think or die :
1970年代生まれの
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客船死してCGを残す
話題の超大作!!!!!『タイタニック』
1998/06/14

映画そのものとしては、100年近くにわたってハリウッド映画で撮影されてきたものを一旦、アクション、ラブロマンス、サスペンス、パニック、などのジャンルに分解して、ふたたびこれらの断片をコラージュすれば、『タイタニック』になるという程度で、この映画には、新しいもの、創造性なるものはまったく存在しない。

一貫して沈没当時の物語が語られるのだろうという予想に反して、タイタニック号遭難の生存者である女性の現代の姿と、当時の物語のカットバックという二重の構成になっている。

カットバックの手法といえば、フェイドイン・フェイドアウトや、ワイプなどが思い浮かぶが、この映画では最新のCG技術を駆使したという宣伝文句にたがわず、ひじょうになめらかなモーフィングが多用されている。映画の途中に何度も登場するタイタニック号の俯瞰移動ショットについても言えることなのだが、かなり「くどい」。これでもか、これでもかというほど、このカットバックのモーフィングや、俯瞰移動ショットなど、CGのシーンがくりかえされる。

錆や藻が一面に付着した深海に沈む船体から、ワックスのきいた一等デッキへ、逆に、なめらかな白い肌のローズのアップから、年輪の刻まれた老女のアップへ。何度も何度もモーフィングによるカットバックが繰り返される。

そして、タイタニック号の俯瞰ショットは、なぜかつねに右舷を船首から船尾に向かって移動する。この映画に登場するCGのタイタニック号は、ほどんとつねに船首をスクリーンの右側に向けている。なぜか?たぶんCG作家が右利きだっただけだろう。

たしかに甲板を歩く蟻のように見える乗客たち(それが運命にもてあそばれた人々の隠喩だというのだろうが)もふくめて、CGはひじょうによくできている。沈没のシーンも、こっけいなくらいリアルにCGで表現されている。先に浸水した船首の重みに、船体のなかほどが折れて、沈もうとする船首にひきずられるかたちで船尾がシーソーのように海中へひきずりこまれる。

とにかく「こんな角度から見られたらいいのに」というあらゆる角度からの見た目が、CGによって周到に表現され、まさにかゆいところに手が届くサービスぶりなのだ。観客の潜在的な欲望にみごとにこたえた、顧客満足度100%のCG映像集である。

もちろんCGだけが技術的な優位ではない。物語の性質上、水に関わるシーンが映画のほとんどを占めるが、僕はこの映画で見るべきシーンは、2か所だけだと思う。ひとつは、冒頭の深海探査シーン。もうひとつは、沈没まぎわに、弦楽カルテットがゆったりしたテンポの曲(あれはなんていう曲だろう?)を演奏するが、それをBGMに、水面をさまようドガやピカソの名画。いずれもノイズがいっさい排除されたブルーを基調とする画面で、探査船のサーチライトや、水面の光沢が美しい。このあたりはJ・キャメロン監督の審美眼を信頼してもいいと感じさせる。

ただ、それ以外に、この映画に映画としての美しさがあるかと言えば、ひじょうに疑問だ。見世物としての面白さはたしかにある。1000人程度のキャパシティーの劇場で、大音響に全身を震わせながら見るには、ひじょうに楽しい映画である。しかし、200人程度のミニシアターでは見るに耐えない映画だろう。

また、この映画は、映像の面白さを見れば十分な映画である。広告戦略上、ポスターにはレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの顔が映っているが、ラブロマンスとしては頂けない。物語についてもちょっと触れておく。

ディカプリオの演じるジャックという青年は、ウィンスレットの演じるローズという、家系の存続のために鉄鋼王と望まぬ婚約をさせられた良家の令嬢を、上流階級の窮屈な生活から逃げ出される手助けをする。しかし、その役割を終えるやいなや、ジャックは北大西洋の海のもくずと消える。ローズはつかの間の恋を一生の思い出のように胸に秘めているが、ジャックは彼女が自由な生活を手に入れるための踏み台にされただけだ。

沈没の惨劇のカットバックが現代のシーンにもどると、深海探査船の乗組員は一様に涙をボロボロ流しているが、その表情のアップを見せられた瞬間に「なんじゃそれは」とまったくの興ざめ。

ローズを拘束しようとする鉄鋼王の御曹司と、自由な根無し草のジャック。窮屈で高慢ちきな上流階級と、自由で気さくな下流階級。そんなバカみたいに単純な善玉・悪玉のステレオタイプで、いまだに物語をつづってしまうところに、ハリウッド映画の下らなさがわかる。

下層階級を不必要なほど持ち上げるのは、歴史的にハリウッド映画の偽善的な良心そのものだ。ラストの夢の中の結婚式では、上流階級と下層階級が入り交じって「平等な資格で」列席しているのがお分かりだっただろうか?

したがって、この映画は物語(=脚本)にも見るべきところは何もない。むしろ、物語のことは一刻も早く忘れた方がいい。ただ、『いつか晴れた日に』や『乙女の祈り』で見ることができたケイト・ウィンスレットの芯の強い女性としての演技は、この映画でもある程度はうかがうことができる(その大部分は下らない脚本のせいでスポイルされているが)。いずれにせよこの映画の見るべきところは、ただただCGがうまくできている、というこの一点に尽きる(さすがDECのAlphaチップ!)。

というわけで、まだご覧になっていない方は、できるだけ大きな劇場で、なおかつ情報誌で最新の音響設備があることをチェックした上で、絶叫マシーンにでも乗りに出かけるようなつもりでご覧になるとよい。決してラブロマンスや、運命にもてあそばれる人間の悲劇や、輝くような映像の美しさなどといったものを期待してはいけない。