think or die :
1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集
>映画/音楽/書物を考える
>同月のブログ「愛と苦悩の日記」へ
勤勉さの罪
『踊る大捜査線』の職業倫理
2000/01/02

1月1日にフジテレビ系で放映されていた『踊る大捜査線 THE MOVIE』をところどころ観た。ラストのシーケンス。犯人逮捕で重傷を負った織田裕二がまだリハビリは無理だというのに、早く職場復帰したい気持ちをおさえられず松葉杖で病院の廊下を歩く。その「なにクソ!」という精悍な表情がアップになる。

何なんだあのエンディングは。高度経済成長下の「働け働け」という仕事至上主義の職業倫理をいまだに恥ずかしげもなく描くとは。いま日本の企業社会はglobalizationという口実のもと、米国のやっていることはすべて正しいと自ら思考停止してしまって、「株価を意識した経営」「コーポレート・ガバナンス」というかけ声で再び株式市場に投機的な動きをおびきよせつつあるだけである。ネット・バブルに手をこまねいて見ている。仕事至上主義、経済至上主義という単一的な価値観の袋小路にはまって冷静な判断を欠いていた前回のバブル崩壊から日本の企業人は何一つ学んでいないということか。

これからの社会はむしろ仕事から離れた一私人としてどう生きるかが問われているのではないのか。以前このページでも触れたように、某大手電機メーカーの元役員で今は海外協力基金のような組織の長になっている人物は「まず仕事ができなきゃ立派なボランティアなどできるわけがない」とのたまわっているが、ボランティアをサラリーマンの罪滅ぼしのように語るのはやめた方がいい。企業のメセナ活動をリードする人物の発言としては不適当極まりない。彼はNGOが競争社会の落ちこぼれの吹きだまりだとでも言いたいのだろうか。

なぜ日本ではこのような仕事至上主義の倫理観がいまだにまかり通っているのか。別の言葉でいえば、なぜ日本のサラリーマンは仕事以上に重要な意味をもつものを見出せないのか。『踊る大捜査線 THE MOVIE』のような映画が大きな疑問もなく日本人に受け入れられてしまっている(それどころか大ヒットした)理由の一つは「一生懸命仕事をすることは無条件に正しい」という高度成長時代の職業倫理がまだ根強く残っている証拠だ。バブルの再来も無理はない。

比較材料として先日僕が渋谷ユーロスペースで観たアッバス・キアロスタミ監督の新作『風が吹くまま』を考えてみよう。この映画の主人公はテレビ番組のディレクターで、地方独特の葬儀の風習を取材するため山深い村に撮影クルーとともに泊まりこむ。その村のある老婆が病気で余命いくばくもないことを知らされていたためだ。

ところが村に着いてみると老婆の病気は回復しつつあるという。テレビ局のサラリーマンとして主人公は一刻も早く取材を終えて帰らなければならない(滞在費もバカにならない)。しかし、だからと言って人の死を望むことはもちろん倫理に反する。

そのうち主人公は丘の上でひとり電話線の埋設工事に精を出す若者と知り合いになり、ある日、強風で生き埋めになった彼を助け出すという皮肉な役回りになる。もし彼を助けずそのままにしておけば葬儀の取材という仕事上の目的を達成できたにもかかわらず。

この映画の脚本でキアロスタミ監督は、職業人としての目的が人間の「生死」という倫理的命題と矛盾する場面をあえて持ち出している。ディレクターが仕事をするということが間接的に村人の死を期待するハメになってしまう点をあえて提示している。

それに対して『踊る大捜査線 THE MOVIE』はなんと楽観的だろうか。刑事という設定をすることで、仕事と倫理の予定調和を初めから前提してしまっている。「本当に仕事をすることが無条件に善なのか?」という、まさに今の日本で問われるべき問題から逃げてしまっている。そうして逃げたところに展開されるドラマが、単に組織人としての組織の内側での苦悩、たとえば上司や上層部との意見の対立や、昔ながらの中間管理職的な悩みにとどまるのは当然だ。

バブル崩壊後の今、日本のサラリーマンが問うべき本当の問題は、組織が全体としてうまく機能するために組織内部をどう調整するかなどという内輪の問題ではないはずだ。今まで日本の経済成長を支えてきた職業倫理がもはや妥当しなくなっていることを自覚する必要がある。その上で、本当に『踊る大捜査線』の織田裕二のようにがむしゃらに仕事をすることが正しいのかを問う必要がある。

イランのキアロスタミ監督が『風が吹くまま』で、会社員としての職業倫理が生命の倫理と矛盾する場面を提示できているのは、おそらくイスラム文化圏が近代化(西欧化)とイスラムの伝統の矛盾に直面しているからこそだろう。山村の老婆の死はイスラム革命の頓挫の象徴なのかもしれない。それでも一人の人間の死は、サラリーマンとしての仕事よりもはるかに重い。それは当然のことだ。

しかし一方の日本ではそんな当然のことが当然ではなくなっている。経済性・効率重視が原子力発電関連施設で一人の人間を犠牲にしている。一人の人間の命より作業の効率性の方が重要というのが、歪んだ職業倫理でなくて何だろうか。組織の目標にしたがって一生懸命仕事することよりもずっと大事なことが世の中には確かに存在する。そのことに気づけないとすれば、日本のサラリーマンはこれからも同じような過ちをくり返し続けるだろう。