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![]() 困難な希望 ( 19981001 ) 1997年ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した、台湾のツァイ・ミンリャン監督の『河』を観た。東京では8月上旬に封切られたらしいが、名古屋では1か月半おくれでの公開だ。 アジア映画というと雑然としたパワーの一言で形容されがちだが、ツァイ監督の『青春神話』(1992年)『愛情萬歳』(1994年)では、ゴダールを思わせるような冷淡な演出に驚かされた。三作目の『河』では、セリフや音楽をギリギリまで切りつめる演出がさらに押しすすめられている。 まず冒頭のエスカレーターのシーンが導入部としてはあまりに印象的だ。 上りと下りのエスカレータが、乗る人影もなくただカラカラと機械音をたてて動いている。BGMもない。このワンカットだけで、映画の通奏低音になる孤独を指し示している。あざやかな演出だ。 主人公のリーが映画の撮影現場に飛び入りで河に浮かぶ死体役をやる部分はいくらでも寓話的な解釈ができるが、マネキンと主人公のすりかえによって、生身の人間のもつ肉体とマネキンの、違いと類似が同時にきわだつ。 死体役を演じた直後のリーと旧友チェンのベッドシーンは、ラスト近く、首の病を患ったリーとその父親のゲイ・サウナでの近親相姦のシーンまで一貫した肉体のモチーフを導く。それは暗がり中で触れあう肉体である。 これと相反する次元として、水のモチーフが導入されている。リーが両親と住んでいるマンションで、父親の寝室の屋根から水がもれはじめる。これは映画の最後で、母親が階上の留守宅にベランダづたいに入って蛇口を閉めることで解決する。 つまり冒頭の撮影現場のシーンに、映画の主要な構成要素である水と肉体がすでに提示されていることになる。そしてそのどちらもが不条理な災難として提示され、水漏れは父親に、満たされない肉欲は母親に割当てられる。 この2つのモチーフが地だとすれば、その上に家族という図を書きこむ第三の不条理な災難は、もちろんリーの首の病気だ。家の近くの路地でバイクに乗っているリーが転倒する。そのとき強打した首が左に曲がったまま治らなくなり、リーは映画の最後まで首をグネグネと動かしつづける。 しかしそれらの災難は、絶望でもあり希望でもある。首の病はリーに、水漏れは父に、肉欲は母にふりかかるが、父はリーの首の病を必死で治そうと台北を旅立ち、母は水漏れを治そうと豪雨の中留守宅によじのぼる。 そうしておたがいの災難がおたがいの希望を産み出す装置にもなっている。河に浮かんだリーの肉体が死体でもあり、同時に生きている肉体でもあるように、災難は孤独を際立たせると同時にそれをいやす。 肉体や水のアンビバレントな役割の中にも映画が進んでいくのは、父と息子の近親相姦という最悪の悲劇の中にも、リーの病気の治癒という希望をみいだすツァイ監督の、希望へ向かう意思があるからだろう。 希望をもつのが困難であることには違いないけれども。 無断転載禁止
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