き詰めることを放棄しているのだ。

放棄しているというのは、無責任に問いそのものをあきらめたという意味ではない。主人公は自分が助けた自殺未遂の女性と新たな生活を約束した上で、ふたたび刑務所に戻っていくが、それは飽くまでスタートに過ぎない。エヴァの結末も、シンジとアスカにとってはスタートに過ぎない。

ただ、スタートに立つ姿はまったく違う。シンジやアスカは、二人きりで取り残されたあとも、やはり本当に正しい人間の姿を求めて、他人を100%信頼できる生き方を目指して、ストイックに生き続けるだろうことは想像にかたくない。

しかし、今村監督は、人間に神様のまねができるわけなどないことを知っている。「うなぎ」の主人公は、不倫した妻を決して許すことが出来ないからこそ、殺害してしまった。これは、エヴァの碇シンジが、ネルフの人類補完計画という陰謀を決して許容できなかったからこそ、エヴァに乗って戦わねばならなかったのと同じである。

殺人を犯した段階での「うなぎ」の主人公と、エヴァのシンジたちチルドレンは、純粋すぎるのである。部分的な正義を認めるわけにはいかないからこそ、シンジたちは徹底的に戦うし、「うなぎ」の主人公は妻を殺す。飽くまで人間は完全に正しく生きることを目指さなければならないと彼らは考えている。

エヴァンゲリオンが最後まで悲劇的だったのは、シンジが最後まで純粋であり続けたからである。最後まで妥協を許さず、他者の他者性と格闘し続けた。これに対して、「うなぎ」の主人公は最後には妻を許している。不倫を犯すことは人間の弱さであるが、これを許すことから初めて新しい生活が始まるのだ。

「うなぎ」がカンヌのグランプリをとったのも、この「罪の許し」というテーマがきわめてキリスト教的なものだったからかもしれない。主人公は妻を許すことで、殺人を犯した自分自身の救いも得ている。人の犯した罪を許すことは、すべての人を許すことであり、すべての人を受け入れることだからだ。

シンジたちは、罪を許すには幼すぎると言える。ただ、逆に言えば、僕らはそんなシンジを許すことができるのかもしれない。ある意味で人は一度はシンジのように純粋な正義を求めて苦しみを味わうべきなのだ。一度も純粋な正義を求めたことのない人間には、許すことさえできないだろうから。

あまりにも主題にかたよった鑑賞になってしまったが、「うなぎ」は金をかけるわりに安っぽいハリウッド映画のような、気取った照明もBGMもない、冒頭に触れたように凝った編集もない。役所公司がうなぎの水槽に飛び込む幻想シーンも素朴な味わいでさえある。

ドキュメンタリーを気取ろうと手持ちカメラがぶれたりする場面もない。最後の床屋での格闘シーンも、むしろしっかりしたカメラワークである。過剰に理屈っぽいシナリオでもない。柄本明が花火に照らされた水面から突然あらわれるシーケンスなどは、詩的でさえある。

映画が映画であるシンプルさを堪能できる意味で、僕の大好きなヌーベルバーグに近い今村監督の「うなぎ」のスタイルは、テーマ以上に気に入ってしまったということも付け加えておきたい。

ちなみに...

折りよく、ご本家フランスのカイエ誌11月号の表紙は、うれしいことに『うなぎ』のワンシーンで飾られ、ティエリー・ジョスによる批評でも取り上げられている(今日10月26日、愛知芸術文化センターのライブラリーでたまたまカイエの最新号を見つけたのだ)。

ジョスの批評は大きく『うなぎ』のスタイルとテーマに分けて論じられている。

スタイルについては、この作品が最後まで底知れぬ深さをただよわせるような薄暗い表面であり続けている、と述べている。僕が前のページでのべたように、この映画は明確な断罪や選択があるわけではない。それを、主人公の乗った釣り舟がすべってゆく川面に読み取ったジョスの批評は、なるほどと思わせる。

また、『うなぎ』の視点のオリジナリティーにも言及している。このときジョスが注目するのが、水槽という装置である。うなぎが飼われている水槽は、水族館のことを思い出せば分かるように、ふつうはわれわれがその外部から、水槽の内部にある対象を眺めるという視点を現わしている。

ジョスは、このような水槽としての映画は、デュビビエからシャブロルにいたるフランス映画の十八番だったとまで言っている。確かに彼らの映画に見られるように、登場人物の運命から距離を置いたシニカルな視点は、フランス映画的なものといえるだろう。

しかし、ジョスは従来のこのような視点を転倒したところに今村監督の独創性があると述べている。つまり、今村監督の映画は、水槽の内部から、水槽の外部でくりひろげられる人間たちの悲喜劇を見つめる視点そのものであるという。要は、うなぎこそが今村作品の視点だということだ。

そのように水槽の内部から見つめる視点は、外部から見つめる視点のように、倫理的な判断を下すことがない。ただ見つめるだけのニュートラルな視点であるとジョスは評している。これが、『うなぎ』の登場人物たちが決定的な悲劇をまぬかれている理由かもしれない。

さらにジョスは『うなぎ』の主題についても一言で要約して、いかにして人間性を回復するかであると述べている。もちろんこれは主人公が映画の冒頭で妻とその愛人を殺すという、もっとも非人間的な行為を行ってから、いかにして人間性をとりもどすかの経緯が映画のテーマであるという意味だ。

ただしここでもジョスは、最終的に完全に人間性を回復したか否かは、はっきりしないままだと言っている。決定的な何かを欠いているのは、主題のレベルやスタイルのレベルだけでなく、『うなぎ』が明確な形式をもっていない点にも現れているという。

確固たるフォルムを持たないことで、『うなぎ』を未完成だと難じる意見に対して、ジョスは『うなぎ』がそれを超えた、魅力そのものであるような映画であると擁護する。決定性を免れていることによって、逆に『うなぎ』は人間のもつ全体性を回復しえているのではないか?僕はそんなことを考えた。

たぶん日本のカイエ誌にも、じきに邦訳が掲載されると思うのでお楽しみに!


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