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![]() フレームの外の愛 ( 19971115 ) なにもない空間が虚しいとはかぎらない。 スチルショットが捕らえる登場人物が遠くを見つめる視線の先にあるのは、虚しい空間ではなく、静かな喜びや苦い悔恨をもって想い出すべき過ぎ去った一日一日の見えない光景だ。 カメラがゆっくりとパンする夏の吉野の青空は、ただなにもなく広がっているのではなく、これまでと変わることなく見下ろされる村人たちの日々のくらしの見えない反映である。 そして、線路のないトンネルの闇は、虚しく少年の声を響かせているのではなく、永遠に走ることのない列車の轟音への期待と、夢破れた男の見えない悲しみに満ちているのだ。 ふるえながら虚空を満たしている見えない想い出や見えない感情は、けっしてフィルムに定着されることはないけれども、ちょうど同じ虚空を見つめる登場人物の目には確かになにものかが映っているように、観客たちの心になにものかを確かに映じている。 いつからか映画は、ただでさえよく見えているものを、よりはっきり映し出すという不毛な営みに巨額の資金を投じる徒労を重ねてきた。精巧なSFXやショッキングでスピーディーな映像は、観客になんの痕跡も残すことなく虚しく過ぎ去っていく。 しかし映画のほんとうの力は、見えないものを見えないまま提示しながらも、それを観客にありありと見せることにあったはずなのだ。フィルムに見えないもののなかにこそ、映画が見せてくれるものが存在する。 河瀬監督の『萌の朱雀』は、見せるもの、語ることばをぎりぎりまで切りつめることによって、見えないものの言葉にならない言葉の力で僕らに語りかけてくる。 たとえば、ピアノのキーをひとつ指先で押したときの音色だけで、あふれ出す涙をこらえきれないほど胸がいっぱいになることがある。公園で犬とじゃれあっている幼い少女の微笑みをふと目にしただけで、息苦しくなる瞬間がある。 たったひとつの音や何でもない日常の風景がはらんでいる、山をわたり一面の草原を波打たせる風のような感情のうねりを、『萌の朱雀』の構成の美しさはみごとに伝えてくれている。 鉄道のためのトンネル工事にたずさわる父と、戦禍をふりかえって今のなごやかな生活を愛しむ祖母、母のおだやかな笑みに見守られる仲好しの従兄妹。ほとんど動きのないカメラが見つめる5人家族の一日は、一見あまりに平凡すぎすけれども、ふりかえって考えればその光景はすべての人にとっての「失われた日々」に重なる。 鉄道の敷設計画が中止になり、職を失った父が、ある日不意にみずから死を選ぶ。夫を失った妻の深い喪失感は、あのピクニックの日のような永遠かと思われた幸福に終りを告げざるをえなくなる。従兄にあわい恋心を抱いていた従妹は母とともに家を去り、あとには従兄と祖母が残される。 幸福な家族という幻のようなときは崩れ去ったけれども、残された4人をつなぐ見えないものはカットされたフィルムの外側に見えないものとして生き続けている。それはフレームの外、フィルムに定着できない見えないものだからこそ、観客の内部にじかに焼きつけられて生き続ける。 残された4人の家族は、ともに過ごす最後の日、父親が残した最後の8mmフィルムを観る。映画のラストでも、父の遺品を焼く従兄とわらべ歌を口ずさむ祖母を捕らえながら吉野の空にのぼっていく最も美しいクレーン撮影のあとに、父の撮影したあのピクニックの日のセピア色の8mmが引用される。 カメラが絶対に撮影することができないもの。それは、カメラをまわしている人物である。父の残した8mmには、父の姿を決して見ることができない。 しかし残された家族は、カメラの背後にいるはずの見えない父が見たかつての自分たち自身を見ることで、亡くなった父の限りない愛情を見ることができる。カメラがもっとも強く見せてくれるものは、カメラの背後にいる見えない者の被写体に対する愛なのだ。 そうして父は、残された家族をばらばらにさせてしまうことで、かえって彼らの絆を永遠のものにする。その8mmに託された愛は、この映画を撮った河瀬監督自身が、カメラの背後から、フレームの外側から、フィルムの外部に焼きつけた、見えない愛そのものなのかもしれない。
1994年『かたつもり』(8 mm/40min) 1996年『萌の朱雀』(35 mm/95 min) 無断転載禁止
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