![]()
![]() 天空のポリフォニー ( 19971113 ) この文章を書いている11月上旬の時点での「Switch」最新刊にフェイ・ウォンの比較的まとまった量のインタビュー記事が掲載された。このインタビューに現れた彼女の音楽観は、期待に違わず彼女がほんとうの意味でのアーティストであることを示している。 その音楽観とは、彼女が歌詞の内容にほとんど関心がなく、メロディーこそがポップスの本質であると言い切っていることだ。彼女がメロディーを重視するのには二重の意味がある。言葉の意味に依存しない音のつながりそのものの美しさという意味でのメロディー、そして、ハーモニーよりもむしろ複数のメロディーのからみあいからなるポリフォニーの美しさという意味でのメロディーである。 音そのものの美しさという意味で、このインタビューで今後は広東語ではなく彼女の母語である北京語でしか歌わないだろうと彼女が語っていることは象徴的である。 僕はフェイ・ウォンを聴き始めて以来、個人的に北京語のアルバムしか集めていない。それは北京語学習の励みにしたいという個人的な理由もあるが、彼女の歌う広東語のアルバムは、北京から成功への野心をもって18歳で香港に移り住んだ彼女の作品としては、純粋な音楽作品以外の意味を持ってしまう。 そして何より彼女自身、北京語の音の美しさを愛している。単に母語であるというだけでなく、彼女にとっての音楽の原体験であるテレサ・テンと伝統歌謡の美しさが、北京語という形で彼女に痕跡を残していると言えるのではないか。 北京語の問題に加えて、彼女のメロディーそのものの美しさへの志向は、こきみよいほどにラディカルだ。このことは彼女の最近のアルバムに、スキャットだけからなる楽曲や、彼女自身が作曲したインストゥルメンタルという形で表現されている。 なおかつ、彼女のメロディーの美しさはそのオリジナリティーにも裏打ちされている。確かに彼女はコクトー・ツインズとのコラボレーションや、クランベリーズのカバーなどでUKポップへの接近を見せているが、それは乗り越えようとしても乗り越えられない壁や最終的な目標として彼女の前に立ちはだかっているのではない。 日本のメジャーポップスシーンのほとんどが、英米ポップスへのコンプレックスで塗り固められ、中途半端なユーロビート、中途半端なハードロック、中途半端なブラックミュージックで氾濫しているのに対し、インディーズシーンはときに偏執狂的なまでの、ギターポップ、テクノ、エスニックといったモザイク状の豊穣さを示している。 最近印象的だったのが、「ちんどん屋」のスタイルで「インターナショナル」(もちろん、あの「インターナショナル」である)や「アリラン」、沖縄民謡などを演奏するバンドのパワフルなアルバムである。ギターポップはやや食傷気味の感もあるが、まだ他のジャンルをのみこみながら爛熟していく余地はあるし、爛熟と退廃の香りこそがポップの本質を地でいくような真空の軽快さをもったギターポップにふさわしい世紀末でもある。 そしてフェイのポップスは香港のメジャーシーンにありながら、日本のインディーズに通じる豊穣さをもっている。フェイと同じくTIME誌の表紙を飾ったことのある日本のグループが、ついにブラックを越えることができないだろうと思われるのに対して、フェイの音楽的才能には異質な要素を受け入れるだけの十分な寛容さがある。ブラックミュージックに限りなく収束していくドリカムをよそに、フェイのポップスは中国的なものから出発し、異質な要素を次々に取り込みながら拡散していく。 その拡散の運動を支えているのが、ハーモニーに収束しないポリフォニックな彼女のポップスなのである。Switch誌のインタビューで、彼女はインタビュアーに、彼女のいくつかの作品がどれがメロディーなのか分からないような楽曲になっているという指摘をされて、まさにそれが自分のねらいだったと告白している。 彼女は一般にコーラスと言われる部分もほとんど自分自身で歌って録音しており、バックコーラスは聞こえてこない。よくコクトーツインズのオリジナルの音のぶ厚さに比べて、彼女のカバーが気のぬけるほどシンプルなアレンジになっているという評があるが、それは彼女がかたまりとしての音の美しさよりも、一つひとつの音の粒だった美しさとそれらの間の関係性に関心があるからだと言ってもいい。 僕らの国で山下達郎によって見ごとに模倣されたフィル・スペクター的な音響世界は、いってみればポップミュージックのなかでもロマン派に捧げられたオマージュである。これに対してバッハのポリフォニーや、一つひとつの音に関心を寄せる何人かの現代音楽の作曲者たちに接近しているのが、ボーカルそのものを多声的に構成するという独自の方法論をもつフェイのポップスであるといえる。 ボーカルそのものへと向かうフェイのストイックな創作活動の背後にあるのは、歌詞に依存しない純粋なポップスという彼女の思想の正しさであり、いくつもの声をもつ彼女のヴォーカリストとしての才能である。 彼女の最新アルバムが私小説でさえなく、あくまで音楽そのものとしての美しさを追求した結果であることは、母親になった彼女の歌が母性愛とはほど遠く(つまり、母親になった途端にお約束のように母性愛を歌う日本の某トップシンガーとはほど遠く)、依然として彼女のベストと目されている「天空」のように、国境のない空に響きわたっていることからも明らかなのである。 無断転載禁止
![]()
|